12 トロイメライ
昇降口で待っていると、彼女は案外早く現れた。
軽く息が上がっている。相当急いだのだろう。
悪いことをしたな、と思いつつも、自分のために急いでくれたのか、と思うと、悪い気がしない。我ながら、困ったものだ、と思う。
「机といす、ありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げる。本当は、下心があったわけなんだけど。そんなこときっと、想像もしていないだろう。
「諸富、このまま帰るの?」
「他にどんな用が? もう、六時ですよ」
ちょっとだけつんとした物言い。思えば、最初の頃と比べてずいぶん、あわあわ、びくびくしなくなった。
これが、オレが彼女と過ごした一年とちょっとの、ささやかな成果だ。
あともう少しだけ、一緒に過ごせたら。
もう、安心して諸富を誘える行き先の当てなんて、一つしか残っていなかった。
オレのホームグラウンド。喫茶<トロイメライ>。
夕食に誘うのなんて、想定もしていなかった。でも、諦めきれなかった。
「いや、オレ、今日は家に帰っても家族みんな出かけてて、夕飯自分で買って帰るか、食べて帰るかしないといけないんだよ。よかったら、付き合わない? 諸富の場所、お邪魔したお詫びに奢るからさ」
口から出まかせに、家族の留守を言い訳にして、歩き出した。
やっぱり無理です、私もう帰ります。そう言われることを八割がた予期しながら。
そうしたら、ゲームオーバー。公式お兄ちゃんとして、彼女が普段乗るバス停までちゃんと送って、バスに乗るのを見届けて帰るつもりだった。
案に相違して、彼女は戸惑ったように首を傾げたけれど、慌ててついてきた。
……マジか。
思わず緩みそうになる頬を意志の力でぐっと引き締めつつ、オレは何気ないふりでスマホを操作し、こっそり母親に、夕食はいらない、というメッセージを送った。小さな嘘で、地上一センチの天使を捕まえてしまった。これがばれたら、地獄か……そう、シベリアに送られてしまうかもしれない。冗談めかして、そんなことを考えた。
トロイメライ、なんて、出来すぎている。ドイツ語で<夢>を意味する言葉なのだと、以前、マスターが教えてくれた。
今日の夕食は、きっと、オレの夢なのだ。
この時間を宝物にして、受験までのあともう半年、それから本当に自分のしたいことを成し遂げるための何年間かを、きっと頑張っていける。
そのための夢の時間なのだ。
◇
<トロイメライ>の少々厳めしい店構えに、最初は緊張した様子だった諸富も、マスター自慢のサンドイッチを前にする頃にはすっかり表情がほぐれて、笑顔になっていた。
今までにしたことがない、いろんな話をした。
兄貴のこと。
サンドイッチやおにぎりのこと。
家族のこと。
コーヒーのこと。
色彩センスのこと。
本のこと。
ずっと、諸富の読んでいる本を覚えていた、という、オレのちょっと情けない秘密。
マスターが面白がって、中学時代のオレが尖っていたことをばらしたのは少しだけ恥ずかしかったりもしたけれど、その話を聞いた諸富が本当に楽しそうに微笑んだから、マスターに後で文句を言うのはやめにしよう、と心に決めた。
向かい合えば、いくらでも話したいことが出てきて、自分でもびっくりするくらいだった。
諸富も、いつになく笑顔も言葉数も多くて、本の話以外でこんなに熱心に話す彼女を初めて見た。
誰かと付き合ったら、こんな感じなのかもしれない。
たわいもないことを話して、相手の反応の一つ一つが嬉しくて、相手の話すことが何でもすごく大事に思えて。
兄貴にいつか、女の子と付き合うなんてそんな面倒なこと、したくなる日が来るのかな、と尋ねたことを思い出した。そんな日なんて当分来ないと思っていた。こんなにあっさり、ひっくり返されるなんて思っても見なかった。
諸富も、誰かと付き合ったら、こんな風にずっと楽しそうなのかもしれない。
そう思うと、いても立ってもいられない気がした。
オレの誰かが諸富で、諸富の誰かがオレだったらいいのに。
その思いは、夕方の帰り道、浅野と話して以来ずっと、喉の奥に居座っている痛みをまた増幅させた。
この時間を思い出に頑張れるなんて、どうして思ったんだろう。
一度、この味を知ってしまったら、後には戻れない気がした。
また会いたくなるだろう。また、笑いかけてほしくなるだろう。
でも、夢の時間の終わりは、確実に近づいてきていた。
◇
最初に宣言した通り、会計はオレがもった。でも、店を出てから、諸富にしては珍しく、いったん納めたはずの議論でオレに反論してきた。珍しく、というより、これが初めてじゃないだろうか。
「やっぱり、奢っていただくわけにはいきません。先輩が稼いだお金じゃなくて、先輩のご両親が働いて、先輩が使うためにくださったお金なんでしょう」
「確かにそうなんだけど。でも、どう使うかはオレに任されているから。夕方、諸富が絵を描く邪魔をしていたのは確かだし」
そう答えたけれど、諸富の生真面目で何気ない言葉で、ふと親父の顔が浮かんだ。
どこか浮かれていた心にざあっと冷たい水を掛けられた気がした。
諸富に対しても、親父に対しても、中途半端なんじゃないか。夢の時間だ、と、浮かれているのは自分だけで、人を利用して自分を慰めているだけなんじゃないか。受験のプレッシャーに負けかけて、逃避の口実を探しているだけじゃないのか。
なのに、諸富は微笑んで、予想外のことを言ったのだ。
「じゃあ、食事より、絵を手伝ってくれませんか」
「何? モデルとか?」
動揺しているのを悟られたくなくて、とっさにふざけてみせた。人物のはいる余地なんか全く残っていない絵なのはわかっていたので、もちろん冗談だ。彼女は楽しそうに笑った。
「違うんです。夜空をどう描くか迷ってて、天の川、見にいきたかったんですけど、夜はやっぱり怖いじゃないですか。だから、ちょっとだけ一緒に行ってほしいんです」
諸富の絵が脳裏に浮かんだ。藤色の窓枠のなかで真っ赤に下塗りされていた、空。
夕焼けじゃなかったのか。赤だからてっきり、そう思い込んでいた。
「……もちろんお安い御用だけど、場所の当てはあるの?」
彼女はこっくりと首を縦に振った。ゆるく編んだみつあみが肩のあたりで揺れる。
「高校の隣の城跡公園。天守閣跡の展望広場です」















