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バハムート宇宙を行く ノアの歩み  作者: 珈琲ノミマス


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記憶の温もり

 二階に上がると、案内してきたドローンは階段脇に設置されたスタンドに収まり、そのまま待機状態に入った。


 女性職員は正面にあるドアの脇まで進み、認証装置に端末をかざす。短い確認音と共にロックが解除され、ドアが左右に開いた。


「支部からの応援要請。S5地区で窃盗があったから、付いてきて!」


「俺は今からR7地区で起きた事件に向かうから、手が空いてないんだ。新人、行ってこい」


「先輩! 私、頑張ります!」


 ドアが開いた途端、慌ただしく交わされる声がノアの耳に飛び込んできた。


 女性職員に続いて中へ入ると、そこには一階の受付ホールとはまるで違う光景が広がっていた。


 一階は多くの市民が行き交いながらも、声を抑えた静かな空間だった。しかし、二階では複数の職員が端末やホロディスプレイを操作しながら、絶え間なく情報を伝え合っている。


 怒号が飛び交っているわけではない。それでも、誰もが忙しそうに声を掛け合い、各地区で発生した事件への対応や指示を次々と進めていた。


 先ほど元気よく返事をしていた新人の女性職員も、応援を求めていた先輩の女性職員に続き、慌ただしくエレベーターへ乗り込んでいく。


 閉じた扉の上には、現在位置を示すホロ表示が浮かんでいた。


(3、4、5……R。あっ、屋上で止まった)


 屋上からエアパトカーか何かに乗り、そのままS5地区へ向かうのだろう。


 ノアが表示を眺めている間にも、周囲では新たな報告が飛び交い、職員たちはそれぞれの持ち場へ足早に移動していた。


 女性職員に促され、ノアも喧騒の中を進んでいく。やがて別のエレベーターへ乗り込み、三階を通過して四階へ上がった。


 扉が開くと、それまで聞こえていた慌ただしい声が急に遠ざかる。


 四階には廊下を挟んで個室が並び、それぞれのドアには、使用している職員の名前が記されたネームプレートが取り付けられていた。


 その中の一つに、探していた名前を見つける。


『シュウ・コーディ』


(この人か)


 女性職員はドアの横に設置されたホロディスプレイを起動し、室内へ呼びかけた。


「シュウさん、お客様です。ギールさんの仲間のノアさんがお見えになりました」


「了解」


 室内から返ってきたのは、短い返事だけだった。


 その直後、ドアのロックが外れる音が鳴った。女性職員がドアを開き、ノアが通れるように一歩横に退いた。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 ノアは軽く頭を下げてから、開かれたドアの奥に足を踏み入れた。


「失礼します」


「いらっしゃい」


 室内に置かれていたのは、必要最低限のものだけだった。


 簡素なデスクと椅子。そのデスクの向こうに、一人の男が座っていた。


 男は仕事の手を止めると、疲れを滲ませながら茶色い髪を掻いた。


「そこに座って」


「はい」


 促されるまま、ノアは部屋の隅に置かれた、少しくたびれたソファーに腰を下ろした。


 シュウもデスクの椅子から立ち上がり、ノアの向かいに座り直した。


 近くで見ると、その疲れた様子は一層はっきりと分かった。


 シャツには皺が寄り、ネクタイは中途半端に緩められている。ズボンの裾には汚れが付き、履いている靴もあちこちが傷んでいた。


「こんな格好でごめんよ。少し立て込んでいてね」


 シュウは自分の服装を見下ろし、困ったように微笑んだ。


 だが、不思議と嫌な感じはしなかった。


 服装を整える暇さえないほど、懸命に働いてきた人。


 乱れた格好から感じられたのは、だらしなさではなく、疲れていても仕事を投げ出さずに向き合ってきた跡だった。


 その瞬間。


 ノアの頭に、鋭い痛みが走った。


「っ……!」


 思わずこめかみを押さえる。


 まるで、固く閉ざされていた記憶の扉が向こう側から激しく叩かれ、無理やり開け放たれたような感覚だった。


 閉じ込められていた何かが、光と共に一気に溢れ出してくる。


(あ……お父さん?)


 脳裏に浮かび上がったのは、恐らく家の中だと思われる場所。


 テレビがついた部屋で、まだ幼い自分が画面を眺めている。


 何を見ていたのかは分からない。


 部屋の広さも、家具の形も、色さえも曖昧だった。


 それでも、その場所で誰かの帰りを待っていたことだけは、なぜか分かった。


『ただいま』


 玄関の方から声が聞こえる。


 幼い自分が振り返ると、疲れた様子の人物が部屋へ入ってきた。


 皺の寄ったシャツ。


 緩められたネクタイ。


 使い込まれ、傷んだ靴。


 目の前にいるシュウと、どこか重なる姿。


 だが、その顔は霞がかかったようにぼやけ、どれだけ目を凝らしても見えなかった。


 記憶の中にいる自分の姿さえ、輪郭を結ばない。


 それでも、その人物が近づいてきた時に感じた安心感だけは、胸の奥にはっきりと蘇ってきた。


 大きな手が、幼い自分の頭に触れる。


 疲れているはずなのに、その手はとても優しかった。


 髪を撫でられた時の温かさ。


 帰ってきてくれたことへの安堵。


 言葉にできないほど嬉しくて、その人を見上げていた幼い自分の想い。


 そして、その手から伝わってきた、確かな愛情。


「……あ……」


 ノアの目から、涙が零れ落ちた。


 自分でも泣いていることに気づかないまま、一筋、また一筋と頬を伝っていく。


 ようやく見つけることができた、転生前の記憶の欠片。


 だが、それが本当に自分の記憶なのか、確かめる術はない。


 神に消されていた記憶の一部なのか。それとも、何か別のものを自分の過去だと思い込んでいるだけなのか。それさえも、今のノアには分からなかった。


 それでも、あの手の温かさだけは偽物ではないと思えた。


 確かに自分は、誰かの帰りを待っていた。


 そして、帰ってきたその人に、優しく頭を撫でてもらった。


 自分には、父と呼べる人がいた。


 顔も、名前も、声さえも、まだ思い出せない。


 それでも、その人から愛されていたことだけは、ようやく思い出すことができた。


「どうした?」


 突然涙を流し始めたノアを見て、シュウが驚いたように立ち上がる。


 すぐにノアの傍らへ寄ると、心配そうに顔を覗き込んだ。


「大丈夫か? どこか痛むのか?」


 ノアは答えることができなかった。


 胸の奥から込み上げてくるものが喉につかえ、声にしようとするたび、涙が溢れてくる。


 悲しいわけではない。


 苦しいだけでもない。


 失っていたと思っていたものが、ほんの僅かでも自分の中に残っていた。


 記憶の中にいた父の姿。


 頭に触れた手の温かさ。


 父から自分に向けられていた愛情と、自分が父に抱いていた安心感。


 そのすべてが、胸の奥に少しずつ戻ってくる。


(ああ……思いも、想いも、思い出せた……)


「大丈夫かい? 救護担当を呼ぼうか?」


 シュウはノアの傍らに身を屈め、心配そうに顔を覗き込んでいた。


「だい、じょうぶ、です。ちょっと……思い出せて……」


「思い出せた?」


 聞き返され、ノアは我に返った。


 転生前の記憶が蘇ったなどと、そのまま話すわけにはいかない。それに、思い出せたのは僅かな欠片だけで、ノア自身にもまだ整理がついていなかった。


「いえ。何でもないです」


 ノアは袖で頬を伝う涙を拭い、シュウを安心させるように笑みを浮かべた。


 本当は、まだ胸の奥が大きく揺れている。記憶の中で頭を撫でてくれた父の手の温かさを思い返すだけで、再び涙が溢れそうになった。


 それでも、これ以上心配をかけまいと、ノアはゆっくりと呼吸を整える。


「本当に大丈夫です。驚かせてしまって、すみません」


「いや、私は大丈夫だが……」


 シュウはすぐには離れず、ノアの表情を確かめるように見つめていた。


 顔色や呼吸に異常がないことを確認しても、まだ心配は拭い切れないらしい。


「何があったのか、聞かない方がいいかな?」


「その……はい」


 ノアが申し訳なさそうに答えると、シュウは僅かに間を置いた後、それ以上追及することなく頷いた。


「分かった。話したくないことを無理に聞くつもりはないよ」


「ありがとうございます」


 シュウはもう一度だけノアの様子を確認すると、向かいの席に戻った。


「それじゃあ、話を進めようか」


「はい。すみませんでした」


 ノアは残った涙を拭うと、乱れていた気持ちを落ち着かせるように、膝の上で両手を固く握った。

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