記憶保持者
記憶の海。
世界から消された記録が眠る場所。
青白い光に包まれた無限の海原の上空には、数え切れないほどの白い扉が静かに浮かんでいた。
数千。
数万。
果てすら見えないほどの白い軍勢。
管理者。
歴史を監視し、世界を修正し、不要と判断した未来を切り捨てる存在。
感情はない。
慈悲もない。
あるのは、世界を維持するという絶対の使命だけだった。
静寂を破るように、無機質な声が響く。
『対象確認』
『記憶保持者確認』
『ルナリア・セレス』
『危険度──最大』
『排除を開始する』
その宣告と同時に、無数の管理者が一斉に右手を掲げた。
空を覆い尽くす白い光。
次の瞬間。
ドォォォォォォォォォォン――!!
轟音とともに光が解き放たれる。
世界が揺れた。
記憶の海が裂ける。
海面が激しく爆ぜ、無数の記憶の欠片が蒼白い空へ舞い上がった。
「ルナリア!」
クロノが叫ぶ。
「下がれ!!」
ルナリアが振り返るより早く、クロノは前へ飛び出していた。
両手を大きく広げる。
その瞬間、無数の時計が空間へ浮かび上がる。
黄金の歯車。
砕け散った未来。
失われた時間。
それらが巨大な円陣を描きながら、記憶の海を包み込んだ。
「止まれ……!」
クロノが低く呟く。
《クロノ・ドミニオン》
世界そのものへ干渉する時間結界。
禁忌と呼ばれる力だった。
放たれた白い光が静止する。
衝撃波も。
爆発も。
吹き荒れる風も。
響き渡っていた轟音さえも。
すべてが止まった。
ルナリアは息を呑む。
「止まった……。」
「まだだ。」
クロノは鋭く管理者を睨みつける。
「終わってない。」
その言葉を証明するように、管理者たちの銀色の瞳が一斉に輝いた。
『時間干渉確認』
『再編集権限発動』
ピシッ――。
嫌な音が響く。
クロノの表情が変わる。
「まずい……!」
次の瞬間。
時間結界そのものへ無数の亀裂が走った。
バキィィィィィィィン!!
結界が砕け散る。
止まっていた白い光が一気に解放された。
「ぐっ……!」
衝撃がクロノを飲み込む。
身体が宙を舞い、勢いよく海面へ叩き付けられた。
ドォン!!
水飛沫が高く舞い上がる。
「クロノ!!」
ルナリアが叫ぶ。
駆け寄ろうとした、その瞬間。
「来るな!!」
苦しそうな声が響いた。
クロノは海面へ片膝をつきながら、それでも立ち上がる。
口元から血が流れていた。
「……こいつらは敵じゃない。」
息を整えながら呟く。
「法則そのものだ。」
管理者は剣士でもなければ魔導士でもない。
世界を書き換える存在。
時間停止ですら、一行の情報として上書きしてしまう。
それが管理者。
世界の管理者だった。
ルナリアは唇を噛む。
その時だった。
無数の管理者が一斉に彼女へ視線を向ける。
銀色の瞳。
感情の存在しない冷たい視線。
『記憶保持者』
『ルナリア・セレス』
『存在確認』
『最優先削除対象』
その言葉を聞いた瞬間。
ルナリアの胸が大きく脈打った。
ドクン――。
「……記憶保持者?」
聞いたことのない言葉だった。
それなのに。
その響きだけで胸が締め付けられる。
クロノはゆっくり立ち上がる。
ルナリアを見つめながら、小さく息を吐いた。
「もう隠しても意味はない。」
「クロノ……?」
「お前だけなんだ。」
掠れた声だった。
「世界再構築のたびに記憶を失わないのは。」
ルナリアは目を見開く。
「……え?」
「本来なら、全員忘れる。」
クロノは静かに続ける。
「歴史も。」
「存在も。」
「感情も。」
「全部初期化される。」
静寂が訪れる。
波だけが静かに揺れていた。
「でも、お前だけは違う。」
クロノは真っ直ぐルナリアを見据える。
「魂が覚えている。」
「だから管理者は、お前を恐れている。」
その瞬間だった。
ドクン――。
記憶の海が大きく脈打つ。
ルナリアの身体から銀色の光が溢れ始めた。
「……っ!」
暖かい。
懐かしい。
頭の奥へ、膨大な記憶が流れ込んでくる。
見える。
忘れていた世界。
失われた歴史。
消された未来。
そして。
そのすべてに、一人の少年がいた。
シオン・アルヴィス。
何度世界が終わっても。
何度歴史が消えても。
何度未来が書き換えられても。
必ず誰かを守ろうとしていた少年。
ルナリアの瞳から涙が零れる。
「どうして……。」
映像が次々と流れ込む。
一つ。
二つ。
十。
百。
千。
数え切れない世界。
そのすべてで。
シオンは最後に犠牲になっていた。
世界のために。
仲間のために。
未来のために。
そして最後の記憶。
劇場版、最終決戦。
崩壊する空。
砕ける世界。
その中心で。
シオンは静かに笑っていた。
『これでいい。』
優しい声。
『みんなが生きられるなら。』
ルナリアは涙を流しながら首を振る。
「よくない……。」
声が震える。
「そんなの、全然よくない……!」
その叫びと同時に。
記憶の海が大きく爆発した。
蒼銀色の光が天へ向かって一直線に伸びる。
《メモリア・ルナ》
忘れられたすべてを取り戻す力。
管理者が最も恐れる奇跡。
世界改変すら超越する、記憶継承の力。
衝撃波が管理者軍団を吹き飛ばす。
『異常発生』
『観測不能』
『観測不能』
『観測不能』
管理者たちの演算が乱れる。
初めてだった。
完全であるはずの管理者が混乱を見せたのは。
その頃。
遥か王都セレスティアの空。
蒼黒い流星は、さらに大きく輝きを増していた。
シオンの帰還は、もう目前まで迫っている。
記憶の海最深部。
管理者神殿。
『最初の世界』の書を抱いた少女が、静かに空を見上げていた。
その瞳には、確かな確信が宿っている。
少女は小さく微笑み、静かに呟いた。
「やっと始まる。」
世界が忘れ続けた物語が。
本当の意味で。
再び動き始めようとしていた。




