ただの買い物?
トイレから戻ったノアは、コップに注いだ水を飲みながら、ソファーに置いていた端末を確認した。
だが、ウェンからの返事はまだ届いていない。
「忙しいのかな」
ロック・ボムの仕事中なのだから、すぐに返事が来なくてもおかしくはない。
そう考えながらコップを傾けていた、その時だった。
端末からメッセージの通知音が鳴る。
ノアはすぐにコップを下ろし、届いたメッセージを開いた。
『夕方なら大丈夫。待ち合わせ場所はどうする?』
「良かった。断られなくて」
安堵が胸いっぱいに広がった。
だが、その大きさに、ノアは自分で少し戸惑う。
単に買い物へ付き合ってもらえるからというだけではない。
(ウェンと二人きりで、買い物に出かけるってことだよな)
そう考えた瞬間、別の言葉が唐突に頭へ浮かんだ。
(これって……デート?)
途端に、ノアの頬が熱を帯びる。
(いやいやいや! 考えすぎだろ、僕! ウェンはコロニーを案内してくれるだけだ。そもそも、僕からそう頼んだんだから!)
「大丈夫。友達との買い物だから。うん。ひとまず落ち着こう」
誰もいない室内で、自分へ言い聞かせるように呟く。
そして、動揺を流し込むようにコップの水を一気に飲み干した。
冷たい水が喉を通り抜けていく。
少しは落ち着いたような気がしたノアは、平常心を保とうとしながら待ち合わせ場所を考える。
自分はまだ、コロニーの地理に詳しくない。
分かりやすく、確実に辿り着ける場所となれば、最初に思い浮かぶのはウェンのいる店だった。
『ウェンの店で待ち合わせじゃダメかな?』
短いメッセージを打ち込み、そのまま送信する。
だが、端末から手を離した途端、先ほどの考えが再び頭をよぎり、ノアはいまだ赤い顔を両手で覆った。
「ただの買い物。これはただの買い物だから……」
一方、そのメッセージを受け取ったウェンも、さらに焦っていた。
(お店はダメ! ノアと二人で出かけるって、父さんに気づかれる!)
すぐ近くでは、先ほどからスミスが訝しげにこちらを見ている。
ここを待ち合わせ場所にすれば、ノアが迎えに来るところを確実に見られてしまう。
(でも、気づかれたらダメって……どうして私は、そんなこと考えてるんだろう)
ただ友達と買い物へ行くだけなら、隠す必要などない。
堂々とノアの名前を出せばいいはずだ。
それなのに、スミスへ知られることを考えただけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
ウェンは端末を握ったまま、平静を装おうとした。
動揺を悟られないよう、ゆっくりと呼吸を整え、カウンターの陰で返信を打ち込んでいく。
『うちはダメ。それなら、中華一筋の近くのエアバス停でどう?』
短い文章を何度か読み返し、間違いがないことを確認してから送信する。
しばらくすると、ノアからすぐに返事が届いた。
『分かった。時間は夕方六時でいいかな?』
『うん。六時にそこで』
待ち合わせの時間まで決まったことを確認すると、ウェンは端末を閉じようとした。
「何をこそこそしてるんだ」
「別に?」
突然掛けられた声にも、今度は驚かなかった。
驚かなかったつもりだった。
だが、返事が少し上ずってしまったことに、ウェン自身は気づいていない。
「アヤコからのメッセージだよ」
咄嗟に口から出た名前だった。
スミスは何も言わず、サングラスの奥からウェンを見つめていた。
その視線に耐えながら、ウェンは磨きかけだった武器を手に取り、何事もなかったかのように作業を再開する。
布を動かし、武器の表面を丁寧に磨いていく。
だが、その手つきには明らかなぎこちなさが残っていた。
同じ場所を何度も拭き、すでに十分磨かれている箇所に、さらに布を滑らせている。
その表情までは読み取れない。
それでも、向けられた視線の鋭さだけは伝わってきた。
「父さんは裏で仕事しなよ。店番は私がするから」
ウェンは視線を合わせないまま、少し強い口調で告げた。
「……分かった」
スミスは納得した様子こそ見せなかったものの、それ以上は追及せず、店の奥へ戻ろうと身体を向ける。
だが、ウェンにはもう一つ、今のうちに伝えておかなければならないことがあった。
「それと、店を閉めたら出かけるから」
その言葉を聞いた瞬間、戻りかけていたスミスの足が止まった。
ウェンはその反応に気づく。
だが、ここで言葉を止めれば、余計に怪しまれる。
そう考え、何でもないことだと強調するように、わざと明るい声を出した。
「友達と、ちょっと買い物に行ってくる」
「アヤコと行くのか?」
「そう! 女同士で買い物!」
ウェンはスミスがそれ以上尋ねるより早く、店の奥を指差した。
「いいから、父さんは裏で仕事!」
これ以上は何も聞くなとばかりに手を振り、スミスを店の奥へ追い払う。
スミスはその場にしばらく立っていたが、やがて何も言わず、ゆっくりと奥へ戻っていった。
その背中が見えなくなったことを確かめてから、ウェンは大きく息を吐く。
「……危なかった」
胸を撫で下ろしながら、カウンターの陰で端末をもう一度確認する。
待ち合わせ場所を伝えただけ。
ただ、それだけなのに。
画面に残るノアとのやり取りを見ると、先ほど落ち着いたはずの胸が、また高鳴り始めていた。




