記憶の戦場
記憶の海が揺れた。
静寂だけが支配していた蒼白い海面へ、小さな波紋が広がっていく。
一つ。
また一つ。
波紋は次第に大きくなり、やがて海全体を震わせ始めた。
まるで世界そのものが危険を知らせているかのようだった。
クロノはゆっくりと空を見上げる。
その表情から余裕が消えていた。
「……来る。」
低く呟く。
その一言だけで空気が張り詰めた。
ルナリアも異変を感じ取る。
胸の奥がざわつく。
息が詰まるような圧迫感。
「何……この感じ……。」
思わず胸へ手を当てる。
クロノは視線を空から逸らさないまま答えた。
「空気じゃない。」
「え?」
「空間そのものが書き換えられてる。」
その瞬間だった。
バキィィィィィィィン!!
轟音とともに空が砕け散る。
蒼白い世界へ巨大な亀裂が走り、その裂け目は一瞬で空一面へ広がっていった。
ルナリアは思わず息を呑む。
「嘘……。」
裂け目の向こう側には、何もなかった。
ただ白い。
どこまでも果てしなく続く純白だけが広がっている。
そして、その白の中から無数の扉が姿を現した。
一枚。
十枚。
百枚。
千枚。
数え切れないほどの白い門。
空という空を埋め尽くすように並び、そのすべてがゆっくりと開き始める。
ギギギギギギ……
重苦しい音が記憶の海へ響き渡った。
クロノが舌打ちする。
「チッ……予想より早い。」
「何が来るの?」
ルナリアが問い掛ける。
だが、その答えを聞く前に扉の奥から白い人影が現れ始めた。
白い外套。
銀色の瞳。
感情を持たない顔。
同じ姿。
同じ歩幅。
同じ無表情。
まるで一つの存在を複製したかのように、何百、何千という人影が静かに整列していく。
ルナリアは思わず後ずさる。
「あれが……。」
クロノが静かに告げた。
「管理者軍団。」
「世界編集兵。」
「世界に発生した異常を消すためだけに造られた兵器だ。」
その声には、普段の軽さは微塵もなかった。
管理者たちの先頭に立つ一体が、ゆっくりと前へ歩み出る。
銀色の瞳がルナリアへ向けられた。
『対象確認』
機械的な声が世界へ響く。
『ルナリア・セレス』
『クロノ』
『危険度──最上位』
『排除を開始する』
その宣告と同時に、空間全体が光った。
ルナリアは目を見開く。
「……っ!」
空という空に白い槍が現れる。
一本ではない。
十本でもない。
何百。
何千。
数え切れない光槍が空を埋め尽くしていた。
海の上にも。
頭上にも。
左右にも。
逃げ場は存在しない。
クロノがすぐに前へ出る。
「ルナリア!」
その声には焦りが混じっていた。
「下がれ!」
だが。
ルナリアは動かなかった。
ゆっくりと前へ踏み出す。
銀色の髪が揺れる。
「ルナリア!」
クロノがもう一度叫ぶ。
「聞こえてる!」
ルナリアは小さく返事をした。
それでも足は止めない。
「怖いんだろ!」
「怖いよ。」
即答だった。
その声は震えている。
肩も震えていた。
「だったら!」
「でも。」
ルナリアは静かにクロノを見る。
「もう逃げたくない。」
クロノは言葉を失う。
ルナリアは再び前を向いた。
管理者たちを真っ直ぐ見据える。
「ずっと守られてばかりだった。」
「ずっと……助けてもらうだけだった。」
静かな声だった。
「シオンは、いつも一人で戦ってた。」
胸が締め付けられる。
思い出せない。
全部は思い出せない。
それでも。
その事実だけは魂が覚えていた。
「今度は私が前へ出る。」
「同じ場所へ辿り着くために。」
クロノは何も言えなかった。
ルナリアの瞳に宿る覚悟が、本物だと分かったからだ。
管理者が右手を上げる。
『攻撃開始』
その一言で世界が動いた。
無数の光槍が、一斉に放たれる。
空間を裂く轟音。
記憶そのものを消し去る白い閃光。
クロノが叫ぶ。
「伏せろぉぉ!!」
しかし。
ルナリアは一歩も動かなかった。
ゆっくりと右手を前へ差し出す。
そして、小さく呟く。
「……お願い。」
その瞬間だった。
右手の甲に刻まれた月の王紋が、眩い銀色の光を放った。
ドォォォォォォォォォォン――!!
銀色の光が記憶の海全体を包み込んだ。
放たれた無数の白い槍は、その光へ触れた瞬間、一つ、また一つと音もなく消滅していく。
空を埋め尽くしていた白い閃光は跡形もなく消え去り、蒼白い海には再び静寂が戻った。
管理者たちの動きが止まる。
銀色の瞳が一斉に点滅した。
『解析不能』
『月の継承者出力上昇』
『危険度更新』
『危険度──最上位』
クロノは思わず目を見開く。
「……嘘だろ。」
目の前で起きた現象が信じられなかった。
月の王紋が、これほどの力を放つなど想定していなかったのだ。
ルナリア自身も驚いていた。
右手から溢れる銀色の光。
身体の奥底から湧き上がってくる温かな力。
まるで誰かが優しく背中を押してくれているようだった。
「これ……私……?」
胸へ手を当てる。
鼓動は速い。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
海が応えるように輝き始める。
無数の光が水面から浮かび上がった。
失われた歴史。
忘れ去られた人々。
消された文明。
封印された記憶。
世界中から奪われた記録が、一つ残らずルナリアの周囲へ集まってくる。
まるで彼女を迎え入れるように。
管理者軍団が僅かに後退した。
その様子を見たクロノは小さく息を呑む。
「管理者が……押されてる。」
信じられない光景だった。
管理者は世界を書き換える存在。
その管理者が、一人の少女を前に退いている。
銀色の瞳が激しく点滅する。
『危険』
『危険』
『危険』
『対象能力修正不能』
『戦闘プログラム変更』
ルナリアは静かに前へ歩き出した。
一歩。
また一歩。
月光を纏ったその姿は、まるで神話に語られる巫女のようだった。
クロノは思わず苦笑する。
「まったく……。」
「シオンが惚れるわけだ。」
ルナリアは少しだけ肩を震わせる。
「え……?」
「いや、今は気にするな。」
クロノは視線を管理者へ戻した。
「今は目の前だけ見ろ。」
ルナリアは静かに頷く。
そして管理者たちを真っ直ぐ見据えた。
ゆっくりと口を開く。
「返して。」
その声だけで空気が張り詰めた。
管理者たちが一斉に停止する。
「私たちから奪ったものを。」
声が震える。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
喪失。
すべての感情が、その一言へ込められていた。
「記憶を。」
「歴史を。」
一拍置いて。
ルナリアは涙を拭うこともなく続ける。
「シオンを。」
銀色の光がさらに強く輝いた。
記憶の海が呼応する。
海面から無数の光柱が立ち上り、空へ向かって伸びていく。
管理者軍団は一斉に武器を構えた。
再び空間へ白い槍が形成され始める。
しかし、その瞬間だった。
ドクン――。
記憶の海が、大きく脈打つ。
ルナリアの身体が小さく震えた。
胸の奥から伝わってくる鼓動。
これは自分のものではない。
もっと遠く。
もっと遥か彼方。
世界と世界の狭間から届く鼓動だった。
「……!」
ルナリアは勢いよく顔を上げる。
「この感じ……。」
「まさか……。」
クロノも同時に異変へ気付いた。
管理者たちの瞳が一斉に点滅する。
『黒星王接近』
『帰還率上昇』
『危険度──最大』
『全管理者、迎撃体勢へ移行』
クロノの表情が変わる。
「本当に来たのか……!」
ゆっくりと空を見上げる。
蒼白い空。
そのさらに上。
記憶の海を越えた遥か彼方。
そこに、一筋の光が見えた。
蒼黒い光。
世界へ向かって一直線に落下してくる流星。
クロノは思わず笑う。
「あいつ……。」
「本当に帰ってきやがる。」
管理者軍団の演算が乱れ始める。
銀色の瞳が激しく点滅し、完璧だった隊列が崩れていく。
誰も予測できなかった。
世界から消されたはずの英雄が、本当に帰還しようとしているなど。
ルナリアはその光を見つめたまま、小さく微笑む。
涙が止まらない。
それでも笑っていた。
「帰ってきた……。」
震える声。
けれど、その言葉には揺るぎない確信があった。
どれほど世界が拒絶しても。
どれほど管理者が妨害しても。
どれほど運命が立ちはだかっても。
もう止めることはできない。
忘れられた英雄は、必ず帰ってくる。
その約束だけは、誰にも消せない。
そして――。
記憶の海を覆う無数の白い扉。
そのさらに奥深く。
誰も足を踏み入れたことのない最上位管理領域で、一つの玉座が静かに光を放つ。
閉じられていた銀色の瞳が、ゆっくりと開いた。
管理者アーカイヴ。
世界すべての記録を統括する、管理者の頂点。
その瞳は真っ直ぐ蒼黒い流星を見つめていた。
静かに。
そして確実に。
世界最大の管理者が、忘れられた英雄との再会へ向けて動き始めていた。




