第5話:『名義人』は私です
第5話:『名義人』は私です
エヴァンズ伯爵家の正門前には、十台以上の魔導馬車が並んでいた。
灰色の空からは細かな雪が降り始め、吐く息は白い。だが屋敷前の空気は、冬の寒さよりずっと刺々しく張り詰めていた。
「だから、本日中に返済いただかねば困ると言っている!」
「契約違反ですよ、伯爵家!」
「こちらも慈善事業ではありませんので!」
怒鳴り声が玄関ホールまで響いている。
ジュリアンは馬車を降りた瞬間、その異様な熱気に足を止めた。
「……何だこれは」
クロエが怯えたように彼の袖を掴む。
「ジュリアン様……帰ってきちゃ駄目だったんじゃ……」
「黙ってろ」
だが彼自身、声に余裕はなかった。
屋敷の扉が開く。
中から飛び出してきた執事長マルセルは、死人みたいな顔色をしていた。
「ジュリアン様! ようやく……!」
「騒がしいぞ。さっさと追い返せ」
マルセルの顔が引きつる。
「無理です……」
「は?」
「皆様、正式な債権者です」
その瞬間、ホールの奥から恰幅のいい男がずかずか歩み寄ってきた。
金縁眼鏡をかけた中年商人――王都最大物流商会《グランツ商会》の会頭だ。
彼はジュリアンを見るなり怒気を露わにした。
「やっと戻られましたか、エヴァンズ卿」
「……何の用だ」
「何の用、ですと?」
会頭の頬がぴくりと引きつる。
「貴家との物流契約が今朝方、一方的に消滅したのですよ!」
「だから今確認中だと言っているだろう!」
「確認で済む問題ではありません!」
怒声がホールへ響く。
後ろにいた商人たちも次々声を上げた。
「我々の商会も保証契約を切られました!」
「保険契約も停止だ!」
「投資金の回収期限が即日扱いになっている!」
怒号。
靴音。
紙束を叩きつける音。
冷え切った屋敷なのに、人々の熱気だけが異様に重い。
ジュリアンは苛立ちを隠せず言った。
「だから何だ! 契約を結び直せばいい話だろう!」
その瞬間。
商人たちが、しん……と静まり返った。
そして数秒後。
誰かが鼻で笑った。
「……結び直す?」
グランツ商会会頭が呆れたように額を押さえる。
「本気で仰っているのですか?」
「何だその態度は!」
「エヴァンズ卿。あなた、契約書をご覧になったことがないので?」
ジュリアンは言葉に詰まった。
会頭は懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
魔術印付き契約書。
そこへ刻まれた署名欄を、彼は乱暴に突きつけた。
「こちらをご覧ください」
ジュリアンは目を向ける。
そこに記されていた名を見た瞬間、呼吸が止まった。
『契約責任者:アルテミシア・ルーベルト』
「……は?」
「物流契約、信用担保、保険契約、投資保証」
会頭は冷たく言い放つ。
「すべてアルテミシア様個人の名義です」
クロエが小さく悲鳴を漏らした。
「う、嘘……」
「嘘ではありません」
別の老紳士が前へ出る。
「当家の農地融資も同様です」
「魔導結晶の優先供給契約もだ」
「我々は“ルーベルトの才媛”に投資していたのであって、エヴァンズ家に投資していたわけではない」
ジュリアンの背筋を冷たい汗が流れる。
「……何を、馬鹿な」
「馬鹿なのはどちらですかな」
ぴしゃり、と会頭が言った。
「彼女が抜けた以上、この商会は空箱です」
その一言が、重く響いた。
ジュリアンは口を開く。
だが反論が出てこない。
思い返せば、契約の場にはいつもアルテミシアがいた。
商談も。
交渉も。
投資説明も。
彼女が数字を並べ、利益率を語り、相手を納得させていた。
自分は横で頷いていただけだ。
「そんな……」
声が掠れる。
商人たちは容赦なく続けた。
「高純度魔力供給が消えた以上、貴家の物流維持は不可能」
「信用保証も消滅した以上、融資継続は危険」
「投資価値なしと判断いたしました」
ぱさっ、と次々書類が机へ積まれていく。
契約終了通知。
資金回収請求。
保険停止通告。
どれも赤い封蝋が押されていた。
ジュリアンの視界が揺れる。
「待て……待ってくれ」
初めて出た弱々しい声だった。
「急すぎるだろう……」
「急ではありません」
会頭が冷たく返す。
「アルテミシア様が、どれだけ貴家を支えていたかを、あなたが知らなかっただけです」
その言葉が胸へ突き刺さる。
知らなかった。
本当に。
知らなかった。
ジュリアンは無意識に周囲を見回した。
止まった魔導時計。
冷え切った暖炉。
薄暗い廊下。
使用人たちの疲弊した顔。
朝から何も食べていないせいか、胃が重く痛む。
厨房では簡易竈で無理やり作ったらしい焦げたスープの匂いが漂っていた。
以前ならあり得なかった。
毎朝、完璧に整えられた食卓が用意されていたのに。
焼き立てのパン。
温かなスープ。
香り高い茶葉。
全部。
全部、当たり前だと思っていた。
「ジュリアン様……」
クロエが不安そうに彼を見上げる。
しかし今、その愛らしい声すら耳障りだった。
ジュリアンは頭を抱える。
「何でだ……」
どうしてこんなことになった。
婚約を破棄しただけだ。
愛のない関係を終わらせただけだったはずだ。
なのに。
どうして伯爵家そのものが崩れていく。
その時、奥からエヴァンズ伯爵――ジュリアンの父が現れた。
顔面蒼白で、髪も乱れている。
「ジュリアン……」
「父上……!」
だが伯爵は息を切らしながら呟いた。
「王都銀行から最後通告が来た……」
「え?」
「信用等級が最低ランクへ落ちた」
空気が凍る。
「明日までに返済不能なら、領地資産を差し押さえるそうだ……」
クロエが青ざめる。
「さ、差し押さえ……?」
ジュリアンは立ち尽くした。
頭の中で、昨夜の光景が蘇る。
静かな声。
感情のない瞳。
『では本日付けで、婚約および関連契約を終了いたします』
あの時。
彼女は泣かなかった。
縋りもしなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、契約を終わらせただけだった。
――つまり。
あの瞬間に終わったのは、婚約ではない。
エヴァンズ伯爵家そのものだったのだ。




