豪徳寺の桜 終
人が散っていく。その流れに合わせて山川と詩音も家路に就いた。詩音が先を歩き、山川がついていく。会話はなく、歩く速度も普段より遅かった。先程までは詩音の目に涙はなかったが、今は分からない。メソメソしている所を見られたくないから前を歩いているのかもしれない。となると山川の方からは声を掛けづらかった。やはり連れてくるべきではなかったか。山川が誘わなければ、詩音も独りで見にくることはなかったろう。
今思い出しても胸が締め付けられる。チェーンソーの電源が落とされてから間もなく、駅長が桜の前へ歩み出た。黄色いヘルメットをかぶって囲いの隙間から桜の前へ侵入した。まずはロープに縛られ固定された桜に一礼。そして振り返り、訪れた人々へ深々と頭を下げた。桜を1周しながら4度。一言も喋ることはなかったが、本日はお付き合い頂き有難う御座いました。どうかお引き取り下さいと言わんばかりに。その姿を見せられてしまっては、他人は解散するしかなかった。誰よりも心を痛めているのは、豪徳寺駅長なのだから。
「お父さん、ちょっとだけボール蹴ろうよ。」
家に着く直前、詩音が山川を誘った。気分転換には丁度よい。詩音はサッカーが随分とうまくなった。うまくなり大きくなったから、もう柊公園は小さくなってしまった。もはや小さな女の子が無邪気に戯れるようにボールを追い駆けるのとは訳が違う。誰もいない早朝であれば周囲に気を遣うこともないのだが、昼間の柊公園ではそうはいかない。こういう風に少しずつ卒業していくのだ。
「公園でリフティングだけ。」
「わかった。いいよ。」
詩音は何か相談したいことなどがある時、静かに落ち着いて話をするということが苦手だった。緊張して思ったことが話せなくなってしまうのか、重苦しい雰囲気が嫌いなのか。そこで、リラックスした状態で、例えばリフティングをしながら話を切り出す。この方が言葉に詰まらないらしい。ちなみに4年生になった詩音、黙ってやれば100回、200回リフティングを続けるなんて朝飯前。軽く体を動かしながら、パス交換をしながらの方がリラックスできるのだろう。
「駅前のゴミ置き場に『石灰』の袋がたくさん捨てられていたの。」
どうにもヘンテコな方向から話が始まった。
「それはまだ寒い頃の話じゃないか?」
「そう、1月だったかな。私がまだ3年生の時。」
「それは凍結防止だよ。駅の階段とかが滑らないように石灰を撒いておくんだ。」
そんなことではないはずだ、詩音が疑問を抱いていることは。こんなことは飯でも暗いながらでいいだろう。しばらくの間は無言のままボールの交換が行われたが、やがて詩音が口を開いた。
「じゃあ、『除草剤』は?」
「っ!・・・・・・」
言葉に詰まる山川。実際にモノを見たことがなければ、使用経験でもない限り、小学4年生の女の子の口から除草剤という単語は出てこない。山川だって年に1回、駐車場に撒くくらいしか接点がない。夏前に雑草が生えてこないように使うのだが、最近はその役割も山川に回ってこなくなった。
「除草剤も寒い頃に捨てられていたのか?」
「うん、石灰の袋と一緒に紐で結んであったよ。」
高架化の為に豪徳寺駅の移転は必須だった。高架化するかどうかではなく高架化をするためにどうするかがスタート地点。そこで邪魔になったのが豪徳寺の桜。どうしても撤去しなければならなかった。むかしからある木で、いつの頃からか守り神のような扱いを受けている、切るとなれば相応の騒ぎになるのは分かっていた。だから悲話が付属された。誰もが諦め納得せざるを得ない悲劇的な理由が。そこで最もシンプルかつ効果的な方法が選ばれた―桜木が病気になったので切らなくてはならなくなった―完璧である。住民の事を考えればこその決断という印象を与えつつ、桜と豪徳寺が同情を受けられる。目に見える所に何かしらの異変が生じれば紛れもない事実だと思い込ませることは容易。異変が顕現しないのなら何でもいいから巻いておけ。得てして、全てが思惑通りに進むのだった。小田急線の踏切りは計画通りに高架化されていき、お陰で『開かずの踏切り』は数年後にはほとんど見られなくなった。移転後の豪徳寺駅前には有名なハンバーガーのお店ができ、話題のコーヒーショップもオープンした。自動改札は全部で4つ。これからまだまだ成長し、大きくなる。便利になる。近代化する。なくなったのは桜木と居酒屋。いなくなったのは駅長。そんな記憶も、開かずの踏切りと共に消えていった。
【豪徳寺の桜 終】




