9.はじまり
ウーモは不安でいっぱいだった。勢いよく空に飛び出したは良いものの、これからどう生きていけば良いのか、さっぱり見当がつかなかった。あの小さな青い石を火室に焚べてから、体がズンと重くなり、少し寝込んでしまった。外は薄暗くなり始めている。普段から何かあるたびに空飛ぶ海で過ごしていたので、今日明日の飢えを凌ぐだけの食料はあるが、それだけだ。買い物をしようにも、急なことで持ち合わせもほとんどない。一瞬、やはり家に帰ろうかという考えが脳裏をよぎったが、ぐるっと空飛ぶ海の内部を見まわし、その考えを却下する。
コンパスと時計、それから地図を見て、ウーモは自分が今どこを飛んでいるかに当たりをつけた。今から急げば真っ暗になる前には近くの村に辿り着けるだろう。そこには小さい頃フーゴと何度か尋ねたことがある。自分のことを覚えている人がいれば、事情を聞いて、助けてくれるかもしれないと淡い期待を寄せる。進行方向を合わせ、ウーモはハンドルを握る。すると、誰もいないはずの上空から、少年の叫び声が聞こえた。変声期を迎えている最中の掠れた叫び声である。ウーモは一瞬、自分が不安で幻聴を聞いたのか、それとも幽霊か何かこの世のものでもない声が聞こえてしまったのかと思った。しかし、そのどちらでもない正体はすぐに目の前に現れ、そして、ゆっくりと通り過ぎていった。
それは背中から翼の生えた少年だった。
見慣れない服を身に纏った少年は叫び声を上げる。ウーモの耳にはその言葉が「助けて」に聞こえた。彼は片方の翼だけを広げ、フラフラと回転しながら地面に向かってゆっくりと落ちている途中だった。
状況は全く理解できないウーモだったが、彼を助けなければという思いから、体が動く。運転席横の窓を開け、彼に「こっち!」と叫びながら、空飛ぶ海でできるだけ急いで近づく。なれない運転で、彼にぶつからないように近づくのは簡単ではないが、今にもその少年は力つき、真っ逆様に落ちていきそうだった。
近づいてくる空飛ぶ海を見て、これまで広げていなかった方の翼も必死に広げようとする少年。その根本は真っ赤に血に染まっており、苦痛に歪む表情から、動かすだけでも相当な痛みが広がっているのが伝わる。だが、千載一遇のこの出会いを逃すまいと、必死に重力に抗う。
空中で並ぶ二人。ウーモは運転席を離れ扉に駆け出し、それを力一杯に手で開ける。目の前には少年の姿があった。左手でしっかりとドアの横にある手すりを持ちながら、身を乗り出し、少年に右手を伸ばす。その右手はウーモが思っていたよりも少し、少年の近くまで届いた。
「大丈夫?あなた怪我しているわ!」
少年を車内に引っ張り込むと同時にウーモは大声で話しかける。まだ扉すら開けっぱなしだが、たった今自分がしたことに興奮さめやらなかった。しかも、目の前の少年には間違いなく背中から翼が生えている。そういった人々がいることは知っていたが、実際に目の当たりにするのは初めてのことだった。それが余計ウーモを冷静でなくさせた。
だが、少年が返事をする代わりにゼエゼエと息を吐き出しているのを見て、ウーモは自分が話しかけている場合ではないということに気がつく。そもそも彼に自分の言葉が伝わるのだろうかという疑問も浮かんだ。そこで、急いでベッドのシーツをハサミで切り取り、保存してある飲み水で濯いだ後、血が出ている少年の翼の付け根にあてることにした。
「グッ……。ありがとう」
水が染みたのか、苦しそうな呻き声あげた少年だったが、すぐに礼を言う。
「どういたしまして。あなた言葉が喋れるのね?あ、ごめんなさい質問をして。じっとしていて。今からあなたを近くの町に連れていくわ。大丈夫!優しい人たちがいるの。きっと助けてくれるわ」
ウーモが町へ連れて行くと言った途端に少年が激しく首を振ったので、ウーモは慌てて落ち着かせようとする。たとえ反対されようと、彼を町に連れて行く他に選択はなかった。そもそも彼を助けるどころか、自分がどう生きて行くかすらわからずに困り果てていたところだったのだ。それを伝えるために口を開こうとすると、少年が肩にかけている自分の紐を握りしめ「これを」とウーモに言う。どうやらそれは肩掛けカバンの紐のようで、本体は少年の体に下敷きになっている。
それの中身に用事があるのだろうとウーモは考え、彼の体をなるべく揺らさないように、下敷きになっているカバンを引っ張り出す。カバンの中にはたくさんの草や種、そして薬のようなものが詰められていた。
「使って……」
そう少年に言われるも、何をどう使うかがさっぱりわからず、とりあえず中身をひっくり返し、外に出すウーモ。「これ?それともこれ?」と一つ一つ少年に確認しながら、いくつかの草を取り分けた。そして指示通り茶色い粘着性の何かにそれらを混ぜ、傷口に塗布していく。
その薬の効果は絶大なようで、先ほどまでずっと眉間に皺を寄せ、痛みに耐えている様子だった少年の表情がみるみると和らいでいく。その上から再度シーツの切れ端を巻き直したが、今度は大した痛みはなかったようだ。
「ありがとう」
少年がまた言う。
「いいのよ。でも、町には行かせてもらうわ。あなたはここから降りなくてもいいけど。私、なんとか生きていく方法を見つけなくちゃいけないの。色々とあって……仕事とかもきっと探さないとだわ」
「これは仕事じゃないのか」
「これ?」
「これ」
そう言って、少年は運転席を指差す。
「そりゃあ、お父さんはやってたけど……私には無理よ。運転も下手だし、人と話すのも苦手だし」
「上手だった。それに今話している」
そう言われ、確かにそうだとウーモは思う。興奮状態にあったからだろうか、それとも彼のたどたどしいが直接的な喋り方がそうさせるのだろうか。ウーモが初対面の人とこれほど真正面から気楽に話せたのは初めてな気がする。
「そうだけど……例えば、どの町に行ったらいいのかとか、どこに駅があるかとか、わからないことだらけだわ」
「違う。一番大切なことは、人を助けることだ。今したことだ。俺を助けた。君はたくさんの人を助けられる。それ、カバンの中のやつ。君にあげる」
ウーモが少年に言われるがまま、先ほどカバンの中から落とされずに、内側に引っかかったままになっていた石を取り出した。それは小指の爪ほどの丸くて光り輝く石で、硬いひもによって二十四個が直線上に繋げられていた。ウーモにはそれが何かはわからなかったが、非常に高価で大切なものだということだけはすぐにわかった。慌てて、寝ている彼に向けてそれを差し出す。
「もらえないわ!わからないけど、高価なんじゃないの?これ」
ウーモはそう言うが、少年は意に介さず、その石を掴んだウーモの手を押し返す。
「仕事のお金だ。俺は最初の客だ。」
その少年の真剣な表情は疲労により迫力を増し、ウーモに有無を言わさぬ力を持っていた。
その後、ウーモはその石がやはりとてつもなく高価なものであったことを知ったが、それ以降彼が運賃も差し入れもしてくれたことがないことから、おそらくあれが一生分の切符代わりだったのだろうと今では思っている。
ウーモが目を開けると、その彼がベッド横の椅子に座りながら寝ているのが目に入った。あの時とは逆で、今ケガをしているのはロロではなくウーモである。
故障した空飛ぶ海から脱出し、なんとか着陸した後、ロロが近くで狼煙をあげると、しばらくして一台の車が二人を迎えにきた。中から出てきた小柄な老人はロロと近しい様子で会話をしていたが、ウーモにはその内容がうまく聞き取れず、いまだにこの家の主であろうその人物が誰なのかがわかっていない。だが、不思議とどこかで見たことがあるような気はしていた。
ロロと会話していたその老人の雰囲気からウーモは悪い人ではなさそうだと思いつつも、そもそもロロにすら裏切られた事実から、自分の人を見る目に自信がなくなっていた。墜落の事故で話が途絶えてしまったが、ロロがウーモに嘘をつき、青い石を奪おうとしていた事実は変わらない。そう思うと、ウーモは早くこの場を離れたかったのだが、悪化した怪我のせいか発熱が起こり、あれから日が三度昇った今、ようやくベッドの上で体を起こせるようになったところだった。加えて、実のところ空飛ぶ海を失った彼女にはこの場を離れる方法がないのだが、常に当たり前にあったものを失った彼女は、いまだにそのことに気がつけていない。
先ほど夢と現実の狭間のようなぼんやりとした頭で、ロロと出会った時を思い出していたからか、ウーモは自分だけでなくロロの体も随分と成長していることに気がついた。アサの大人たちは背が高いのだろうか、それとも今のロロぐらいの大きさで成長が止まったりするのだろうか、そんなことを考える。
すると、部屋のドアが静かに開き、二人を車で迎えに来てくれた老人が部屋の中の様子を覗きこむのが見えた。そのドアの開け方から、寝ている二人を起こさないようにしたいという老人の思いが感じ取れた。
老人はウーモが起きているのに気がつくと、にこりと微笑む。そして、なるべく足音を立てないようにしながら、ベッドの方へと近づき、彼女に小声で話しかける。
「やあ、体の調子はどうだい?もし立てそうなら、朝ご飯でもどうかな?少し早いけれど」
老人の優しい声の魅力的なお誘いで、ウーモは自分がひどく空腹であることに気がついた。こくりと頷いて、同じく音を立てないように静かに立ち上がる。自分の肩を触ってみると、まだ少し違和感はあるものの、痛みは無くなっていることがわかった。アサの薬のおかげだろうか、そう思いロロを見ると、彼は大きく口を開けて、間抜けな顔で寝ていた。
寝室を出ると、そこには先ほどウーモが寝ていた部屋と同じぐらいの部屋があった。見渡すと、キッチンや玄関も見える範囲に収まっているのがわかる。ふと部屋の隅に、幾つもの布が敷き詰められた空間を見つける。一体何だろうかと思ったのも束の間、自分がベッドを占領してしまっていたせいで、その老人を床で寝かせてしまっていたのだと気がつく。そのウーモの表情がよほど申し訳なさそうに見えたのか、老人は食卓にコップを置きながら「大丈夫だよ」と言う。
「ここの裏で機械を修理する小さな工房を営んでいてね。しょっちゅうそこで作業しながら寝てしまったりするんだ。だから、私のことは気にしなくても大丈夫だよ。それよりも散らかった部屋で申し訳ない。男やもめでね」
「いえ、そんなことないです。その、本当に申し訳ありません、急にその、なんていうか……」
「お客さんはいつでも大歓迎さ。これ、ミサルテを煎じたお茶だ。少し苦いけれど、炎症を抑えてくれる。よかったら飲んでおくれ」
そう言われウーモがコップの中身を覗き込むと、そこには濃い緑色の液体がなみなみと注ぎ込まれていた。その見た目から伝わる苦味に喉奥がキュッと縮まる。
「ありがとうございます。えっと」
「ブッフォだ。初めまして」
「初めまして。あの、遅くなりました、私はウーモと申します」
「ロロから聞いているよ。よろしく」
ブッフォという名前を聞き、余計に自分はどこかで彼のことを知っているはずだと思う。もしかすると、ロロから聞いたことがあったのだろうかとウーモが記憶を辿っていると、そのヒントが目の前のブッフォ本人から出てくる。
「それにしても、君の鼻はフーゴにそっくりだね。いや、ひょろっとした感じも同じかな」
この人はフーゴを知っている。そのことがウーモにカルダからの話を思い起こさせた。ブッフォ 研究者ラティ、冒険者フーゴと共に、空飛ぶ海を作った人物。以前に見た写真の中ではより逞しい体つきをしていたので、今目の前にいる人物と全く結び付かなかったのが、すぐに思い出せなかった理由だろうと考える。今のブッフォは年齢の割には筋肉質な腕をしているが、全体的に小柄で穏やかな雰囲気を漂わせる老人である。
「父と……父と空飛ぶ海を作ったと聞きました」
おそらくブッフォは父親のことを知っていることでウーモを驚かせようとしたのだろう。その証拠に、ウーモの返事を聞いて、いたずらっ子のようにフーゴの名前を発していた表情が一瞬にして驚きへと変化した。
「彼から聞いたのかい?」
「父ですか。いえ、最近カルダさんという方からお聞きしました」
「セルロの、セルロの塔の家に住むカルダかい?」
「はい」
「元気にされているかい?」
「はい、娘さんと住んでいらっしゃいました」
それを聞いて、少し安堵したような表情を浮かべるブッフォ。
「ラティが亡くなったと聞いてね、一度ぐらい墓参りに行こうと思っていたんだが、つい行きそびれてしまっている。フーゴもそうだ。私は薄情者だな」
「そんなことありません!そうなら、私にこんなにしてくれるはずがないです!」
目の前の老人の寂しそうな声に、つい大きな声をあげてしまうウーモ。ブッフォはそれに感謝の意を込めて優しい笑みで応える。そして、首を右に振り、ロロの眠るドアに視線をやりつつ、少し声を抑えるようにと身振りで伝える。それを受けて、ウーモは口をキュっと閉じ、自分もドアの方を見る。何の音も聞こえないことから、ロロは起きていないようだ。
ゆっくりと、ブッフォは顔の向きを戻し、ウーモの横顔に真剣な声色で話しかける。
「あの子は妹に似て昔から優しい子でね。この数日、寝ないでずっと君の看病をしていたよ。君を怒らせてしまったとずっと後悔していた。確かに彼のやり方は賢い方法ではなかったかもしれないが、誰しも生きていれば馬鹿なことをする。許してやってくれないか」
「許したいです。私も。でも、それは彼と直接話してからにします。そうしないと、納得できないことが多くて」
ドアを見つめたままウーモがいう。
ロロのしたことはひどいことだと思っている。けれど、目覚めたときにはすでに彼への怒りがすっかり消え去っていたことに気がついていた。だが、だからと言って全てを無かったことにしてはいけないということもわかっている。彼もターニャも、ウーモのためだと言って、あの青い石を奪おうとした。その点では同じだ。だというのに、どうして自分が今ロロに対してのみ、こんなにも許すことに前向きでいるのかはわからなかった。彼と話せば、その答えが見えるのかもしれない。しかし、今はその時ではない。彼にはきっと休息が必要だと思い、ブッフォにきちんと向き直す。
「その、妹さんって?」
ブッフォがロロと似ていると言った彼の妹について聞く。
「私の妹は彼の祖母なんだ。彼からすれば私は大叔父にあたる」
「でも、ブッフォさんはアサじゃないですよね?だって……」
若い頃の写真でも、今見ても、彼には翼が見当たらない。だが、だからと言ってアサでないと言い切れるほどに自分が彼らについて知らないと思い、言いかけたその言葉を途中で止める。だが、それだけでもウーモの言わんとしたことはしっかりと伝わったようで、ブッフォは声を出さずに笑った。その顔に少し自虐的な色が浮かんだように見え、ウーモは言わなければよかったと後悔する。
「全く無いわけではないんだ」
ブッフォが言う。もちろん、それは翼のことである。
「だが、生まれつき非常に小さくてね。私の両親は非常に気を揉んだそうだよ。大人になれば他の子たちと同じになるはずだと信じてくれていたようだが、結局私はアサでありながら一度も自分の翼で空を飛んだことがないんだ。生まれつき目が見えなかったり耳が聴こえないという人もいるだろう?それと同じようなことなんだろうが、少なくとも私の知る限り飛べないアサというのは私だけだった」
「それは……」
ブッフォの言葉はただただ寂しい響きを持っていた。アサでありながら、空を飛ぶことができない。ウーモは自分が子供の頃に感じた疎外感を思い出す。彼女の場合、それは身体的なものではなかったので、ある種開き直りのような部分もあった。しかし、自分では何もしていないのに、そんな思いをしなければいけないのは一体どれほどに辛いことなのだろうか。彼を慰めるべきか、励ますべきか、そのどちらにせよウーモはちょうど良い言葉が見つけられず、その気まずさを埋めるためにお茶を飲んだ。見た目に似合わず、お茶は少し甘かった。
「今はもうなんともないが、やはり若い頃は辛くてね。なんとか、どうにか一秒でも良いから空を飛べないかと願い続けた。そんな中で、たまたまラティのことを知ったんだ。翼もないのに空を飛ぼうとしている馬鹿な研究者がいるとね」
そう言って、当時のことを思い出すように、目を閉じるブッフォ。
「実際会ってみると、初めのうちはひどいものだった。そもそもあいつは頭が良いが、手先の不器用なことったらなくてね。線をまっすぐ引くことすらままならないやつだった。あいつのせいで、私はアサだというのに、機械修理なんてことを生業にするようになってしまった。ますます爪弾きものだよ」
「でも、楽しそうです」
先ほどよりも一層自虐的な言葉を使っているというのに、ブッフォの口元には笑みが溢れていた。ウーモに言われ、彼自身もそのことに気づき、より一層その笑みを大きくする。
「ああ、楽しかった。毎日失敗ばかりだったけれどね。……そんなある日、君のお父さんがやってきた。小憎らしいぐらいに賢くて、勇敢で、自信に溢れた男だった。どうやって私たちを知ったのかは知らないが、気づけば毎日のようにやってきて、私たちの研究に口を出してきた」
「口を?」
「ああ、ひどいもんだったよ。やれやり方が悪い、字が下手くそだとね」
「父がそんなことを?」
「その顔を見るに、君にはどれも言ったことが無いようだね」
ウーモにとってそれらは「無いようだ」なんでものではなく、あり得ないものだった。フーゴはいつもおっとりとした口調で、どんな人にも満遍なく優しく励ましの言葉をかけていた。
「そんな中でね」
ブッフォが話を元へ戻す。
「彼が、フーゴが海の向こうで聞いたという『時間を旅する研究』について語ったことがあった」
「時間を旅する……?」
「はっきりと覚えてはいないがね。巨大なエネルギーを使うことで、時間を短縮し未来へ行くことができるというような夢物語だったと思う。一見私たちの研究にはなんら関係ないような気がしたが、その時ラティが呟いたんだ『であれば、時間を消費することで、巨大なエネルギーを生み出せるかもしれない』とね。あまりにもバカバカしい話をキラキラした目でいうものだから、今でもはっきりその瞬間を覚えてしまっている。それに、やつはそのバカバカしい話を現実にしてしまったんだ」
「それが、あの青い石……」
「そうだ。だが今度は、生まれたエネルギーが人一人で押さえ込むには強くなりすぎてしまってね、鉄の塊で覆わなければならなくなった。そして出来たのが、空飛ぶ海だ。形はなんでもよかったから、私は翼を生やしたかったんだけれどね、フーゴがどうしても汽車がいいと譲らなかったんだ。一週間は言い合いを続けたんじゃないかな」
今度は言い合いである。ウーモにはあの穏やかなフーゴが言い合いをしている姿が一切想像できなかった。だが、空飛ぶ海があの父をそこまで感情的にさせたものなのだとすれば、失うわけにはいかないと改めて感じる。目の前にいるブッフォがそのことについてどう思っているのかはわからない。ロロと同じように、彼も青い石を使うことを反対するだろうか。それとも、生みの親として、その空飛ぶ姿を見たいと思ってくれるだろうか。どちらにせよ、自分ははっきりと自分の意思を表現しないといけないような気がした。コップを置き、言葉を吐き出す。
「ブッフォさん、やっぱり私、空飛ぶ海が必要なんです」
「ウーモ……」
先ほどまで笑顔で昔話をしていたブッフォのその悲しげな表情に、ウーモは彼の意見を察する。
「ブッフォさんが言いたいことはわかります。でも、あれは父が残した唯一の物なんです」
「私だって、あれが失われてしまうのは嫌だよ。でもね、ウーモ、彼が残したのは決してあれだけじゃないだろう?」
そう言って、ブッフォがウーモの顔をじっと見つめる。
「あれだけなんです!もちろん、服とかちょっとしたものは家に……」
そう反論する途中、ウーモは自分を見つめるブッフォの視線の意味するところに思い当たり、呼吸ごと言葉が止まった。
ウーモは、自分の心のどこかから目に涙が込み上げてくるのを感じた。この涙が止まらなくなってしまうのがわかっているから、その言葉を発さないでくれと頼みたかった。だが、すでにこぼれ落ちそうな涙を大きな両の目からこぼすまいと必死で、そんなことすら出来そうにはない。たった一音でも、一呼吸でも漏らしてしまえば、自分の全ての感情が涙となって溢れ出てしまいそうだった。
そんな彼女にブッフォが優しく微笑む。そして、そんな我慢をする必要がないのだと伝えるかのように、はっきりとその続きを言葉にする。
「もっと大事なものがあるだろう?君だよ、ウーモ」
やめてくれと願ったのにもかかわらず、容赦無く出てきたその言葉はウーモのちっぽけな努力なんてものともせず、涙の堰をたやすく切る。
ずっと心のどこかではわかっていたのだ。ブッフォに言われるよりもずっと前から、これは彼の意志ではないのかもしれないということを。フーゴのためにと言っている自分の言葉のおかしさを、誰よりも自分のことしか考えていないのは自分なのだということを、これ以上気づかせないで欲しかった。今すぐに、誰でもいいから、自分が空飛ぶ海とともに旅立ったことを肯定してほしかった。これは自分のわがままではないのだと。自分がこの二年間してきたことは何よりも父のためなのだと。それを言い訳にただ母親から逃げたかったわけじゃないのだと。
それでもウーモは叫ばずにはいられなかった。
「じゃあ……じゃあ私は間違っていたんですか。空飛ぶ海を売ったり、壊したり、それが一番良かったんですか!」
ブッフォは彼女の体を引き裂くようなその思いを受け止め、一拍置いて、静かな音ひとつひとつに優しさを込めて、ゆっくりと伝える。
「ウーモ、正しいか間違っているかを私が判断することはできない。けれど、正しいことが常に良いこととは限らない。君のしたことは無茶だった。それは間違いない。君が自分の時を犠牲にすることを私は全力で反対する。君のお父さんだってそうなんじゃないかい?」
ここまで言ってブッフォがゆっくりと息を吸った。そして、言いにくく、何よりも伝えたいことを続ける。
「でもね、私の知っている彼は、自分の娘が空飛ぶ汽車に乗って、国中を一人で飛び回ったことを誰よりも誇りに思ってくれる男でもあったよ」
それを聞き、ウーモの感情は全く制御することができなくなってしまった。自分の涙が何によって流れているのかもわからなくなってきた。ただ、父が自分のことを誇りに思ってくれるというブッフォの言葉が、暖かく胸に届いたことだけがわかった。そうなのだろうか。そうであってほしい。自分の両手を握り、胸の前にあて、背中を丸める。
止まらない涙を拭くのは諦めた。




