深淵の残滓
世界と世界の狭間。
そこは、光と闇が溶け合う境界だった。
上もなければ、下もない。
時間の流れは曖昧で、空間さえ一定の形を保てない。
まるで現実そのものが輪郭を失ったような場所だった。
その静寂を切り裂くように、一筋の蒼黒い流星が駆け抜ける。
シオンだった。
世界へ向かって落下し続けている。
王都セレスティアへ。
ルナリアの待つ場所へ。
仲間たちのもとへ。
三年越しの帰還。
だが、その道のりは決して穏やかなものではなかった。
ドクン――。
不意に胸の奥が脈打つ。
黒星晶の痕跡が熱を帯びた。
「……?」
シオンは眉をひそめる。
ルナリアとの共鳴ではない。
世界の記憶でもない。
もっと古く。
もっと禍々しい何かだった。
周囲の空間がゆっくりと揺らぎ始める。
黒い霧が広がる。
光が消えた。
音も消えた。
世界そのものが息を潜めたかのような静寂が訪れる。
そして。
闇の奥で、一つの赤い瞳が開いた。
ギロリ――。
巨大だった。
惑星すら飲み込めそうな赤い瞳。
底知れぬ悪意。
底知れぬ孤独。
その存在は、まるで世界そのものを見下ろしていた。
シオンの身体が止まる。
いや。
流星となった身体が、本能のまま停止していた。
魂が理解している。
この存在を。
忘れたはずなのに。
消え去ったはずなのに。
魂だけが、その気配を覚えていた。
「お前は……」
赤い瞳が細められる。
闇が静かに笑った。
『久しいな』
低く響く声。
世界の底から這い上がるような声だった。
『黒星王』
シオンの瞳が揺れる。
その声を知っている。
劇場版最終決戦。
世界の終焉。
すべてを飲み込もうとした災厄。
星喰い。
だが、違う。
何かがおかしい。
目の前の存在は、あまりにも弱い。
かつて感じた、あの圧倒的な絶望がない。
まるで燃え尽きた炎の残り火のようだった。
シオンは静かに問いかける。
「消えたはずだ」
赤い瞳が微かに笑う。
『消えたさ』
『本体はな』
闇が揺らめく。
無数の黒い粒子が空間へ溶け込んでいく。
『私は残滓』
『消滅した災厄の最後の欠片』
『記憶の亡霊だ』
シオンは何も言わなかった。
理解した。
だからこそ、ここに存在できる。
完全に消え去ったわけではない。
世界そのものへ刻まれた傷跡。
その残響だけが、今もここに残っている。
それが、今の星喰いだった。
赤い瞳がシオンを見つめる。
興味深そうに。
どこか懐かしむように。
『また希望を選ぶか』
シオンは答えない。
星喰いは静かに続けた。
『何度繰り返しても』
『何度滅んでも』
『お前達は同じだ』
深淵が揺れる。
闇の中へ映像が浮かび上がった。
滅びた世界。
焼け落ちた空。
命を失っていく人々。
崩壊する文明。
何万回もの終末。
何万回もの敗北。
積み重ねられた絶望が、一つ残らず映し出される。
『見ろ』
『これが現実だ』
『人間は滅ぶ』
『必ず滅ぶ』
『何度でもな』
シオンは、その光景を静かに見つめ続けた。
そして。
小さく笑う。
星喰いの瞳が細められた。
『何がおかしい』
シオンは肩をすくめる。
「別に」
『なら何故笑う』
シオンは真っ直ぐ赤い瞳を見返した。
「お前」
蒼い瞳が揺るがない。
「人間のこと、好きだろ」
沈黙。
世界から音が消える。
赤い瞳が、ほんのわずかに揺れた。
シオンは確信していた。
劇場版最後の戦い。
あの時、戦いの中で感じた違和感。
目の前にいる災厄は。
本当は、人類を憎んでいたわけではない。
『愚かな発言だ』
星喰いは低く呟く。
だが。
否定はしなかった。
シオンは静かに続ける。
「嫌いなら試さない」
「嫌いなら見続けない」
「嫌いなら”可能性”なんて言葉は使わない」
赤い瞳は沈黙を守る。
長い静寂。
やがて。
星喰いは小さく笑った。
それは初めて見る表情だった。
災厄と呼ばれた存在が。
どこか人間らしく微笑んだ。
『相変わらずだな』
シオンも笑う。
「お互いな」
星喰いはゆっくりと空を見上げた。
いや。
世界のさらに向こう側を見つめていた。
『深淵の観測者が動いた』
シオンの表情が引き締まる。
『管理者も動く』
『世界も動く』
『全てが始まる』
赤い瞳が鋭く細められた。
『黒星王』
『次はどうする』
『世界を救うか』
『世界を壊すか』
『選ぶのは、お前だ』
シオンは迷わなかった。
答えは、とっくに決まっている。
劇場版、あの日から。
「選ぶさ」
蒼黒い光が静かに揺れる。
「俺達の未来を」
星喰いはゆっくりと目を閉じた。
満足したように。
どこか安堵したように。
『なら行け』
闇が崩れ始める。
『証明してみせろ』
『人間の可能性を』
それが最後の言葉だった。
次の瞬間。
赤い瞳は静かに消えた。
闇も消えた。
残されたのは、ただ静寂だけ。
シオンは再び前を向く。
遥か彼方。
王都セレスティア。
ルナリアが待つ場所。
仲間たちが待つ場所。
そして、自分が帰るべき場所。
蒼黒い流星は再び加速する。
その輝きは、これまでよりも強く。
これまでよりも眩しく。
世界へ向かって、一直線に駆け抜けていった。




