記録なき存在
コツ――。
静かな足音だった。
それなのに、その一歩だけで管理者神殿全体が低く震える。
記憶の海最深部。
誰一人として辿り着くことのできない白き神殿。
果てのない書架。
無限に積み重ねられた世界の記録。
そのすべてが共鳴するように揺れていた。
管理者アーカイヴは微動だにしない。
玉座に座ったまま、銀色の瞳だけを扉へ向けている。
だが、その演算だけは異常な速度で繰り返されていた。
『識別不能』
『解析不能』
『存在情報なし』
同じ結果が何度も表示される。
検索。
照合。
再検索。
再演算。
それでも答えは変わらない。
世界に存在するすべては記録される。
それが管理者の絶対法則だった。
しかし。
扉の向こうに立つ存在だけは違う。
存在している。
それなのに記録がない。
存在している。
それなのに歴史が存在しない。
存在している。
それなのに世界そのものが認識できない。
アーカイヴの演算速度は限界へ達する。
それでも答えは見つからなかった。
コツ――。
再び足音が響く。
静かな闇の中から、一つの人影がゆっくり姿を現した。
ルナリアは思わず息を呑む。
「……。」
クロノも言葉を失った。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
年は十六歳ほど。
腰まで届く長い銀髪。
透き通るような白い肌。
深く澄んだ蒼い瞳。
まるで月明かりそのものが人の姿を得たような、美しい少女だった。
しかし。
その姿を見た瞬間、全員が同じ違和感を覚える。
「……え。」
ルナリアは思わず目を擦った。
確かに見えている。
そこに立っている。
なのに。
一度視線を逸らしただけで、顔が思い出せない。
「どうして……。」
もう一度見れば分かる。
だが目を離すと、また輪郭が曖昧になる。
まるで世界そのものが、その存在を記憶することを拒んでいるかのようだった。
その時。
アーカイヴが初めて一歩後ろへ下がる。
『危険』
『危険』
『危険』
『最優先排除対象へ更新』
クロノの顔色が変わる。
「……冗談だろ。」
ルナリアが振り返る。
「知ってるの?」
クロノはゆっくり首を横へ振った。
「知らない。」
声が掠れている。
「でも……。」
額へ手を当てる。
「見たことがある。」
「え?」
「もっと昔だ。」
クロノの瞳が揺れる。
何万回も繰り返された世界。
何万回もの再構築。
その遥か昔。
世界という概念がまだ安定していなかった頃。
たった一度だけ。
同じ気配を感じた記憶があった。
だが。
そこから先だけが思い出せない。
記憶そのものが消されている。
少女は何も言わず歩き続ける。
コツ。
コツ。
コツ。
その足音に合わせるように神殿が震えた。
書架が軋み。
積み重ねられた記録が崩れ落ちていく。
アーカイヴが右手を掲げる。
『停止』
『記録領域への侵入を禁止する』
『対象を排除する』
神殿全体へ白い光が満ちる。
無数の光槍が出現した。
一本。
十本。
百本。
千本。
空を埋め尽くすほどの槍が少女へ向けられる。
『発射』
ドォォォォォォォォォォン――!!
轟音。
白い閃光が神殿を飲み込む。
空間そのものが崩壊し、記憶の海が激しく揺れた。
ルナリアは思わず目を閉じる。
クロノも腕で顔を庇う。
やがて光が消える。
恐る恐る前を見る。
少女はそこに立っていた。
傷一つない。
服の裾一つ乱れていない。
まるで何事も起きなかったかのように。
「……そんな。」
ルナリアが呟く。
クロノも絶句していた。
管理者アーカイヴですら沈黙している。
少女は静かにアーカイヴを見つめる。
そして、初めて口を開いた。
「久しぶり。」
優しい声だった。
温かく、どこか懐かしい声。
その一言だけで。
アーカイヴの演算が停止する。
『エラー』
『エラー』
『エラー』
銀色の瞳が激しく点滅を繰り返す。
少女は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「まだ続いていたんだね。」
その笑顔を見た瞬間。
ルナリアの胸が締め付けられる。
どこかで見たことがある。
誰かに似ている。
でも思い出せない。
少女はゆっくりと空を見上げた。
記憶の海の遥か彼方。
世界を越えて降り注ぐ蒼黒い流星。
シオンの光。
その輝きを見つめながら、小さく呟く。
「ようやく帰ってくるんだ。」
クロノの表情が変わる。
「お前……。」
少女がゆっくり振り返る。
蒼い瞳。
その奥には、無数の世界が映っていた。
滅んだ世界。
救われた世界。
終わりを迎えた歴史。
そして。
歴代の黒星王たち。
レイ。
シオン。
さらに、その奥には深淵の観測者の姿までも映っていた。
クロノは息を呑む。
「……何者なんだ。」
少女は穏やかに微笑む。
「もうすぐ全部動き出すよ。」
その瞬間。
遥か世界の果て。
深淵領域。
巨大な蒼い瞳がゆっくりと開かれる。
『観測更新』
深淵の観測者が反応した。
同じ頃。
世界と世界の狭間を駆ける蒼黒い流星の中で、シオンもまた異変を感じていた。
胸の奥が熱い。
誰かがいる。
自分を知っている誰かが。
世界再生よりも前。
さらに遥か昔から、自分を見続けてきた誰かが。
シオンは静かに空を見上げる。
そして、無意識のうちに呟いた。
「……誰なんだ。」
返事はない。
だが、その問いへ応えるように運命の歯車がゆっくりと回り始める。
少女の足元へ、一冊の本が静かに現れた。
誰も見たことのない漆黒の書物。
その表紙には、たった一行だけ文字が刻まれている。
『最初の世界』
少女が静かにその本を開く。
その瞬間――
世界そのものが、大きく震えた。




