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本日3話目。
サァ――と雨が地面を叩いている。カツカツコツ、空の涙は窓をもノックしている。
聞こえてくる音に、ナナリアは、いつの間にか聞き慣れた自分がいることに気がついた。その事実に、また、枯れない涙がナナリアの頬を伝う。
両親が亡くなってからどれくらいの時間が流れたのか。
多分、……たくさんだ。
あれからリウイーア侯爵家は大きく変わってしまった。
まず、爵位を父の弟――ナナリアにとっての叔父が継いだ。
エビリウス・リウイーアという名のその人物は、驚くことにこれまでリウイーア侯爵家を支えてきた使用人のほぼ全てを入れ替えてしまった。
ナナリアも、もちろん抗議した。
けれど聞きいれてはくれなかった。
それどころか屋敷の別館に押しこまれてしまった。
新しく配属された使用人たちは、全員、叔父の言うことを聞いて機械的に動く人たちばかりで。
だから――ナナリアのことを可哀想だと内心思っていたとしても――これまでにように話し相手になってくれたり、分からないことを教えてくれたりする人なんて、どこにもいなかった。
ナナリアは、一人ぼっちになってしまった。
「…………」
部屋の隅で体育座りをして、何も考えずにうずくまり続ける。
雨の音が脳内で反響している。
考えるな、思考するな。でないと現実に押しつぶされてしまうから。
顔を膝に押しつけると、ナナリアはさらに体を縮こまらせて、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。
以前までであれば勉強をしていた時間帯さえ、ナナリアに教育を受けさせまいとした叔父エビリウスによって否定されてしまっている。
叔父はナナリアを嫌っていた。
正確には、実の兄であるナナリアの父をそれはもう心の底から嫌っていた。憎んでいたといっても過言ではないくらいに。
昔からことあるごとに突っかかってきた厄介な人間であると、ナナリアの父が言っているところをこっそり覗いていたことがあった。盗み見していたのがバレて怒られたところまででワンセットになっている記憶だ。
叔父が自身の妻に暴力を振るっていたことが露見して、離婚騒動に発展した時のことである。
なお最終的に妻は実家へ逃げ帰ってしまい、エビリウスは離婚せざるを得ない状況に追いこまれた。
だから今は独り身だし、その時から彼は一人別館暮らしを強要されるようにもなった。
ナナリアの今いる別館は、もともとエビリウスが生活をしていた場所でもあるのだ。
次第に雨音が強くなっていく。前までは本館の二階に自室があったから、地面を跳ねる雫の音なんて聞こえなかった。
慣れてしまったと感じたのであれば、やはりそれなりの時間が経ってしまっているのだ。
控えめに扉をノックされても、ナナリアは身動きひとつしなかった。
「失礼します。夕食をお持ちしました」
使用人は部屋の主の許可を取らず、入ってくる。
机の上に湯気のない皿が五枚乗せられたトレイを置き、さっさと出ていってしまう。
「…………」
しばらくの間、沈黙が降りた。
あるいは、戻ってきた――と表現すべきだろうか。
ふと零れ落ちたのは、先と同じ雫。次々と流れだしては、なぜだか止まらない。
否、この氾濫の原因をナナリアは知っていた。
というより、経験から推し測れた。
ああけれど、夕食は取らなければならない。
そうで、なければ――…………
脳裏によぎった事実という名の過去に、無意識下で自身をより強く抱きとめていた。
けど、でも、ご飯は食べなければならない。どうしようもなく拒絶する体を心で押し止めて、ナナリアは立ちあがった。
ふらつく足取りで机に向かう。
ナイフとフォーク、それからスプーン。無機質に固まった脂がところどころ白く浮き上がっている牛の塊肉の煮込み料理。つけあわせのブロッコリーとにんじんにもこってりとした様子のタレがかかっていて、隣にサラサラと乾いていそうなフライされたくし状のじゃがいもが三本頭を揃えて並べられている。
カップには冷え冷えとした水面の中、今にもくったりと消えてしまいそうなオニオンが息を潜めていた。色褪せたパセリが無造作に散らばっている。
きっと暖かいままで食べることができたら、まだ、美味しいと思えたのかもしれない。
……思えなかったのかも、しれない。
ナナリアは無表情のままに椅子を引いて、座った。考えるなと脳みそで唱える。
まだ両親が生きている頃に教えられたマナーで、カトラリーを用いて食事を始める。綺麗に動く自分の手にはようやく慣れた。
少し前までは、たったのこれだけで両親を思い出していた。
思い出して、吐いた。
初期の頃は何も食べずに嘔吐したものだから、胃液を犠牲にしていた。
無表情で無感情でいないと、かつての光景に縋り続ける体が拒否反応を起こしてしまうから、今日もナナリアは無理やり思考を止めてただただ手を動かす。
食器のたてる音が、雨のそれに混ざりとけていく。
響いて、反響して、戻ってくる。
咀嚼するものの温度に、まとわりついてくる感触に、聞こえてくるぐちゃりという肉の潰れる音色に、ナイフが皿と擦れる無機質が渦巻いてくる。
必死に堪えた。
これでも、頑張った方だった。
――結局三分の一と少しを口につけたところで、今日もナナリアは一回、食べたものを戻した。
食べきらないと叔父のエビリウスから殴られるので、あと三回ほど嘔吐を繰り返しながら、どうにかぬるま湯を通り越し冷え切ったスープを喉奥に流しこんだ。
吐瀉物はトイレに消し去った。こんな行為すら、いつのまにか慣れてしまっていた。
両親はもう、いない。
きっとナナリアの中でその事実はほんの少しずつ、少しずつ、呑みこまれつつあるのだろう。
そうでなければ、前までは食べなくとも吐いてしまっていた『一人で食事をとる』ことを耐えられるようになってきているわけが、ないから。
いつか消えてしまうのが怖い。
けれど、まだ八歳のナナリアにとっては、叔父からの暴力という圧倒的な物理に対抗する手段なんてなかった。
そうしてナナリアは、空になった食器が置かれた机から一番離れた部屋の隅にうずくまる。
こうやって耳を塞いで目を塞いで思考すらをも塞いでしまわないと、両親のいた時間がどんどんと遠ざかってしまう。
別館に閉じこめられてから今までずっと、彼女は変わらぬ日々を過ごしていた。
今日も、特段変わらずにこのまま夜が更けて、気づいたら寝ていて、朝食を持ってきた使用人が扉をノックする音で目覚める。
変わらない日々を、送る――はず、だった。
唐突に扉が、丁寧にされど勢いよく、開け放たれる。
入ってきたのは、複数の女性の使用人たち。
「お嬢様」お立ちください、と圧力をかけられる。
ナナリアは子ウサギのように肩を小さく震わせると、すぐに壁を伝って腰をあげる。両親の存在が塗りつぶされていく代わりに、大人という存在すべてに恐怖を抱きつつあるナナリアであった。
そんな彼女の様子を把握しているのか、あるいは無視しているのか。
先頭に立った使用人はただ単調に、事実を伝えた。
「王宮から使いの方がいらっしゃっています。今すぐに準備を始めますので、こちらの椅子に座ってください」
いつのまにか空の食器は下げられていた。




