13 空っぽ
展望広場につくと、諸富は歓声を上げて手すりに近寄った。
空は良く晴れていて、星がたくさん見えた。
高校の隣は、古い城跡である。堀に囲まれ、丘のようになった城跡全体が、今は整備されて公園になっている。ミニチュアで復元された天守閣と、郷土資料館が併設されている、市のささやかな観光資源でもあった。
でも、昼でさえ観光客も地元の人間もまばらな公園には、夜ともなれば、ほとんど誰もいない。特に、丘を登りきったところにある天守閣跡の展望広場は、街灯もまばらで、星もよく見えるけれど、確かに、女の子が夜一人で来るのは剣呑な場所だった。
彼女は手すりにもたれたまま、じっと夜空を見ていた。
きっと、明日どう描くか、シミュレーションしているのだろう。また、あの没入の瞬間が訪れていた。
今だれと一緒にいるかなんて、やっぱり、諸富にとってはさほど大きな問題ではないのかもしれない。
一緒に来る相手としてオレが選ばれたのは、安心できる公式お兄ちゃんだから、なんだろうか。
やっぱり、そう思うと苦しかった。
オレのほうを見てほしくて、野暮を承知で声を掛けた。
「ねえ、なんで下塗りが赤だったのか、聞いてもいい?」
「え、だって、あの山際のあたり、赤っぽいじゃないですか。真上に行くと真っ黒ですけど、グラデーションですよね」
彼女は一生懸命説明してくれたけれど、悲しいほどオレにはぴんと来なかった。
「つまりこれが、諸富とオレの差だよなあ。美術部なんで入ったんだろうっていうくらい、オレ、絵は才能ないから」
「うそでしょ」
彼女は驚いたようにオレを振り返った。やっとこっちを見てくれた、なんて思う自分にうんざりする。
けれど、それに続く彼女の言葉は、予想外だった。この期に及んで、まだ予想外のことが残っていたなんて、びっくりするけど。
「先輩の去年の展覧会の絵、覚えてますよ。雨の水滴がついた窓ガラス。その向こうの、ピントが合わないみたいにぼんやり霞んだ緑の景色。赤い傘を差してるみたいな、小さな人影」
「よく覚えてるね」
今目の前にあの絵があるみたいに、彼女はまた遠い目をして手すりの向こうの空間を見つめた。
「そりゃあ。だって、あの雨粒、本当に触ったら手が濡れそうなくらいリアルでした。絵葉書版にプリントしたら、写真だと思う人がほとんどじゃないですか。私には、あんな風に絶対描けないですよ」
オレの脳裏に、あの秋の日の光景がよみがえった。
食い入るようにオレの絵を見ていた、彼女の姿。思わず絵に触れそうになって、慌てて手を引っ込めて、そのままじっとそこに立ち尽くしていた姿。
オレは、あの横顔に、恋をしたのだ。
どうして今、そのことを思い出させるんだろう。
どうして、諸富にとってもオレが特別なんじゃないかって、見当違いの期待を持たせるんだろう。
彼女にそんなつもりがないと分かっていても、心の中に吹きだし続ける黒い靄は闇を濃くした。
自分の絵に嫉妬するなんて、なんて滑稽な人間なんだろう。あの絵のように触れたいと思ってほしいなんて、どうして願ってしまうのだろう。
喉の奥に貼りついたような言葉を、必死で押し出した。
「ありがとう」
マナーとして言うべき言葉。絵をほめられて、他に言うことが思いつかなければ、お礼を言えばいいと思う、と、オレ自身が彼女に言ったのだ。
でも、オレの口は、そこで言葉を止められなかった。彼女の顔を見ないように、空を見ているふりで、オレは続けた。
「オレは諸富がうらやましいんだ。いいって思ったものはいいって言えるし、他の人に見えない夜空の赤が見えても、ちゃんと、それを自分の中で抱えて、他の人に伝えられる形で出せるだろう。オレには、自信を持って自分の中から差し出せるものって、何もなかったんだよね」
みっともなくて情けない、オレの本心。
芯には何もない、空っぽの自分。それをさらけ出すのが怖くて、今まで、突っ張って、何かを探して、親父と争ったり、ムキになって勉強したりしてきたのだ。
空っぽの自分を隠すために。
これを見せたら、彼女だって、引くだろう。
彼女は当惑したようにかぶりを振った。
「だって、先輩、勉強めっちゃできるじゃないですか」
オレは自嘲気味に笑った。
「勉強なんて。オレは必死で頑張ってあの位置だけど、トップスリーの奴らなんて、オレの半分の勉強時間でそんなの軽々越えて、もう次のことしてるんだよな。高校来て、そんなことの連続。オレは小器用なだけで、特別な才能なんてないって痛切にわかっちゃってさ。でも、うちの高校の特進なんて言ったら、親とかは絶対期待するんだよな」
自分の中に価値のあるものなんて何もない。嫉妬と失望と、ばらばらに壊れた子どもっぽいプライドのかけらがあるだけだ。そこから、必死に何かをかきあつめて、つなぎ合わせて、やっと、自分の行くべき方向を見つけたと思っていた。
でも、やっぱり、それは違ったのかもしれない。結局、好きなものもやりたいことも、まだ何も見つかっていない。
芯の芯は、ずっと空っぽのままなのかもしれない。
オレは堰を切ったように、諸富に話していた。
親父のこと。伯父と兄貴のこと。太田のこと。太田に比べて、自分がいかにちっぽけだと感じたか、ということ。塾をやめたこと。文転したこと。
諸富は、まっすぐにオレを見ていた。大きな目でじっとオレのことを見て、うなずいて、話を聞いていた。そこには、軽蔑も、嫌悪も、中途半端な反論も励ましもなかった。彼女はただ俺の話を受け止めて、オレの代わりに、泣き出しそうな顔をした。
奔流のようなオレの話にいったん区切りがついたとき、彼女は、言った。
「自分の中に差し出せるもの、何もないなんて、さっき言いましたよね。でも、先輩こそ、自分の中の決断がちゃんとあるし、それを他の人に伝えているじゃないですか」
喉の奥の刺すような痛みが、一気に広がった。
どうしてこんなことを言えるんだろう。オレが聞きたくて仕方なかった言葉を。ご機嫌取りでもなく、お世辞でもなく、ただそこにある本当のものとして差し出してほしかった言葉を、どうして諸富はこんなにぴったりと言い当てられるんだろう。
いっそ、それは残酷だ。
「諸富は優しいね。ダメだよ、誰にでもこんな風に接してたら、すぐ勘違いされるから」
苦々しい気分で言ったオレに、彼女は思いがけず、つんとそっぽを向いた。
「誰にでもなんて、言いません」
ああもう。その仕草。言葉。こちらをあおってるとしか思えない。
もちろんそんなわけはなくて、オレがここで勘違いして自分の欲望のままに行動すれば、二人とも、完膚なきまでに傷つくことになるわけだけど。
その苦さを抱えきれなくて、オレの口からは、自然に言葉が零れ落ちていた。
「じゃあ言うけど。こんなところに二人で来て、オレが今日、諸富を誘ったのは下心があったからって言ったらどうする? これ、冗談とか、もしもじゃなく言うんだけど、オレは諸富が好きだ」
「……へ? え?」
諸富の動きが完全に止まった。あの大きな目を少し見開いて、凍りついたようにオレを見返す。
オレの思考も真っ白になった。今オレ本当に言った? 言わないでおこうと思っていた、オレの最後の秘密。
言ったから、諸富は呆然と固まっているのだ。わずかに残っていた、冷静なオレの一部分が、ぼんやりしている自分を蹴り飛ばした。
こんな風におびえさせるつもりじゃなかった。せめて、ちゃんとフォローしてやれ。
オレは必死で、いつものお兄ちゃんモードのスイッチを探して、もう壊れかけになっていたそれを無理やり起動した。
「……ごめん。こんな風に言って、困らせるつもりじゃなかったんだけど。下心って言うか、本当に一緒にご飯食べたかっただけなんだけど、諸富がぽやんとしてて、他の誰かの前でこんな風に振る舞って、危ない目に遭ったらって思ったら急にたまんなくなって。変なこと言ってごめん」
本当はそこで止めるべきだったのだ。でも、次の一言は、どうしても言いたかった。わがままでも。
「でも、嘘じゃない」















