11 青紫のポトス
浅野との会話は、オレ自身が思っていた以上にオレの心を揺らした。
薫ちゃん、ずっと気にしてたんですよ。
先輩が来なくなったら、きっと寂しがります。
そんなの嘘だろう、と思う。
あの諸富が誰か他の人の行動で自分のペースを崩すわけがない。
誰に話しかけられても、口ごもったり赤くなったりしやすい子だったけれど、誰かが諸富にとって特別な存在になるなんて、想像がつかない気がした。
そんなことが起こるくらいなら、好きな人は……そう、改心した後のラスコーリニコフです、なんて言われるほうがまだしっくり来る。
いつか心のなかで転がした、空虚で甘い想像を呼び起こしてみる。
好きな人は、小説のなかのあの人です。そんな風に言って、頬を赤らめる諸富。
けれど、一年前は確信できたそのイメージが、いまでは朧で、全く確信が持てなくなっていた。
もしかしたら本当に、諸富もいつか、一センチ下界に降りて、地面に足を踏みしめて、普通の女の子みたいに恋をしたりするんだろうか。今のオレが見たことのない表情で、誰かに笑いかけたりするんだろうか。
嫌だ、と思った。
その相手がオレではないとしたら、嫌だ。
いつかの生々しくて激しい感情、いったん水の底に沈めて冷やしていた感情が吹き上げるように沸いてきて、心の奥から視界を濁らせていくようだった。
こんなの、みっともない。
浅野はちょっと感傷的になって、女の子特有の、誰と誰が相性がいいとか、くっついちゃえとか、よくある乙女の希望的観測をこぼしたに過ぎないのに、それを真に受けて動揺している自分が情けない気がした。
実際のところ、諸富が一ミリでも、オレのことをそんな風に思っているわけがない。
そう思って、気持ちを切り替えようとした。
でも、四日目の補講は惨憺たる状態で、オレの集中力はずたぼろだった。
放課後の勉強会に出ても、モノになる気がしない。
重たいバッグを担いで校内を歩いているうち、無意識に、足はその場所に向かっていた。
しんとして、風が吹き抜ける廊下。
一年前と変わらず、彼女は一人で、そこにイーゼルを立てて、真剣な眼差しでキャンバスを見つめていた。
つとめて、何でもないふりで話しかけた。
「いやあ、暑いねー」
「小木曽先輩、もう引退でしょ。何で今日も来てるんですか」
イーゼルのかげから、ひょこっと顔を出す。精一杯のぶっきらぼうな言い方で、先制パンチ……先制猫パンチをかましてくる。オレは内心で相好を崩した。
そんなの、逆効果でしかないのに。
その瞬間、オレは心を決めた。
今日一日。この後の数時間、諸富が自分からオレのそばを離れていくまで、この子のそばにいてみよう。
しつこいな、と本気で嫌な顔をされれば、ふっきれるだろう。何のこだわりもなく、用が済んだ瞬間に、じゃあこれで、とあっさり帰られたら、諦められるだろう。この子の中に、オレの入る余地が一ミリもないと改めて実感したら、彼女がオレの高校生活に果たしてくれた役割に感謝しつつ、思い出に変える作業に入ろう。
ほんの数時間でも、今まで美術部で過ごしていた時間よりはよほど長い。オレはちょっと顔を出すだけの、あまり熱心ではない部員だったからだ。
それだけの時間があれば、もしかしたら、この後の彼女の人生がオレと全く関わらないものだったとしても、高校時代、ちょっと変わった先輩がいたな、くらい、どこかで覚えていてくれるかもしれない、と思った。
◇
ここが居心地がいいから、と、およそ無理のある言い訳をして、そこに居座った。絵を描く諸富の横にカバンを降ろして、机といすも借りてきた。諸富は戸惑ったような顔をしたけれど、すぐに諦めたらしかった。
少し重い机といすを持って戻ってきたときには、もう、彼女は絵に没入していて、オレのほうを見ようともしなかった。
ほら、やっぱり。気にもされていないんだ。だから、大丈夫。今日で終わりにできる。
奇妙な安堵を覚えつつ、オレは顔をあげれば彼女が視界に入る位置で、参考書を広げた。
一時間ほどたって、夏の長い陽が少し傾いてきたころ。四時半くらいだったか。廊下の向こうからにぎやかな声がした。
「薫ちゃん、まだやってる? そろそろ終わりにしない?」
「<まつみや>にかき氷、食べに行こうよ」
オレが振り返ると、伊藤と浅野が廊下の角から顔をのぞかせた拍子に、ばっちり目が合った。二人はぴたっと口をつぐんだ。
びっくりした表情の伊藤と、訳知り顔にうなずく浅野に、オレは精一杯突っ張って、笑顔で人払いの仕草をしてやった。
今日くらい、諸富の時間、オレにくれよ。
そんなメッセージが伝わったのだろう。二人は全開のにやにや笑顔になってオレに会釈すると、その一連のやり取りに気づいてもいない、絵に集中したままの諸富に小さく手を振って、そのまま回れ右をして姿を消した。この分だと、あの二人は、高校近くの駄菓子屋<まつみや>で、かき氷を挟んでオレの行動を肴に散々盛り上がるんだろう。オレは頭の中で、この後の行き先候補リストから、<まつみや>を二重線で消した。
相変わらず諸富は浮世離れしている。本を読みながらでも周りの話を聞いていられるくせに、いったんスイッチが入って集中すると、周りの気配を完全に自分の意識からシャットアウトできるらしい。
受験生の立場からすれば少しうらやましい能力だな、と思いながら、オレも自分の参考書に戻った。
◇
彼女がようやく我に返ったのは、教頭がアナウンスする完全下校十五分前の校内放送が入った時だった。
もうそんな時間、と慌てて散らばった絵具のチューブや絵筆を片付け始める。
オレは描きかけのキャンバスを眺めた。
室内から外を眺めるアングルの、窓の風景だった。腰高の窓辺には観葉植物の鉢がおかれ、長いつるを下に伸ばしている。さっき、ここに来た時には平板だった観葉植物の葉が、ぐんと陰影を増して存在感を放っていた。窓の外は、真っ赤に塗られた空。そちらはまだ下塗りなのだろう、キャンバスの生地の質感が分かる程度に薄く延ばされた色が平板に置かれているだけだ。
ブルーグレーの壁、藤色の窓枠の上に置かれた、紫みがかった濃い青の観葉植物。独特の色遣いだった。
観葉植物は、ポトスというやつだろうか。先のとがった卵形の葉がついて、蔓が枝垂れるタイプの植物だ。実物は淡い緑色にクリーム色っぽい斑が入っているこの植物を、この色に描くセンスは、オレの中にはなかった。でも、奇妙な感じはない。この絵の中で、この植物は景色にしっかりなじんでいた。
素朴で力強い雰囲気、勢い良くうねるような描線は去年の絵にも通じる。
やっぱり、いい絵を描く。さっき最初に見たときも思ったけれど、諸富らしい絵だ。
彼女が絵を片付け始めたら、どこかに寄っていかないか、と誘うつもりだった。けれど、彼女の集中力、持続力は予想以上だった。さっき、<まつみや>をそのリストから消したけれど、そもそもこんな時間では、この後どこかに、という誘いも難しい。
最終下校がタイムリミットだろうか。こうやって、静かに並んで、諸富は絵を描いて、オレは勉強した、という思い出で閉じればいいのか。
それじゃ嫌だ、と思った。
まだもう少し。もう少しだけ。
オレはとっさに言っていた。
「ここは片付けておくから。諸富はそのキャンバスと画材、戻しておいで」
「いえ、そんな」
「いいって。ほら、早くしないと、屋島先生の雷が落ちるよ。昇降口で待ってるから」
諸富は何か言いたげに口を開けかけたけれど、結局何も言わず、頭を下げて、美術室のほうに駆けて行った。
どこまでもずるくなれる自分に、オレは自嘲の笑みを浮かべつつ、二組の机といすを片付けた。
時間がギリギリだった諸富に、机といすを片付けてあげる、と持ち掛ければ、義理堅い彼女は、オレを無視して帰ることはできなくなる。待っていると言えば、彼女が同意した待ち合わせでなくても、彼女は恩義を感じて、約束を守らなくてはという気になるだろう。
そうまでして、それでも、オレは、あともう少しだけの時間のためのチャンスが欲しいのだ。
みっともなくても、あさましくても。















