表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

第5話:『名義人』は私です

第5話:『名義人』は私です


 エヴァンズ伯爵家の正門前には、十台以上の魔導馬車が並んでいた。


 灰色の空からは細かな雪が降り始め、吐く息は白い。だが屋敷前の空気は、冬の寒さよりずっと刺々しく張り詰めていた。


「だから、本日中に返済いただかねば困ると言っている!」


「契約違反ですよ、伯爵家!」


「こちらも慈善事業ではありませんので!」


 怒鳴り声が玄関ホールまで響いている。


 ジュリアンは馬車を降りた瞬間、その異様な熱気に足を止めた。


「……何だこれは」


 クロエが怯えたように彼の袖を掴む。


「ジュリアン様……帰ってきちゃ駄目だったんじゃ……」


「黙ってろ」


 だが彼自身、声に余裕はなかった。


 屋敷の扉が開く。


 中から飛び出してきた執事長マルセルは、死人みたいな顔色をしていた。


「ジュリアン様! ようやく……!」


「騒がしいぞ。さっさと追い返せ」


 マルセルの顔が引きつる。


「無理です……」


「は?」


「皆様、正式な債権者です」


 その瞬間、ホールの奥から恰幅のいい男がずかずか歩み寄ってきた。


 金縁眼鏡をかけた中年商人――王都最大物流商会《グランツ商会》の会頭だ。


 彼はジュリアンを見るなり怒気を露わにした。


「やっと戻られましたか、エヴァンズ卿」


「……何の用だ」


「何の用、ですと?」


 会頭の頬がぴくりと引きつる。


「貴家との物流契約が今朝方、一方的に消滅したのですよ!」


「だから今確認中だと言っているだろう!」


「確認で済む問題ではありません!」


 怒声がホールへ響く。


 後ろにいた商人たちも次々声を上げた。


「我々の商会も保証契約を切られました!」


「保険契約も停止だ!」


「投資金の回収期限が即日扱いになっている!」


 怒号。


 靴音。


 紙束を叩きつける音。


 冷え切った屋敷なのに、人々の熱気だけが異様に重い。


 ジュリアンは苛立ちを隠せず言った。


「だから何だ! 契約を結び直せばいい話だろう!」


 その瞬間。


 商人たちが、しん……と静まり返った。


 そして数秒後。


 誰かが鼻で笑った。


「……結び直す?」


 グランツ商会会頭が呆れたように額を押さえる。


「本気で仰っているのですか?」


「何だその態度は!」


「エヴァンズ卿。あなた、契約書をご覧になったことがないので?」


 ジュリアンは言葉に詰まった。


 会頭は懐から一枚の羊皮紙を取り出す。


 魔術印付き契約書。


 そこへ刻まれた署名欄を、彼は乱暴に突きつけた。


「こちらをご覧ください」


 ジュリアンは目を向ける。


 そこに記されていた名を見た瞬間、呼吸が止まった。


『契約責任者:アルテミシア・ルーベルト』


「……は?」


「物流契約、信用担保、保険契約、投資保証」


 会頭は冷たく言い放つ。


「すべてアルテミシア様個人の名義です」


 クロエが小さく悲鳴を漏らした。


「う、嘘……」


「嘘ではありません」


 別の老紳士が前へ出る。


「当家の農地融資も同様です」


「魔導結晶の優先供給契約もだ」


「我々は“ルーベルトの才媛”に投資していたのであって、エヴァンズ家に投資していたわけではない」


 ジュリアンの背筋を冷たい汗が流れる。


「……何を、馬鹿な」


「馬鹿なのはどちらですかな」


 ぴしゃり、と会頭が言った。


「彼女が抜けた以上、この商会は空箱です」


 その一言が、重く響いた。


 ジュリアンは口を開く。


 だが反論が出てこない。


 思い返せば、契約の場にはいつもアルテミシアがいた。


 商談も。


 交渉も。


 投資説明も。


 彼女が数字を並べ、利益率を語り、相手を納得させていた。


 自分は横で頷いていただけだ。


「そんな……」


 声が掠れる。


 商人たちは容赦なく続けた。


「高純度魔力供給が消えた以上、貴家の物流維持は不可能」


「信用保証も消滅した以上、融資継続は危険」


「投資価値なしと判断いたしました」


 ぱさっ、と次々書類が机へ積まれていく。


 契約終了通知。


 資金回収請求。


 保険停止通告。


 どれも赤い封蝋が押されていた。


 ジュリアンの視界が揺れる。


「待て……待ってくれ」


 初めて出た弱々しい声だった。


「急すぎるだろう……」


「急ではありません」


 会頭が冷たく返す。


「アルテミシア様が、どれだけ貴家を支えていたかを、あなたが知らなかっただけです」


 その言葉が胸へ突き刺さる。


 知らなかった。


 本当に。


 知らなかった。


 ジュリアンは無意識に周囲を見回した。


 止まった魔導時計。


 冷え切った暖炉。


 薄暗い廊下。


 使用人たちの疲弊した顔。


 朝から何も食べていないせいか、胃が重く痛む。


 厨房では簡易竈で無理やり作ったらしい焦げたスープの匂いが漂っていた。


 以前ならあり得なかった。


 毎朝、完璧に整えられた食卓が用意されていたのに。


 焼き立てのパン。


 温かなスープ。


 香り高い茶葉。


 全部。


 全部、当たり前だと思っていた。


「ジュリアン様……」


 クロエが不安そうに彼を見上げる。


 しかし今、その愛らしい声すら耳障りだった。


 ジュリアンは頭を抱える。


「何でだ……」


 どうしてこんなことになった。


 婚約を破棄しただけだ。


 愛のない関係を終わらせただけだったはずだ。


 なのに。


 どうして伯爵家そのものが崩れていく。


 その時、奥からエヴァンズ伯爵――ジュリアンの父が現れた。


 顔面蒼白で、髪も乱れている。


「ジュリアン……」


「父上……!」


 だが伯爵は息を切らしながら呟いた。


「王都銀行から最後通告が来た……」


「え?」


「信用等級が最低ランクへ落ちた」


 空気が凍る。


「明日までに返済不能なら、領地資産を差し押さえるそうだ……」


 クロエが青ざめる。


「さ、差し押さえ……?」


 ジュリアンは立ち尽くした。


 頭の中で、昨夜の光景が蘇る。


 静かな声。


 感情のない瞳。


『では本日付けで、婚約および関連契約を終了いたします』


 あの時。


 彼女は泣かなかった。


 縋りもしなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ、契約を終わらせただけだった。


 ――つまり。


 あの瞬間に終わったのは、婚約ではない。


 エヴァンズ伯爵家そのものだったのだ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ