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空に海  作者: 真倉あたり
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8.青い石

 レイシャの郷土料理であるキノコ鍋は、まず始めに沸いた湯に乾燥させたルッカ茸を入れ出汁をとる。国のどこにでも自生するルッカ茸だが、山に囲まれるレイシャのものは他のものと比較できないほどに味が濃い。乾燥させた出汁であればなおさらである。そのまま食べるにはその味の濃さがむしろマイナスにつながってしまうのだが、出汁として用いると、濃厚で香り高いスープが出来上がる。そこに、カル茸、ピノ茸、オロロ茸、それから旬の野菜を具材として山のように敷き詰め、蓋をする。それが煮立つと完成である。一方、セルロで食べられるサオべはルッカ茸と肉がメインの具材として用いられる。以前、せっかくのカルダたちのご馳走でありながら、ウーモはその味の強さと臭みに耐えられず、あまり食べることができなかった。その反動か、今日ここで出されたキノコ鍋をウーモは普段以上に多く食べてしまった。


「この前ロデさんから美味しい果物をもらったから、デザートにしましょう」


 そんなウーモの様子を見たターニャは満足げにそう言って、空っぽになった鍋を掴み、キッチンへと向かった。

 それを見たウーモは、良い隙が生まれたと捉え、家を出るために立ち上がろうとする。すると、スーに腕を掴まれる。弟のあどけない甘えからの行動かと思い、何か言い訳をしてその手を解こうとしたが、彼の表情の真剣なことに気づく。

 そして、スーが言う。


「ねえ、ウーモ……ウーモはどうしてお母さんが嫌いなの?」


「それは……」


 それは、ウーモが何よりもスーから避けていた言葉だった。

 この夕食でウーモは確信したが、スーは母親のことを間違いなく母として愛しており、彼女からの愛も疑っていない。それはウーモにとっても嬉しいことだった。自分がいないこの二年の歳月、スーを守ってあげられる人間がターニャだけになってしまった。それは間違いなく自分の勝手から生まれた環境であったため、もしスーがターニャから虐げられるようなことがあるのであれば、彼の手を引いて連れ出すほうが良いだろうかと考えたこともあった。だが、今のところその心配は無さそうで、彼女をほっと胸を撫で下ろしていた。

 しかし、それがわかると今度は、自分の彼女への不満をスーが知ることによって、二人の関係性に溝が生まれてしまうのではないかという心配が新たに生まれた。自分が彼女を許せないからと言って、すべての人にとって彼女が悪人になるわけではない。彼女のことを信頼し尊敬している人だって、この町には多くいる。その中でスーが幸せに生きられるのであれば、その邪魔をすべきではないとウーモは思っている。だが一方で、スーに嘘を吐きたくないという気持ちも共存しており、その結果としてその話題を避けるという選択を常に取っていた。しかし、今、彼の方からその話題に触れられてしまった。

 スーがしばらく待ってもウーモは言葉を続けようとしない。彼は返事をもらえないと諦めたのか、掴んでいた手を離し、自ら話し始める。


「僕はお母さんが大好きだよ。ウーモと同じくらい大好きだ」


「それは……とても良いことだわ」


 ウーモの本心である。


「でも、最近一つだけモヤモヤしてることがあるんだ」


 予想していなかったスーの話の続きに、ウーモは眉間に皺を寄せる。


「アサ族のことなんだけど」


「アサがどうしたの?」


 ウーモは俗に〈翼の生えた人〉と呼ばれる彼らのことを、彼らの言葉に敬意を表して〈アサ〉または〈アサ族〉と呼んでいた。それはもちろん、友人であるロロに教えられたのがきっかけだっだ。だが、彼から聞くまでその呼称を聞いたことがなかったので、たった今スーが彼らのことをアサ族と呼んだことに内心驚いていた。もしかすると、今は学校で習うのだろうかと考える。

 アサ族が彼らの言う〈翼のない人〉、つまりはウーモのような人々と交流することは滅多にない。そのため、彼らが実際にどれほどの範囲で生活しているのか、どれほど多く存在しているのかを正確に把握している〈翼のない人〉はいないと言われている。だが数少ない研究者たちに言わせると、その数が年々減っているのだけは確かだそうだ。実際、毎日空を飛んでいるウーモですら、彼らの姿を見かけることはめったにない。

 アサは基本的に山の中に小さな拠点を作り、自給自足の生活を送っている。そんな彼らの拠点は翼の生えた彼らにとっては住みやすく、襲われにくい場所だが、そうでない者にとっては不便な土地である。だからこそ彼らは「翼のない人」と長い歴史の中でも争ったことがほとんどなかったのではないかとも言われている。

 そのように敵対の歴史を持たない彼らの集落の中には、ここ十数年の中で〈翼のない人〉と交流を持ち、彼らの中だけで伝わる薬を提供することで、下界の物資を受け入れるという、いわゆる交易を行うようになった者たちもいる。だが、それはいまだ極めて少数派である。ロロのようにしょっちゅうウーモの前に顔を出すアサは例外中の例外である。ウーモにとってロロは初めて言葉を交わしたアサであり、いまだに唯一の面識があるアサでもある。


「彼らがどうしたの?」


「手紙でお母さんが病気だって書いたでしょう?あれ、かなり悪いみたいでアサの人から薬をもらってるんだ」


 それを聞いてようやく、そのことを思い出すウーモ。たった二か月前、揺れの月の頭に読んだことだというのに、流石に薄情すぎるかと少し恥じる。


「よく見つけられたわね。毎日空を飛んでても、滅多に彼らを見かけないのに」


「うん、なんかお母さんの知り合いの知り合いだって言ってた。そのアサの人はすごく優しくて、僕にも町の外のことを教えてくれるんだ!あの模型を作るのを手伝ってくれてるのもその人だし」


 ウーモはなるほどと合点がいく。流通関係の仕事をしているターニャのことである、仕事の関係で交易を行うアサに繋がりが生まれることもあるだろうと思えた。そうなると、棚にあった手作りの置物もおそらく彼らのものだろうと考えつく。前に一度空飛ぶ海のベッドが壊れてしまったとき、タイミングよく顔を出したロロがあっという間に修理してくれた。自給自足の生活を行う彼らにとって、手先の器用さと言うのは生きていく上で必須の能力であった。


「よかったじゃない」


「うん、だけど……お母さんのその人への態度がなんか変っていうか……」


「変?」


「なんか、特別何がってのはないんだけど……。優しく見えるんだけど、優しくないっていうか……」


 つまりは、無意識的に見下しているのだろうとウーモは考える。こんなにも平和な時代にもかかわらず、一部の人間――特に自分を偉いと思っている大人たち――は、アサの人々を文明に置いていかれた野蛮な集団だと毛嫌いしている。噂に疎いウーモですら、中にはこの国から追い出すべきだという強硬派がいると聞いたことがある。ターニャがそこまで過激な差別意識を持っているとは思わないが、そう思っている人が周囲にいるからこそ、アサの助けを内心恥じているぐらいのことならば考えられるとウーモは思った。彼女にとって周囲にどう思われるかと言うのは、それほどに重要なことなのだ。そうまで思い至ったが、自分がその現場を見たわけでもないのに、自分のこの考えをスーに伝えるべきかどうかを悩んだ。自分がはっきりとそう言ってしまうと、スーがそれを完璧に正しいと信じてしまうのではないかという懸念があった。口下手な自分には、上手に婉曲的にそれらを伝えることはできないだろうと思う。そしてそうなれば、彼と母親との間に明確な溝を生み出してしまうことになるのは、間違いないだろう。

 そんな思いから、またしてもウーモは何も答えられない。スーにこのような心配の芽を植え付けたことへの怒りからターニャが向かったキッチンの方を睨みつける。

 すると、先ほどまでカチャカチャと食器を片付けるだけだった廊下の向こうから、微かに話し声が聞こえる気がした。そこでウーモは、ただ果物を持ってくるだけのはずのターニャがなかなか戻ってきていないことに気がついた。


「スー」


 ウーモは、静かにするようにという意味も込めて、声を限りなく落とし、スーの名前を呼ぶ。


「な、何?」


 意図を汲み、スーも静かな声で返事をする。


「最近この時間に人が来ることはある?」


「ううん、もう暗くなっちゃうし。そうでなくても、めったにお客さんは来ないけど」


 何やら嫌な予感がしたウーモは、スーに動かないよう伝え、自身も音を立てないようにしながら、話し声のする廊下へと進む。声の主はキッチンにいるようだ。近づくと、ウーモが聞こえる限りでターニャの他に男が二人いるのがわかった。彼らもできるだけ声を落として話しているようで、ウーモはその内容を聞き取るためにキッチン入口のギリギリまで近づかなければならなかった。

 男の内の一人が言う。


「ターニャ、あなたが言っていたとおり、ゴーニャ山の麓に空飛ぶ海がありましたよ」


「それで?」


 小さな声ではあったが、ターニャの男への質問には怒りが込められているのがウーモにははっきりとわかった。


「それで……とは?」


「あの青い石はちゃんと取ってきたの?」


「いえ、鍵が閉まっていたので中に入れず……」


「じゃあ、ドアでもなんでも壊せば良いじゃない!」


 二年前の「売りたい」ですらウーモを怒らせるのに十分な言葉だったというのに、今度は「壊す」である。ウーモは怒りで頭が真っ白になりそうなのを必死で抑え、空飛ぶ海を救い出しに行こうと振り返った。すると、ウーモの尖った鼻先が何かに思い切りぶつかる。


「いっ」


 思わず声を出すウーモ。だが、それが彼らに聞かれてしまうかもしれないという心配はする必要がなかった。ウーモが顔からぶつかったのは、二年前にターニャが空飛ぶ海の売却を持ちかけていたあの男の胸板だった。突然のウーモの頭突きに男は「ううっ」と声をあげ苦しんでいる。先に状況を把握したウーモがこの隙にと横を通り抜けようとしたが、あと一歩のところでその男に両肩を掴まれ、そのまま壁に押さえ込まれる。

 その衝撃で、ウーモの呼吸は一瞬止まる。


「こら、暴れるんじゃない。君のためなんだ。……ターニャ!ウーモがここにいました!」


 男は暴れるウーモを必死に抑えながら、キッチンにいるターニャを呼ぶ。


「離して!」


「ダメだ……痛っ!」


 ウーモがぴくりとも動けず、希望を失いかけたとき、突然男が苦痛の声をあげ、ウーモから手を離す。

 何が起きたかわからないまま、とにかくこの場を離れようと出口の方へと駆け出したウーモが振り返ると、そこには男の二の腕に噛み付いているスーが見えた。


「スー!」


 それを見て、ウーモが一瞬立ち止まると、スーが「走って!」と叫ぶ。一瞬躊躇したウーモだったが、ターニャが彼を傷つけることはないはずだと信じ、また全速力で走り出す。


「スー!約束よ!絶対にいつか空飛ぶ海にあなたを乗せるわ!」


 家のドアを蹴り開けながら、ウーモはスーに届けと、人生で一番大きく声を張り上げた。


「ウーモ、待ちなさい!……あなたたち、追いかけて!」


 ウーモの耳に同じように叫び声を上げるターニャの声が届く。そこで初めてウーモは自分の声がターニャに似てきたことに気がつき、ゾッとした。

 どうやら、先ほどターニャと話していた男たちはキッチンの中ではなく、裏庭から窓越しに話していたようで、ウーモの視界の端に、近づいてくる三人ほどの男の姿が目に入った。彼らとは逆方向へと走りながら、ウーモは自分の運動不足を悔いる。日がな一日空飛ぶ海に乗っている体では、大の大人との真っ向勝負に勝てるはずもない。ウーモは少しでも追い付かれないようにと、子供の頃に歩き慣れた狭い路地裏をジグザグに進んでいく。毎日のように一人で町中をぶらついていた子供時代に感謝する時が来た。


「あっちだ!」


「噴水の角を曲がったぞ!」


「俺はこっちから行く、お前は回り込め!」


 男たちの声が増えているのをウーモは感じる。一体、何人の大人がターニャに協力しているのだろうか、それを冷静に数える間もなくウーモは右に左にと走り続けた。自分の息がどんどん荒くなっているのが耳に届いた。心臓のあたりが痛くなり、喉を通る空気の冷たさをはっきりと感じ始めた。しかし、それでも必死に走り続ける。




 日が沈み、町一体が暗くなっていることも幸いし、なんとか彼らに捕まらず、街の端の方へと辿り着いたウーモ。おそらく、わかりやすく村から出る道は先回りされているだろうと、彼らの目を掻い潜って、一つの隘路へと辿り着く。何軒もの平屋に挟まれた場所だ。ここを通り、奥にある小さな柵を乗り越えると、その先は果樹園に出られるはずだとウーモは記憶を呼び起こしていた。果樹園にさえ行けば、誰も自分を捕まえられない。限界が近づくウーモの顔に安堵の表情が浮かぶ。だが、そんな彼女の希望の芽は、目の前に立ち塞がった真新しい壁にあっさりと引き抜かれてしまった。


「うそ……なんで?」


「最近できたんだ。腹を空かせた野生動物がそこから街に迷い込んできてね」


 ウーモの呟きに、一人の男が答える。その声から先ほど裏庭からターニャと話していた男だとわかる。いつの間にかすぐ後ろまで来ていたらしい。

 息を切らしながら、その男を睨みつけるウーモ。どこかに逃げ道はないだろうかと画策するも、道はその男が立ち塞がる一本しかない。

 男が一歩ウーモに向かって近づく。


「来ないで!」


「ウーモ、落ち着いてくれ」


「空飛ぶ海は誰にも渡さない!」


「ターニャは君のことを心から心配している。まずは話を聞いてあげてくれ」


「私を心から心配しているなら、私から空飛ぶ海を奪ったりしないわ」


 ウーモの叫びに、男は返す言葉を失う。

 そんな男を見て、なぜターニャを信じる人たちはみな、こんな簡単なことさえ気が付かないのだろうかと腹が立つ。彼女の言葉はそのときその場で耳障りがいいだけで、繋ぎ合わせればすぐに綻ぶことをウーモは知っていた。疲労から翳りを見せていたウーモの怒りにまた火が灯る。


「お父さんに似て良かったわ」


 そう言って、ウーモは長い手足を使い、勢いよく平屋の窓の桟と屋根の出っ張りへと捕まると、新品の壁のてっぺんへとその体を持ち上げていく。

 だが、そんなウーモを逃すまいと、男も必死に窓枠に足をかけ、伸ばした手でウーモの足首にしがみつく。


「待つんだ!」


「いやよ!」


 叫び声と共に、掴まれていない足で力一杯男の胸を蹴り飛ばすウーモ。男の口から「カヒュッ」と肺に残っていた空気が勢いよく飛び出た音が聞こえ、自分の足を掴んでいる手の力が緩むのを感じた。だが、安心したのも束の間、男を蹴った反動で今度は自分が壁の向こう側へと落ちていく。

 月明かりもほとんど届かない地面。ウーモはなんとか地面に足から着地するものの、目測を誤ったせいで勢いよく右肩から転ぶ。強烈な痛みが肩に走った。次いで熱を感じる。暗闇でよく見えないが、血が服に滲むほど出ているのがわかった。

 壁の反対側から男の呻き声が聞こえる。その声から重症ではなさそうなことを確認し、少し安心するウーモ。どうしてこんな目に遭わなければいけないんだというターニャへの恨みを、足を動かすエネルギーへと変換しながら、また空飛ぶ海のある方へと進み始める。肩の熱と痛みのおかげで、頭ははっきりとしていた。

 そうして少し進んだところに、見覚えのある変わった枝の生え方をしている木を見つけた。頭の中に上空から見た果樹園の地図を浮かべる。よし、間違いなく辿り着けると、空飛ぶ海を停めた方角をまっすぐ見つめる。




 ウーモがついに山の麓へと辿り着いたころ、服に擦れるだけで傷んでいた肩の痛みはもはや麻痺して何も感じなくなっていた。血が滲んでいたはずの部分はほとんど乾いている。町で自分を追いかけてきた男たちは撒いたし、あの果樹園を自分より早く通れる人はだれもいないはずだった。

 だが、ウーモが空飛ぶ海の目の前に来たとき、そこにはすでに数人の男たちと、ターニャの姿があった。地面に目をやると、そこには月明かりでもはっきりと見えるほどの轍が残り、その轍の行き着く先には数台の車が並んでいる。

 彼らはいくつもの巨大なライトで空飛ぶ海を照らしながら、どこかから中に入れないだろうかと、そのドアや窓に手をかけ調べている。


「そんな……」


 必死に逃げ回り、走り、やっとの思いで辿り着いたというのに、彼らはその間に悠々と車でここに向かっていたという事実にウーモは絶望する。

 その打ちひしがれたウーモの姿を、一人の男がめざとく見つけた。


「ターニャ!ウーモです」 


 男は彼女を懐中電灯で照らしながら、ターニャに知らせる。

 その男の光を辿ってウーモを見つけると、ターニャは安堵の表情を浮かべ、彼女に近づく。


「よかったわ、ウーモ!こんな夜遅くに果樹園に入って行ったって聞いて、気が気じゃなかったのよ」


 全員に聞こえるほどの大きな声でそう言って、ウーモに近づき抱きしめるターニャ。

 普段なら、必死にそれに抵抗するウーモだが、肩の痛みと疲労、それから彼らに先を越されていたことによる徒労感から、すでにそんな気力はなかった。代わりに、抱きしめられたことで傷んだ肩の傷に耐えられず悲鳴をあげる。

 ギョッとした表情でウーモから離れたターニャは、娘の肩に暗がりでも見える血の跡を見つけ叫ぶ。


「それ、血が出てるじゃない!どうしたの?」


 お前のせいで走り回ったからじゃないかと言い返すのをすんでのところで抑えるウーモ。そんなことで余計な体力を消費したくなかった。

 ターニャの体を怪我のない左手で押し除けて、空飛ぶ海にゆっくりと近づいていく。空飛ぶ海を囲む男たちも、ボロボロの体で鬼気迫る表情を浮かべるウーモに近づきこそすれ、止めることができない。この二年、毎日のように手をかけた先頭車両のドアを見つめるウーモ。そんな彼女の引き摺るような足音だけが響く、静かな時間が流れた。

 だが、それに割り込むように、ターニャが、彼女の後ろ姿に声をかける。


「あなただって、それが良くないことだってわかってるんでしょう?鍵を渡しなさい。悪いようにはしないから」


 空飛ぶ海を奪われることより悪いことなんかないじゃないかと、ウーモは心の中で反論する。だが、口に出しはしない。どれだけ言ったところで、ターニャの中にはすでに彼女の正解があり、そこに何かを言ったところで無意味だとわかっているからだ。


「彼女を捕まえて」


 譲る気のないウーモに痺れを切らし、ターニャは周りの男たちに命令する。


「しかし、ターニャ……」


 及び腰な男たちが躊躇する。


「いいから」


 ジリジリとウーモに近づいていく男たち。その顔には例外なく申し訳なさが浮かんでいる。


「すまないね」


 そう言って、一番ウーモに近い男がウーモの肩に触れた途端、空飛ぶ海から汽笛の音が鳴り響いた。次いでガコンガコンとピストンが起動する音が鳴り、空飛ぶ海の車輪が動き始める。


「危ない!」


 そう誰かが叫び、全員が空飛ぶ海から離れるとほぼ同時に、汽車はそのスピードを一気に上げ、離れていく。一体何が起きているのか誰も理解できず呆気に取られていると、今度は車両がゆっくりとUターンし、彼らめがけて突っ込んでくる。


「散れ!早く!」


 まだトップスピードからは程遠いものの、あんな巨大な鉄の塊にぶつかられてはひとたまりもない。散り散りに走り出す男たち。だが、ただ一人ウーモは、運転席の窓から一本の細い腕が伸びているのに気がつく。


「捕まれ!」


 車内から、その腕の持ち主の声が聞こえる。ウーモにとっては聞き慣れた声だ。このチャンスを逃したら二度はないと、その危険性など一切考えず、必死にその腕に飛びつくウーモ。互いの手と手がしっかりと握られる。肩の痛みを我慢し、その手に捕まっていると、グイッとそのまま窓から車内に引っ張り込まれる。

 飛び込んでから「しまった、また肩をぶつけてしまう」と心配が過ったが、今度の地面は硬い土ではなかった。その代わりに「ぎゃあ!」と間抜けな叫び声を上げる翼の生えた少年が、下敷きとなってそこにいた。


「ロロ!」


「感謝で抱きつきたい所だろうけど、ちょい待ち。俺、飛ばし方わかんないんだ!」


 そう言って、寝転がりながらロロは前方を指差す。そこにはそびえ立つゴーニャ山の斜面が広がっている。


「バ……ありがとう!」


 思わず彼を罵りかけたが、たった今大ピンチを救ってくれたのだと思い出し、言葉を感謝に切り替えるウーモ。


「これ間に合うか」


 急いで立ち上がったロロの問いかけに答えず、ウーモはそのまま運転席に座り、ハンドルを右に切った。すでに飛ぶのに十分なスピードは出ているが、このまま直進すると山を避けられるかがギリギリなため、少しでも距離を稼ごうと思ったのである。そんな一か八かの状況でありながら、ウーモはロロの登場により、先ほどまでとは打って変わって、いつもの落ち着きを取り戻していた。外からは「追いかけろ」だとか「車を出せ」だとかが小さく聞こえるが、不思議なことにそんなことはもうどうでもよくなっている。思えば、彼と会うときはいつも自分が何よりも心が落ち着いているときだったような気がする。それだから、彼に会ったことが、自分の心にこの安心を生んでいるのかもしれないとウーモは思う。


「吹っ飛ばないでよ?」


 もっと早く言えば良いものを、ウーモは飛行レバーを思い切り引っ張って、意地悪な笑顔を浮かべてから、ロロにそう言った。

 急上昇を始める空飛ぶ海。またも情けない声を上げて、後ろに吹っ飛ぶロロ。山の斜面まであと車両三つ分、二つ分、一つ分……。

 ウーモが「よし、避けた!」と声をあげた瞬間、空飛ぶ海が強く振動する。運転席の窓から見える景色に山は無くなっていたが、左の後輪の一部が引っ掛かったようだ。飛びながら右を下にして傾く空飛ぶ海。だが、二年の経験から、慌てず地面が右にあることを確認したウーモは左にハンドルを切り、上昇を保ったまま、レバーの細かい操作で、体勢を整えていく。地上から、安堵と歓声の入り混じった声が聞こえたので、ウーモはそちらに視線をやった。すると、空飛ぶ海を見上げる男たちの中で、一人ターニャが胸を押さえうずくまっているのが見えた。


「……もう大丈夫」


 母親から目を離し、ようやく立ち上がり駆け寄ってきたロロにウーモがそう言う。

 安定を取り戻した空飛ぶ海の中で、二人は顔を見合わせる。すると、大きな緊張から解放されたことで、沸々と笑いが込み上げ、どんどんと堪えられなくなってくる。


「何あれ?すげえ!あんなこと出来んの?」


「やったことないわよ!自分でもびっくり」


 大声で笑い始める二人。ウーモは、自分がこんなにも声を上げて笑ったのはいつぶりだろうかと思う。だが、そう思った矢先にロロが「初めてそんな笑ってるの見たかも」と言うので、恥ずかしくなる。

 ロロから顔を逸らし、笑みを抑ようと努めるウーモ。すると不思議なもので、先ほどまでの高揚感も引っ張られるように落ち着きを見せ、今度はいろいろな疑問が浮かび始めてくる。


「ロロ……なんで、ロロがレイシャにいたの?それに、どうやってここに入ったのよ?私ちゃんと鍵閉めたわ!」


 一つ目の疑問を口にしていると、別の疑問も思い浮かんだので、ウーモはそれもそのまま口にする。口元の綻びはもう消えていた。

 すると、それを聞いたロロの笑顔も同じように消える。

 ウーモは彼に出会ってからの二年で、初めて彼のそんな表情を見た。その真顔の裏には必死に押さえ込まれた強い緊張と恐怖が見え隠れしている。


「そうだよな。鍵閉まってて、びっくりしたよ」


「じゃあ、どうやって?」


「今日のために色々準備してたんだ」


 そう言って、ロロはポケットから小さな鍵を取り出す。それは、ウーモが持っている空飛ぶ海の鍵とそっくりな形をしたものだった。


「悪いとは思ってる。それでも俺は、お前を止めないといけないんだ。もう空飛ぶ海で飛ばないでくれ、ウーモ。青い石を渡してくれ」


 ずっと言おうと準備していた言葉を吐き出すように、感情も少なく、それらのことを捲し立てるロロ。

 あまりに急なことに、これは悪い夢なのではないかとウーモは思う。彼と言葉を交わした回数はそれほど多くはない。けれども、父が死んでから常に抱えていた孤独を彼といる時は忘れられるような気がしていた。言葉にこそしたことはなかったが、レイシャを飛び出してから今までの間で、いや、人生の中で唯一友人と呼べる相手だと思っていた。そんな彼が、今目の前で、あのターニャと同じことを自分に言っている。ウーモは自分の体が強く震えているのを感じた。

 それに気づいたロロがウーモに声をかける。


「大丈夫か。肩の傷も。カバンに塗り薬があるはずだ、待ってろ」


 その言葉を聞き、ウーモは一つの推測に思い当たる。


「ターニャに薬を渡しているアサはあなたね?」


 自分のカバンに手を突っ込み薬を探していたロロの動きが止まり、表情がさらに強張る。それはつまりは肯定ということだろうとウーモは捉えた。


「そう……。私に近づいたのは、彼女に言われたから?」


「それは違う!」


 ロロが強く否定する。


「どうだか。そうじゃなきゃ、あなたが石を奪う理由なんかないじゃない」


「順番が逆だ。お前を助けるために、彼女にも近づいた。そしたら、心臓が悪いって言うから……」


 ロロの言い訳を聞いて、鼻を鳴らすウーモ。本当のところ、ウーモはそれが真実かどうかはどうでも良かったが、何か言ってやらなければ気が済まなかったのだ。こんな裏切りにあうだなんて、酷すぎると思った。見ると、ロロはウーモの彼を軽蔑するような目を見て怯んでおり、少し気分が良くなる。


「あんたも、ターニャもみんな、私のためだ私のためだって……!そうやって、自分の正義を押し付けて……。私の一番大切なものを奪わないでよ!」


 言いすぎているかもしれないと思いながらも、この思いをぶつけるべき相手は彼じゃないかもしれないと思いながらも、ウーモは言葉が止まらない。


「別にあなたたちに迷惑をかけたことなんてないじゃない!自分が人を救った気持ちになるために、他人を犠牲にしないでよ!」


「自分なら犠牲にしていいのかよ」


「……え?」


 先ほどまでウーモの怒りに押されるがままだったロロがポツリとつぶやく。そして、ウーモは言い返す言葉が止まる。彼がこの後に言うことがわかったからだ。

 ロロは大きく息を吸って、震える声を抑えながら話し始めた。


「わかってるんだろ?ウーモ。人間はそんなに早く成長しない。髪の毛だって、たった二月でどれだけ伸びた?」


 そう言われ、肩まで伸びた自分の髪に触れるウーモ。もう耳はすっかり隠れている。

 ロロの言葉は止まらない。


「もう知ってるんだろ。この海みたいに青い煙を生み出している、この空飛ぶ海を動かしている青い石が、お前から時間を奪ってることを!」


 そう言って、ロロがカバンから取り出したのは、ウーモがあの塔の上から盗んだ研究者ラティの冊子であった。紙を埋め尽くすように書かれた数式と、それを打ち消す線。そして、最後には彼の文字で小さくこう書かれている。


『この石は科学ではない。魔法だ。我々人間が使うべきものではなかったのだ』


 それをウーモの目の前に突きつけ、ロロは言う。


「この空を駆け回る汽車に救われてる人間だって、そりゃいるだろうさ。これがなければ苦労する人たちだって山のようにいるだろう。だけど、だからってお前がその犠牲になって良いわけないだろ!こんなこと続けてたら、あっという間に死んじまうぞ!」


「じゃあ、どうすればよかったのよ!この汽車を守りながら、なんの力も無い子供が、どうやってこの世界を生きていけばよかったって言うの?」


 エスカレートするロロの調子に引っ張られ、ウーモの声も大きくなっていく。


「考えないようにしてたわ。あの石におかしな力があることを。そのメモを見るまでは、気のせいだって思いたかった。見てからも、その人が間違えてるんだって思いたかった。でも、もういいの。この汽車を運転すれば、たくさんの人を助けられる。誰がレイシャにいたときの私に感謝してくれた?愛想が悪くて、偉ぶって、いつも一人だったあの私に。あんな生活に戻るなら、私はこのまま自分の時を犠牲にしてでも、みんなに愛されたい!」


「こいつがいなくたって、お前は愛されるよ。あの日、俺を助けてくれたじゃないか。お前の親父だって  」


「あなたにお父さんの何がわかるのよ!」


 ウーモそう叫ぶと同時に、空飛ぶ海が激しい振動を起こし、二人はその場に倒れ込む。


「おい、何が起こった?」


「わからない……」


 緊急事態に、言い合いは自然と一時休戦となった。激しく揺れ続ける車内を器用に飛んで、ロロは窓から外を見下す。すると、揺れの原因はすぐにわかった。先ほど離陸の際にぶつけた左の車輪がとれ、そこから青い煙が漏れ出している。


「後ろがぶっ壊れてる!すぐに降りられるか」


「やってみないと……わかんない……!」


 壁面の出っ張りにしがみついて必死に立ち上がるウーモ。


「こっちだ」


 ロロがウーモの手を引っ張り、運転席へと連れて行く。

 ロロには見当もつかないレバーやボタンを次から次に操作するも、ウーモの表情からは焦りが消えない。


「だめ……操作が効かない」


 すると、今度は壊れたタイヤの近くからボンッという爆発音が聞こえ、少しずつ、空飛ぶ海が高度を下げているのが窓から見える。


「なんとか、着地できそうか」


「無理よ!全く動かないんだもの!」


「くそっ!」


 揺れがどんどんと激しくなり、ロロも車内を飛び回ることができない。床を這いつくばり、空飛ぶ海のドアに手をのばし、力一杯に開けるロロ。


「ウーモ、こっちだ!飛ぶぞ!」


「空飛ぶ海はどうするのよ!」


「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!このままだと一緒に落ちておしまいだ!」


 そう言われるも、諦めきれず、もう一度レバーを動かすウーモ。しかし、空飛ぶ海はぴくりとも反応しない。


「ウーモ!」


 ロロの声に反応したウーモがドアの方を向くと、棚の上に置いていた写真立てが壊れ、中に挟まっていたフーゴの写真がドアからの強風で車内を飛び回っていた。ウーモは、その写真の中で微笑むフーゴと目が合った気がした。

 激しく揺れる車内で、椅子を降り、地面に這いつくばりながらロロの元へと向かい始めるウーモ。

 必死に手を伸ばすロロ。

 そのロロの手をウーモが捕まえる。


「行くぞ!」


 そう言って、ロロはウーモを引っ張り出す。

 ウーモはその勢いのままロロの胴に抱きつき、一緒に空へと飛び出した。ロロが翼を広げるのが見えたのと同時に、空飛ぶ海の動力が完全に止まったのが聞こえた。視界はロロの体に覆われていたが、自分たちが空に飛び出したほんのすぐ後で空飛ぶ海が地面に衝突したのが聞こえた。もう少し外に出る決意が遅れていたら、二人の体は木っ端微塵になっていただろう

 爆弾が爆発したかのような轟音が響き、周囲の木々がその衝撃から大きく揺れる。

 ウーモは無惨な姿になった空飛ぶ海を想像し、ロロにしがみついている腕の力が抜けそうになる。


「しっかり掴まれ!」


 それに気づき注意するロロだが、その顔には一切の余裕が見られない。それどころか、次第に苦しさが浮かんできている。


「な、なんか落ちてきてない?」


 下からの風が強くなっているのを感じるウーモ。


「でっかくなりすぎなんだよ!俺の翼じゃ、二人は…」


 ロロがそこまで言うと、グンッと二人は重力に引き寄せられる。

 何かを叫ぶロロだが、何を言っているかがウーモには聞き取れなかった。それは風の影響ではなく、余裕をなくした彼がアサの言葉で話したからだったのだが、見上げたその表情から、ウーモは彼の伝えたかったことを察し、もう一度その胴に力強くしがみつく。

 ウーモを両手でしっかりと抱え込みながら、ロロは地面に対して体をなるべく水平に傾ける。浮上するのは無理だと諦めたロロは、少しでもゆっくりと地面に落ちるために、旋回しながら滑空することを選んだ。空飛ぶ海のエンジンを動かしたときから、ロロには実は目的地があった。だからこそ、一度Uターンをして、ウーモを捕まえたのだ。

 地上を見ると、近いとまでは言えないが見えるところに、ランタンで照らされた一軒の家が見える。そして、その近くには葉の生い茂った木々の並ぶ一帯が月明かりに照らされている。その葉の多さに、今が満開の月でよかったとロロは心から思う。


「このまま林の中に突っ込む。いいな?」


 今度はウーモにもロロの言葉がはっきりと理解できた。ウーモの体勢からは林も何も見えなかったが、彼がそう言うのであれば他に方法はないのだろうと覚悟を決め「うん」と答える。

 毎日空を飛んでいるからだろうか、それが気温なのか音なのか匂いなのかはわからないが、ウーモは今自分が地上からどれほど離れた場所にいるのかが感覚でわかった。そして、この速さで飛べば、あとどのぐらいで地面に辿り着くのかも。


「目瞑って、息止めろ!」


 そのロロの言葉を合図に、彼は体をクルッと反転させ、自身の背中から林の木々につっこんでいく。

 バキバキと枝が折れ、葉が散る音が響く。

 ウーモは自分の肌の至る所に切り傷ができるのを感じた。だが、すでに肩に大怪我を負っている彼女にとって、それはもはや無いに等しい痛みだった。それよりも、ウーモはロロが心配になる。顔を上げて彼の様子を確かめようかと思った瞬間、ドンっという衝撃と共に、ウーモは自分が地面についたのがわかった。再び肩に激しい痛みが走るとともに、ロロの腕が自分から解かれ、体が彼から離れる。


「ロ……ロロ!」


 必死にロロの名前を呼ぶウーモ。全身の力を振り絞ってゆっくりと顔をあげると、思っていたよりもすぐ近くに彼の顔があった。


「今日は俺が助ける日だったな」


 無理をしながらも口角を上げ無事を伝える彼の姿に安心する。ウーモはゆっくりと目を閉じた。


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