流れる朝
丸一日眠り続けたノアが目を覚ました時、室内はすでに朝の明かりを再現した照明に包まれていた。
「……よく寝た」
まだ重いまぶたを擦りながら身体を起こし、枕元に置いていた端末を手に取る。
表示された日付を確認した瞬間、ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒した。
「えっ……丸一日経ってる?」
ゲームを始めたのが休みの一日目。
一時間だけ遊ぶつもりが、そのまま二日目まで寝ることなく続け、クリアした後は疲れ果てて眠り込んだ。そして目を覚ました今は、すでに休みの四日目の朝だった。
結果だけ見れば、休みの最初の三日間を、ほとんどゲームと睡眠だけで使い切ってしまったことになる。
「僕は何をしてるんだ……」
初めての休暇なのだから、もっと有意義な過ごし方があったはずだ。
コロニー内を歩いてみることもできたし、アルカノヴァのことを考えたり、これからの生活に必要なものを探したりもできた。
それなのに、思い描いたことは何一つできなかった。
ベッドの上で項垂れていると、貴重な休みを完全に無駄にしてしまったような罪悪感が、胸の奥に広がっていく。
「この世界のゲーム……恐ろしい」
ノアは端末のゲーム画面を見つめながら、心の底から呟いた。
最初は、一時間だけ試すつもりだった。
それが、次の戦闘まで、次のターンまでと続けているうちに時間の感覚を失い、気づけば一日以上も遊び続けていた。
ダイスの出目に腹を立てながらも、思い通りにならない状況を立て直すのが面白く、途中で止めることができなかったのだ。
「次からは、時間を決めないと駄目だな……」
今さら反省しても、過ぎてしまった三日間は戻ってこない。
ノアは大きく息を吐くと、空腹を訴える腹を押さえながらベッドから降りた。
ゲームを始めてから、まともな食事をしていない。
夢中になっている間は気にならなかったが、意識した途端、急激に空腹が押し寄せてきた。
「まずは何か食べよう」
寝間着のまま台所へ向かい、簡単な朝食の準備を始める。
保存されていた食事を温め、飲み物を用意すると、それらをテーブルに並べた。
「いただきます」
久しぶりの食事を口に入れる。
空腹だったこともあり、普段と変わらない料理が妙に美味しく感じられた。ノアはしばらく無言で食べ続け、ようやく人心地ついたところで、テーブルの上に置いていた端末から通知音が鳴った。
「誰だろう?」
食事を続けながら端末を操作し、届いたメッセージを開く。
差出人は、ギールだった。
『ごめん。ちょっと忙しくて、俺は行けそうにないんだ。代わりに治安局へ行ってくれないかな? そこでシュウという人から、資料データを受け取ってきてほしい。外部通信では送れない資料だから、直接受け取る必要があるんだ』
「治安局か……」
ノアは食事の手を止め、表示された文章をもう一度読み返した。
このコロニーに来てから日が浅いこともあり、治安局へはまだ一度も行ったことがない。
治安局という名前を聞いたことがある程度で、所在地も内部の様子も何も知らなかった。
「行ったこともないし、ちょうどいいかな」
休みの三日間をほとんど家の中だけで過ごしてしまったこともあり、外に出る理由ができたのはありがたい。
それに、ギールが忙しい中で自分に頼んできたのだ。仲間として、これくらいの頼みはきちんと引き受けたかった。
ノアは端末に返信を打ち込んでいく。
『はい。分かりました。資料データを受け取ったら、ギルドの執務室へ届ければいいですか?』
送信してから朝食をもう一口食べると、すぐにギールから返事が届いた。
『お願い。俺は執務室にいるから、そのまま持ってきてくれれば大丈夫だよ。助かる』
短い返事を確認し、ノアは端末を閉じた。
「シュウって人を探して資料データを受け取り、ギールさんの執務室へ届ければいいんだな」
朝食を口に運びながら、依頼の内容を改めて確認する。
難しい仕事ではなさそうだが、初めて訪れる場所で、顔も知らない相手を探さなければならない。
少し不安はあるものの、家でゲームをしているよりは、休みを有意義に使えるだろう。
残っていた朝食を食べ終えると、ノアは空になった皿とコップを自動洗浄機に入れた。
扉を閉じ、洗浄が始まったことを確認する。
長時間ゲームを続け、そのまま丸一日眠っていたせいか、身体にはまだ汗の不快感が残っていた。
「先にシャワーを浴びよう」
ノアは浴室へ向かい、温かな湯で身体を洗い流した。
さっぱりしてから自室へ戻ると、先日の買い物で購入した服の中から、動きやすそうなものを選んで着替える。鏡の前で髪を整え、忘れ物がないか確かめると、端末を手に取った。
「よし。行こう」
目的地である治安局までの経路を端末で確認し、ノアは早速、家を出た。
家を出ると、コロニーの街は朝の賑わいに包まれていた。
会社へ向かうサラリーマンたちが足早に通りを進み、その間を縫うように、学校へ向かう若者たちが友人と話しながら歩いている。
端末を確認しながら急ぐ者。
眠そうな顔で欠伸をする者。
楽しそうに笑い合う者。
それぞれが当たり前のように一日を始め、決められた場所へ向かっていた。
その姿を何気なく眺めていたノアは、ふと足を緩める。
(僕も、学校に通ってたんだよな。多分)
確かな記憶があるわけではない。
転生前の自分がどのような学校へ通い、どんな授業を受けていたのか。友人がいたのか、学校生活を楽しんでいたのか。それとも、毎朝嫌々通っていたのか。
何一つ思い出せなかった。
それでも、ゲームを父親に頼んで買ってもらったことを考えれば、自分はまだ親に養われていた年齢だったのだろう。ならば、学校にも通っていた可能性は高い。
そんなことを考えながら歩いていたノアは、今度は身近な者たちの顔を思い浮かべた。
(そういえば、ウェンやアヤコさん、それにマイが学校の話をしているところは聞いたことがないけど……通ってないのかな?)
ウェンは父親の店で働き、アヤコは機体の開発や整備に携わっている。マイに至っては、幼いながらもハンターとして戦場へ出ていた。
三人が学校へ向かう姿を見たことはなく、そのことを話題にしているところも記憶になかった。
(この世界には、この世界なりの仕組みがあるのかな)
教育の制度が転生前と同じとは限らない。
そもそも、自分はこの世界の学校がどのような場所なのかさえ知らなかった。考えてみれば、このコロニーで暮らすうえで知らないことは、まだいくらでもある。ゲームの買い方すら知らず、マイに笑われたばかりなのだ。
「今度、誰かに聞いてみようかな」
小さく呟き、ノアはひとまず学校のことを頭の隅へ追いやった。
端末の地図を開くと、目的地である治安局本部までの経路が表示される。
現在地からは少し距離があり、徒歩で向かうには時間がかかる。ノアは案内に従って最寄りのエアバス停へ向かい、到着した車両に乗り込んだ。
空いていた窓際の座席に腰を下ろすと、エアバスは静かに動き始める。
(自転車、買うべきかな?)
どこかへ向かうたびにエアバスを利用するのも悪くはないが、近い場所まで移動するなら、自転車があった方が便利かもしれない。
先日の買い物では、ゲームのことで頭がいっぱいになり、移動手段まで考えていなかった。
(今度、ウェンに自転車を売ってる店も聞いてみよう)
そこまで考え、自然とウェンの顔が浮かんだことに気づく。
ノアは昨夜から何度も繰り返した疑問を思い出しそうになり、慌てて窓の外へ意識を向けた。
エアバスの窓越しに、コロニーの街並みが後方へ流れていく。
開店の準備を進める店員。
荷物を積んだ車両。
子供の手を引きながら歩く親。
仕事場へ向かう者と、家へ帰るらしい者。
誰にとっても特別ではない、いつもと変わらない朝の風景。
――日常。
ノアは、流れていく景色を静かに見つめた。
自分の記憶には、このような日常がほとんど残っていない。
朝、どのように目を覚ましていたのか。
誰と食卓を囲み、どのような道を通って学校へ向かっていたのか。
家へ帰った後、ゲームを始めるまでに何をしていたのか。
転生前にも、きっと今と変わらない日々があったはずなのに、そのどれも思い出すことができなかった。
ただ一つ、以前に醤油ラーメンを食べたことで蘇った、家族旅行の記憶だけは残っている。
初めて訪れた東京で、父に連れられて入った古びた中華店。
もっと派手な料理を期待して文句を言う自分を、父は苦笑しながら宥め、母は隣で楽しそうに動画へ収めていた。
そこで三人一緒に食べた、醤油ラーメンと半炒飯。
父と母の顔は思い出せない。それでも、二人の声と、あの食卓に流れていた穏やかな空気だけは、今も胸の奥に微かに残っている。
(父さんと母さんは、どんな人だったんだろう)
どれだけ記憶を辿っても、二人の姿だけは形を結ばない。
声も、今では遠く霞んでいる。
それでも、あの時のラーメンが美味しかったことと、父と母と同じ食卓を囲んだことだけは覚えていた。
窓の外では、家族らしい三人が並んで歩いている。
その姿も、エアバスが進むにつれて、すぐに後方へ流れて見えなくなった。
(転生前の僕は、どんな人間だったんだろうな)
ゲームが好きだったことは覚えている。
だが、それだけで自分という人間のすべてが分かるわけではない。
どのようなことを好み、何を嫌い、誰と笑い合っていたのか。
今のノアには、まだ何も分からなかった。
答えの見つからない疑問を胸に抱えたまま、ノアは流れ続ける日常の景色を見つめる。
エアバスは朝の街を抜け、目的地である治安局本部へ向かって進んでいった。




