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ECLIPSE CHRONICLE ー エクリプス・クロニクル ー  作者: 神宮せいや
ECLIPSE CHRONICLE:REBIRTH

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世界の壁

世界の壁に亀裂が走った。


最初は、ほんの小さな傷だった。


黒い星の上空。


観測者領域と現実世界を隔てる絶対境界。


何万年ものあいだ、誰一人として越えられなかった壁。


管理者が築き、世界そのものが受け入れた巨大な檻。


その表面に、確かに亀裂が刻まれていた。


バキッ――


乾いた音が、闇の中へ響く。


シオン・アルヴィスは空を見上げていた。


蒼い瞳に映るのは、果てしなく巨大な光の壁。


空ではない。


天井でもない。


それは世界を閉じ込める境界だった。


観測者領域。


記憶の海。


現実世界。


本来なら決して交わることのない三つの領域が、今この瞬間、ひとつの鼓動で繋がり始めている。


ドクン。


黒星晶の痕跡が脈打つ。


ドクン。


遠い記憶が震える。


ドクン。


ルナリアの声が、胸の奥で響く。


『帰ってきて』


それは幻ではなかった。


シオンは分かっていた。


世界を隔てても。


記憶を奪われても。


存在を消されても。


彼女は自分を思い出した。


名前を呼んだ。


待っていると言った。


それだけで、十分だった。


「……待たせすぎたな」


小さな声だった。


誰にも向けたものではない。


それでも、その言葉には三年分の後悔が滲んでいた。


世界を救った。


未来を残した。


仲間達を守った。


だが、ルナリアを一人にした。


自分の存在を忘れさせ、理由の分からない涙だけを残した。


それがどれほど残酷なことだったのか、今になって胸を締め付ける。


それでも、彼女は辿り着いた。


記憶の海へ。


消された記録へ。


自分との約束へ。


ならば、今度は自分の番だった。


シオンは剣を握る手に力を込める。


蒼黒い光が刃を包んだ。


その隣で、レイが静かに息を吐いた。


最初の黒星王。


何万年もの終焉を見続け、何度も希望が潰える瞬間を見てきた男。


その彼ですら、今目の前にある光景を信じきれずにいた。


「信じられんな」


声には珍しく驚きが混じっていた。


シオンは壁から目を離さない。


「何がだ」


「あの壁に傷が入ったことだ」


レイは空を見上げる。


その瞳には、懐かしさにも似た痛みがあった。


「俺も越えようとした」


シオンは黙って聞いた。


「何度もな。終わった世界の向こう側へ帰ろうとした。まだ誰かが生きているんじゃないかと、馬鹿みたいに信じていた時期があった」


レイの声は静かだった。


だが、その静けさがかえって重い。


「けれど壁は一度も揺れなかった。何万年見続けても、あれはただそこにあった。希望を拒むみたいにな」


シオンは少しだけ視線を落とす。


レイもまた、帰りたかったのだ。


誰かの元へ。


失った世界へ。


二度と届かない場所へ。


「じゃあ、俺が壊す」


シオンは言った。


レイが苦笑する。


「簡単に言うな」


「難しく考えたら壊れるのか?」


「壊れないな」


「なら同じだ」


シオンは前へ歩き出す。


「帰るって決めた。それだけでいい」


レイはしばらく黙っていた。


やがて、呆れたように笑った。


「本当にお前らしい」


その時だった。


崩れかけた白い光の中から、AE-01が立ち上がった。


白い神衣は半壊していた。


身体のあちこちに蒼黒い傷が刻まれ、銀色の瞳には僅かな乱れが生じている。


だが、管理者は止まらない。


感情がないからではない。


止まるという概念そのものが存在しないのだ。


『世界壁損傷確認』


『修復工程開始』


『黒星王帰還可能性上昇』


『黒星王排除を最優先とする』


空間が歪む。


世界の壁の周囲に、無数の白い輪が展開された。


輪は重なり合い、巨大な封印術式となる。


さらに白い鎖が現れる。


一つ。


十。


百。


千。


数え切れないほどの鎖が壁へ絡みついていく。


亀裂を塞ぐように。


世界を縫い直すように。


シオンは眉をひそめた。


「壁が……」


レイの顔色が変わる。


「あれは壁の自己修復じゃない。管理者が強制的に世界を閉じ直している」


「つまり?」


「今壊さなければ、二度と開かない」


短い沈黙。


シオンは笑った。


「分かりやすくていい」


AE-01の周囲に白い槍が出現する。


今までとは数が違った。


槍だけではない。


白い剣。


白い輪。


白い鎖。


白い文字列。


世界法則そのものを兵器化した修正術式が、観測者領域を埋め尽くす。


『完全封鎖工程開始』


『黒星王因子削除』


『観測者領域切断』


『帰還経路消去』


レイが低く呟く。


「シオン、あれを通せば終わりだ」


「分かってる」


「一人で受けるな。ここは俺も――」


「いや」


シオンが遮った。


レイを見る。


「ここから先は俺がやる」


レイの瞳が細くなる。


「格好つける場面か?」


「違う」


シオンは壁を見上げる。


「俺が帰るための道だ」


静かな声。


「俺が開ける」


その言葉に、レイは何も言えなかった。


かつての自分なら止めていただろう。


無謀だと。


不可能だと。


何万年も試して駄目だったと。


だが、今のシオンには言えなかった。


なぜなら、彼の背中には孤独がなかった。


遠い世界から届く想いがある。


忘れられた英雄を思い出した少女がいる。


名前を呼ぶ声がある。


それは、レイが最後まで手に入れられなかったものだった。


「……行け」


レイは短く言った。


シオンは頷く。


次の瞬間。


蒼黒い光が爆発した。


ドォォォォォォォォォォン!!


黒星王の力。


観測者の力。


ルナリアの記憶。


仲間達の想い。


世界中で目覚め始めた微かな記憶。


その全てが、シオンの剣へ収束していく。


AE-01が叫ぶ。


『異常』


『黒星王出力急上昇』


『感情共鳴拡大』


『解析不能』


「解析なんてできるかよ」


シオンは剣を構えた。


「これは人の想いだ」


剣が振り下ろされる。


蒼黒い斬撃が空間を裂く。


白い槍が砕ける。


白い鎖が千切れる。


白い文字列が燃え尽きる。


その一撃は、世界の壁へ直撃した。


轟音。


観測者領域全体が揺れた。


黒い星の表面に亀裂が走り、遠い記録の残骸が空へ舞い上がる。


そして。


バキバキバキッ――


世界の壁の亀裂が広がった。


一筋だった傷が枝分かれし、巨大な光の壁全体へ走っていく。


レイは息を呑む。


「本当に……」


その声は震えていた。


何万年も諦め続けた男の声だった。


「本当に壊すつもりか」


シオンは肩で息をしながら、それでも笑った。


「だから言っただろ」


息が荒い。


身体は限界に近い。


それでも瞳は死んでいない。


「帰るって」


同時刻。


記憶の海。


ルナリアの身体を銀色の光が包んでいた。


月の継承者。


失われた力。


封印された記憶。


世界が消したはずの絆。


それら全てが、彼女の中で目覚め始めている。


周囲には無数の記憶が浮かんでいた。


シオンと旅した日々。


月の花畑。


交わした約束。


最後の別れ。


そして、まだ取り戻しきれていない無数の時間。


ルナリアは胸の前で手を握る。


管理者アーカイヴは無表情のまま彼女を見下ろしていた。


『月の継承者因子増幅』


『黒星王との共鳴を確認』


『帰還確率上昇』


『危険』


クロノがルナリアの横に立つ。


「怖くないのか」


ルナリアは少しだけ笑った。


涙を浮かべたまま。


「怖いよ」


その答えに、クロノが僅かに目を見開く。


「でも」


ルナリアは空を見上げる。


「シオンはもっと怖かったはずだから」


世界から消えること。


誰にも覚えられないこと。


それでも笑って未来を託したこと。


その孤独を思えば、今の恐怖など理由にはならなかった。


「今度は私が待つ番なの」


ルナリアは目を閉じる。


銀色の光がさらに強くなる。


「帰ってきて」


小さな祈り。


「シオン」


その名を呼んだ瞬間。


三つの領域が同時に震えた。


記憶の海が輝く。


現実世界の空が揺れる。


観測者領域の黒い星が脈打つ。


ドクン――


そして、世界の壁の亀裂から、蒼黒い光が溢れ出した。


まるで向こう側に太陽が生まれたかのような光。


アーカイヴの声に、初めて明確な乱れが混じる。


『帰還率上昇』


『黒星王接近』


『危険』


『危険』


『危険』


その時、世界中で異変が起きた。


王都セレスティア。


世界樹都市アストレア。


北方氷原。


海上国家マリネス。


砂漠都市ザルディア。


夜空を見上げた人々が、一筋の蒼黒い流星を見た。


誰もその意味を知らない。


誰もその名を思い出せない。


だが、胸が熱くなる。


理由もなく涙が流れる。


懐かしい。


会いたかった。


帰ってきてほしい。


そんな感情が、世界中へ静かに広がっていく。


忘れられた英雄が、世界へ近付いている。


だが。


その瞬間。


観測者領域の空気が変わった。


シオンは剣を構えたまま動きを止める。


レイも同時に顔を上げた。


AE-01も。


無数の管理者達も。


一斉に動きを止めた。


それはシオンの力ではない。


ルナリアの祈りでもない。


別の何かだった。


世界の壁の奥。


深淵のさらに向こう。


誰も踏み込めない領域。


そこから、異様な気配が漏れ始めていた。


姿は見えない。


声もない。


ただ、見られている。


それだけで魂が凍るような感覚。


シオンの胸元で黒星晶の痕跡が震えた。


本能が警鐘を鳴らしている。


危険。


今まで感じたことのない危険。


レイの顔から血の気が引いた。


シオンは初めて見た。


何万年もの終焉を見続けた男が、恐怖に似た表情を浮かべるところを。


「レイ」


シオンが低く呼ぶ。


「何だ、あれは」


レイはすぐには答えなかった。


ただ世界の壁の奥を見つめている。


蒼い瞳が微かに震えていた。


「……まさか」


その声は、ほとんど息だった。


AE-01達が静かに膝をつく。


命令ではない。


演算でもない。


もっと深い場所に刻まれた反応。


管理者達に組み込まれた、最古の服従命令。


シオンは眉をひそめる。


「管理者が……膝を?」


レイの喉が小さく鳴った。


「来るぞ」


「誰が」


レイは、ようやく言った。


「深淵だ」


その瞬間。


世界の壁の奥で。


何かが静かに目を開いた。

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