赤い車の助手席
マリーに促されて助手席に乗り込むと、ノアはドアが閉まるのも待たず、シートベルトを引き出した。
差し込み口に金具を押し込み、固定されたことを確かめる。さらに肩から胸元を通るベルトを引っ張り、緩みがないかまで念入りに確認した。
その様子を運転席から見ていたマリーは、不思議そうに小首を傾げた。
「準備はいい?」
「はい。僕は大丈夫です」
ノアは返事をしながら、改めてシートベルトに手を添えた。
「その……ゆっくりでいいですよ」
「そうよね。ゆっくり行くわ」
マリーは穏やかな笑顔で頷き、ハンドルの横にある起動スイッチに触れた。
車体の内部から低い作動音が伝わり、赤いエアカーが静かに目を覚ます。浮遊機構が起動すると、車体が僅かに持ち上がり、先ほどまで地面に接していた四本のタイヤが路面から離れた。そのまま、タイヤは車体内部へ収納されていく。
赤いエアカーは、駐車区画から滑るように動き出した。
マリーの言葉通り、速度はとても穏やかだった。
周囲を出入りする車両にも十分注意を払い、誘導表示に従ってゆっくりと駐車場を抜けていく。先ほどシュウに速度違反を指摘されていた人物とは思えないほど、安全で丁寧な運転だった。
(これなら、大丈夫そうだ)
ノアが胸の内で安堵していると、前方を見たまま、マリーが柔らかな声で尋ねてきた。
「ノア。ギールに無茶を言われたりしていない?」
「ギールさんにですか?」
「ええ。あの子は責任感が強いから、何でも自分で背負おうとするでしょう。自分が無茶をするだけならまだしも、気づかないうちに周りまで巻き込んでいないか、少し心配なのよ」
仲間のことを案じるその声音は、先ほどまで見せていた母親らしい姿と何も変わらなかった。
「いえ、大丈夫です。ギールさんには色々と気を遣ってもらっていますし、無茶を言われたこともありません」
「そう。それならよかったわ」
マリーは安心したように表情を緩めた。
その横顔を見つめたノアは、今なら聞けるかもしれないと思い、少し迷ってから口を開いた。
「それより、一つお尋ねしてもいいですか?」
「何かしら?」
「マイのことなんですが……僕への当たりが、少しきつい気がして」
告げ口をしているように聞こえないよう、ノアは慎重に言葉を選んだ。
マイが自分を本気で嫌っているわけではないことは、何となく分かっている。戦闘後には飲み物を用意してくれたし、口では悪態をつきながらも、仲間として気遣ってくれている場面もあった。
それでも、顔を合わせるたびに舌打ちをされ、何かにつけて突っかかられている。理由が分からないままでは、どう接すればよいのか迷ってしまう。
ノアの悩みを聞いたマリーは、困るどころか、楽しそうに小さく笑った。
「ふふっ。悔しいのよ」
「悔しい?」
「マイは、自分の腕に自信を持っているから。そこに突然、自分と同じように前で戦えて、アルカノヴァまで乗りこなすあなたが現れたでしょう?」
「でも、僕はマイと競っているつもりはないんですが」
「あなたにそのつもりがなくても、マイには関係ないのよ。負けたくないと思える相手が身近に現れて、どう接すればいいのか分からないのね。あの子は、そういう気持ちを素直に言える性格ではないから」
「それで、あの態度なんですか?」
「ええ。それに、うちのモットーもあるわ」
「モットー?」
家族の話から突然出てきた言葉に、ノアは不思議そうに聞き返した。
マリーは特別なことを話している意識などないらしく、前方を見たまま平然と答えた。
「舐められたら終わり。だから、常に強気でいく。それがうちのモットーよ」
「……そうですか」
あまりにも迷いなく言い切られたため、ノアはそれ以上、何も言えなかった。
マイの口の悪さや攻撃的な態度が、本人だけの問題ではない可能性が出てきてしまった。
隣では、マリーが何とも穏やかな笑顔を浮かべている。
口にした内容と表情が、まるで噛み合っていなかった。
(マグナム家って、そういう家なんだ……)
ノアは追及することを諦め、流れていく街並みに視線を向けた。
赤いエアカーは変わらず穏やかな速度を保ち、一般車両に交じって浮遊走行を続けている。滑らかな走りに緊張も薄れ、シートベルトに添えていた手からも、少しずつ力が抜けていった。
だが、その安心は長く続かなかった。
やがて前方に、高速エリアへの進入を示す案内表示が現れる。
それを視界に捉えた瞬間、マリーの目つきが僅かに変わった。
口元には柔らかな笑みが残っている。
しかし、前方を見据える目は徐々に鋭さを増し、丸みを帯びていた目尻が僅かに釣り上がっていく。
先ほどまでの優しい母親から、戦艦ボガードの操縦席で見せた実戦派の顔へ。
その変化を間近で見たノアの背筋に、言いようのない寒気が走った。
(あれ……何か、雰囲気が変わったような……)
マリーは高速エリアに進入すると、ハンドルに設けられたスイッチに親指を添えた。
「浮遊走行から、地上走行に切り替えるわね」
「えっ?」
ノアが聞き返すより早く、マリーはスイッチを押した。
浮遊機構の出力が下がり、車体がゆっくりと路面に近づいていく。収納されていたタイヤが走行位置に固定されると、四本すべてが路面に接触した。
僅かな衝撃が座席から身体に伝わる。それと同時に、駆動系が浮遊推進用のモーターから、タイヤを回す車輪駆動用のモーターへ切り替わった。
それまでほとんど感じなかった路面の細かな振動が、タイヤを通じて車内に届き始める。
そして、甲高いモーター音と共に、赤い車体が加速した。
背中がシートに押しつけられ、ノアの身体が僅かに沈み込んだ。
「あの……少し速くないですか?」
ノアは再びシートベルトを掴み、縋りつくように強く握り締めた。
「そう?」
マリーは心底不思議そうに首を傾げた。
「普通なんだけど」
「これが普通なんですか?」
ノアが尋ねている間にも、速度は上がり続けていた。
周囲を走っていたエアカーが一台、また一台と後方へ流れていく。赤い車体は高速エリアの流れを縫うように進み、前を走る車両を滑らかに追い越していった。
急なふらつきはない。車線変更も正確で、ほかの車両との距離にも十分な余裕が保たれている。
運転そのものは驚くほど安定していた。
だが、空いた進路を見つけるたび、マリーはほとんど減速することなく赤い車体を滑り込ませていく。
車輪駆動用モーターの回転音はさらに高くなり、窓の外を流れる景色も、輪郭を追えないほど速くなっていた。
「その……制限速度は大丈夫なんですか?」
ノアは恐る恐る尋ねた。
マリーは一度だけ速度表示に視線を向け、何でもないことのように答えた。
「心配そうね。大丈夫よ。制限速度ギリギリだから」
「ギリギリ……」
ノアも速度表示を確認した。
確かに、表示されている数値は制限速度を超えていない。
だが、上限まで残された余裕はほとんどなかった。
(それって、もう少しアクセルを踏み込んだら速度違反になるんじゃ……)
そう思ったものの、口には出せなかった。
つい先ほど速度違反の反則金を支払ったばかりのマリーに、この状況で注意する勇気はない。
ノアにできたのは、シートベルトを両手で握り締め、背中を座席に押しつけることだけだった。
(お願いだから、少し速度を落として!)
目を閉じることもできず、流れていく道路を見つめながら胸の内で祈る。
しかし、その祈りがマリーに届くことはなかった。
赤いエアカーは速度を制限速度ぎりぎりに保ったまま、高速エリアを駆け抜けていく。制限速度を超えることはないものの、表示される数値が僅かに下がることもなかった。
しかも、マリーの横顔には恐怖も緊張もなかった。
むしろ、路面を走れることが楽しくて仕方がないとでもいうように、口元には薄い笑みが浮かんでいる。
先ほど聞かされた『暴走爆音のマリー』という異名。
その意味を、ノアは助手席で身をもって理解し始めていた。
結局、マリーが速度を落としたのは、高速エリアの出口が見えてからだった。
車輪駆動用モーターの回転音が緩やかに低くなり、赤い車体が一般走行区画に入った。駆動系が再び浮遊推進用のモーターへ切り替わると、タイヤから伝わっていた振動も消え、エアカーは何事もなかったかのように静かな走りへ戻った。
「もうすぐ着くわよ」
「……はい」
ノアは掠れた声で答えた。
両手はまだシートベルトを握り締めたままで、指を一本ずつ意識して開かなければ、力を抜くことすらできなかった。
それから間もなく、赤いエアカーはハンターギルドの前に滑り込んだ。
普段利用しているエアバスより、明らかに早い到着だった。
「じゃあ、ここでいいわね」
「はい。ありがとうございました……」
エアカーが停止すると、ノアはシートベルトを外し、ドアを開いた。
地面に足を下ろした瞬間、無意識に膝に力を入れた。
足元が少し頼りなく感じられたものの、どうにか転ぶことなく車外に降りると、ノアは運転席のマリーに向き直り、深く頭を下げた。
「すみません。本当にありがとうございました」
「いいのよ。預かったもの、きちんとギールに届けてね」
「はい」
「それじゃあ、またね」
マリーはいつもの母親らしい笑顔で手を振った。
次の瞬間、赤いエアカーが勢いよく発進した。
浮遊走行のまま一気に速度を上げ、ほかの車両の間を抜けながら、あっという間に遠ざかっていった。
ノアはその姿が見えなくなるまで立ち尽くし、ようやく張り詰めていた息を吐き出した。
「アルカノヴァの方が、ずっと速いはずなのに……どうして、あんなに怖かったんだろう……」
自分で操縦していなかったからなのか。
それとも、宇宙と違って道路には多くの車両が走っていたからなのか。
理由を考えてみても、まだ胸の鼓動は落ち着かなかった。
ノアは端末がポケットに入っていることを確かめると、疲れ切ったような重い足取りでギルドの入口に向かった。
その時、遠くの方からサイレンが鳴ったような気がした。
だが、ノアは足を止めなかった。
それが何のために鳴っているのかも、どこへ向かっているのかも確かめず、そのままギルドの中へ入っていった。




