最初の世界
世界が震えた。
まるで世界そのものが悲鳴を上げているかのように。
記憶の海。
管理者神殿。
王都セレスティア。
世界樹都市アストレア。
北方氷原。
海上国家マリネス。
世界中のあらゆる場所が、同時に大きく揺れていた。
原因は一つ。
少女の手の中で静かに開かれた一冊の本。
その表紙へ刻まれた文字。
『最初の世界』
その文字が淡く輝いた瞬間、世界の最奥へ封じられていた何かが静かに目を覚ました。
静寂の中、本がひとりでにページをめくる。
パラリ――。
誰も触れていない。
それでも、ゆっくりと次の頁が開いていく。
まるで本自身に意思が宿っているようだった。
少女は何も言わず、そのページを見つめている。
ルナリアも自然と視線を落とした。
そこに描かれていたのは、一枚の風景画だった。
大きく枝を広げた世界樹。
どこまでも続く青空。
穏やかな海。
街を行き交う人々。
一見すると今の世界と変わらない。
だが。
クロノは、その絵を見た瞬間に目を見開いた。
「……そんな馬鹿な。」
思わず声が漏れる。
ルナリアが隣を見る。
「どうしたの?」
クロノは絵から目を離せなかった。
「……いない。」
「え?」
「管理者が、一人もいない。」
その一言で空気が変わる。
ルナリアも改めて絵を見つめた。
確かにそうだった。
どこにも管理者の姿がない。
アーカイヴも。
AE-01も。
深淵の観測者さえ存在していない。
そこには、人々だけがいた。
笑い合い。
語り合い。
泣き。
怒り。
支え合いながら生きている。
誰にも管理されることなく。
誰にも観測されることなく。
ただ自然に、当たり前の日常を送っていた。
ルナリアは小さく呟く。
「これが……。」
少女は静かに頷いた。
「最初の世界。」
その言葉が神殿へ響いた瞬間、白い空間が低く震える。
管理者アーカイヴが反応した。
『記録矛盾』
『存在不能』
『世界定義と不一致』
銀色の瞳が激しく点滅する。
少女はそんな様子を見つめ、どこか寂しそうに微笑んだ。
「やっぱり……忘れてるんだね。」
アーカイヴは答えない。
いや、答えられなかった。
長い沈黙の末、初めて言葉を返す。
『……忘却?』
その声は僅かに揺れていた。
少女は本を胸へ抱く。
「あなた達が生まれる前の世界。」
静かな声だった。
だが、その一言は誰の胸にも重く響く。
ルナリアも。
クロノも。
言葉を失う。
管理者が存在しない世界。
そんな時代が、本当にあったというのか。
世界は最初から管理されていたのではないのか。
クロノがゆっくりと口を開く。
「待て……。」
額へ手を当てる。
「そんな歴史は、一度も……。」
少女が優しく言葉を続ける。
「残ってない。」
「全部、消えたから。」
クロノは息を呑む。
「……誰が?」
少女は答えない。
ただ静かに空を見上げた。
記憶の海の遥か彼方。
世界を越えて落ち続ける蒼黒い流星。
シオンの光。
その輝きを見つめながら、小さく語り始める。
「最初の世界には希望があった。」
再び本がページをめくる。
パラリ――。
そこには、笑顔があった。
家族。
友人。
恋人。
仲間。
誰もが当たり前の日常を生きていた。
争いもあった。
悲しみもあった。
それでも。
人々は未来を信じていた。
明日を疑わなかった。
少女はその光景を見つめながら、小さく息を吐く。
「でも……。」
その声だけが少し沈む。
「滅んだ。」
神殿が静まり返る。
誰も言葉を発しない。
少女は静かに続ける。
「人は希望を失った。」
「世界は壊れた。」
「そして――。」
ゆっくりと本を閉じる。
その瞳が微かに揺れた。
「観測が始まった。」
その瞬間だった。
遥か彼方。
深淵領域。
巨大な蒼い瞳がゆっくりと見開かれる。
深淵の観測者。
初めて、その存在が明確な反応を示した。
『観測禁止領域確認』
世界が震える。
神殿が軋む。
管理者アーカイヴが一歩後退した。
『危険』
『危険』
『危険』
銀色の瞳が激しく明滅を繰り返す。
それでも少女は表情を変えなかった。
穏やかなまま、静かに口を開く。
「だから、シオンは必要なの。」
ルナリアが勢いよく顔を上げる。
「え……?」
少女は微笑む。
「黒星王だからじゃない。」
「救世主だからでもない。」
「管理者を倒す存在だからでもない。」
その蒼い瞳は、真っ直ぐ流星だけを見つめていた。
優しく。
懐かしそうに。
何千年も前から知っている誰かを見るような眼差しで。
「彼だけが。」
一呼吸置く。
「最初の世界が失った答えを持っている。」
クロノの背筋を冷たいものが走った。
何か巨大な真実へ近付いている。
そんな感覚だけがある。
だが。
まだ最後の一欠片が繋がらない。
その時だった。
ドォォォォォォォォォォォォン!!
今までとは比べものにならない衝撃が世界を揺るがす。
ルナリアたちは一斉に空を見上げた。
蒼黒い流星。
その光が急激に大きくなっている。
「近い……。」
ルナリアが思わず呟く。
クロノも目を細める。
「ああ。」
「もう王都の上空だ。」
あとわずか。
本当にあと少しで届く。
少女はその光を見つめ、小さく笑った。
「始まるよ。」
その一言と同時に。
王都セレスティアの夜空が大きく裂ける。
轟音とともに、巨大な蒼黒い光の柱が天から降り注いだ。
王都中の人々が一斉に空を見上げる。
忘れられた英雄。
追放された存在。
歴史から消された少年。
その帰還の瞬間が、ついに訪れようとしていた。
そして。
王都の中心。
静まり返った石畳の広場で、一人の男がその光を見上げていた。
白銀の仮面。
漆黒の外套。
誰にも知られていない存在。
男は静かに口元を緩める。
「ようやくか。」
蒼黒い光が、その瞳へ映り込む。
男はゆっくりと呟いた。
「待っていたぞ。」
その声は。
まるで、シオンが帰還する日を最初から知っていたかのようだった。




