地に足をつける
ブッフォのくれたミサルテの茶が効いたのか、それとも泣くことで全ての体力を使い切ったのか、食事を取るよりも前にウーモはまたも強い睡魔に襲われ、座っていられなくなった。そんな彼女を見て、ブッフォは肩を貸し、ベッドへと連れていった。あれだけウーモが叫んだにもかかわらず、ロロはまだぐっすりと眠っていた。
そんな彼の寝息を何度か聞いたのを最後にウーモの意識はぷつりと途絶え、次に目を覚ました時には日が一番高くに昇る頃だった。自分しかいなくなっていた部屋を出ると、テーブルに「これを食べて」という書き残しとともに、サンドイッチが置かれていた。この辺りではあまり見かけない茶色い硬めのパンに、豆のペーストがふんだんに塗りたくられていた。一口食べて、おそらくアサの食材だろうとわかる。何度かロロの食べ物をもらったことがあったが、彼らは食べ物をかなり甘く味付ける。食事を甘くする文化のないウーモにとっては馴染みのない味だが、これは 以前ロロにもらったものは甘すぎて喉が痛くなった かなり気に入った。
空腹だったこともあり、ペロリと皿の上のサンドイッチを平らげ、そのまま自分が今使った皿と、ブッフォがそのままにしてある食器を洗う。しかし、それだけではすぐにやることが無くなってしまった。やることがなくなってしまうと、今度は色々と考えてしまう。
空飛ぶ海がなければ、自分はただの十五歳の子供だ。初等教育後すぐに働き始めた人たちのような経験もなければ、中等教育をきちんと修めてもいない。これからどうやって生きれば良いのだろうか。ここから一番近い街はセルロのはずだ。大きな街に行けば、こんな自分でもできる仕事が何か見つかるだろうか。街は好きじゃない。それでもターニャの元へ戻るのは嫌だった。自分の選択は確かに褒められたものでは無かったかもしれないが、だからと言って母が正しいというわけでは決して無いという確信があった。空飛ぶ海を諦めレイシャに戻ってしまえば、それは彼女の正しさを証明してしまうことになりかねない。彼女の行動に全く愛がないとは言わないが、彼女の世間体という仮面に覆われた傲慢な正義に加担するのだけは、今も耐えられなかった。
椅子に腰掛け、考えを巡らせるも、いいアイデアはとんと浮かばない。まずはブッフォに家のことを手伝うので、床でも良いから数日泊めさせてもらえないか頼もうと立ち上がり、外へ出る。彼が裏手に工房があると言っていたのを思い出したのだ。おそらくそこで働いているのだろうと、探すことにする。
玄関のドアを開ける。すると、少し遠くの方で、一台の車が一人の男を置いて去っていくのが見えた。なぜ、目の前ではなく、あんな場所で停まったのだろうかと不思議に思うも、ウーモの興味はすぐに大きな肩掛けを下げているその男の存在へと移った。
目を凝らすと、遠ざかっていく車の後部に郵便局のマークがあるのが見えた。それによって、そのキビキビとした足取りで近づいてくる男のことを思い出す。彼はセルロでカルダたちの家を発つときに難癖をつけてきたあの郵便局員である。なぜこんなところに?もしや、墜落した空飛ぶ海のことを知り、また何か文句をつけにきたのだろうか、そんな心配を思い浮かべる。
すると、ウーモが今出てきた部屋の中からではなく、左手の方からブッフォの声が聞こえる。その声の大きさから、それが郵便局員に向けた物だということがわかる。
「エリオスさんかい?」
実際には、あの日あの時に彼はその名前を名乗っていたのだが、ウーモは彼がそんな名前だったことをすっかり忘れていた。あの嫌な感じの男がブッフォの知り合いなのだろうか。だが、それにしては他人行儀な呼び方だなと感じる。男の方も、その関係性の遠さを表すように、足をきちんと揃えてその場に止まり「はい!」と返事をした。
その男の視線の先、ブッフォの声が聞こえた方を見ると、全身を油や煤で真っ黒に汚した彼の姿が現れた。ブッフォもそんなウーモの姿を見つけ、微笑む。
「おはよう。サンドイッチを置いておいたんだが」
「いただきました。美味しかったです。……ありがとうございました!」
一拍遅れたウーモの感謝にブッフォは「それはよかった」と答える。そして、布で顔を拭きながら、先ほど彼がエリオスと呼んだ郵便局員を指差す。
「彼はエリオスだ。セルロで郵便局員をやっていてね。彼の車の修理が終わったんで、取りに来てもらったんだ」
そう言われ、ウーモは再度エリオスの方に顔を向ける。ブッフォのお客であれば、あまり失礼な態度は取らない方がいいだろう。そもそも、彼が自分のことを覚えているかもはっきりしない。けれど、前回の苦々しい思い出を綺麗さっぱり流すことのできない不器用さから、それが表情に出ていたようで「おや?」というブッフォの不思議そうな顔が視界の端に写り込んだ。
「ブッフォさん、この度はご親切に対応いただき、感謝いたします」
ようやっと目の前までやってきて、再度両足を揃えたエリオスが言う。
「いやいや、簡単なエンジンの問題だったよ。かなり古い車みたいだ」
ブッフォが答える。
「ええ、元は妻の父親のものでして。ところで……」
「ああ、ウーモだ。空飛ぶ海の汽車守をしていてね。名前ぐらい聞いたことがあるんじゃないか」
それを聞いて、エリオスが小さく「やはり」と呟く。ウーモは彼が自分のことを覚えていたことがわかり、少し身構える。
だが、そこからの彼の態度はウーモの予想とは真逆のものだった。彼は非常に申し訳なさそうな表情を浮かべ、謝罪の言葉を述べた。
「あの時は、大変失礼した」
予想外のその言葉に固まるウーモ。事情を何も知らないブッフォはさらに驚きの様子を見せる
「急に申し訳ない、ブッフォさん。実は以前セルロで彼女にお会いして、その際に私が非常に失礼な対応をしてしまい……。まずはその謝罪をせねばと思ったのです。しかし、まさかこんなところで会えるとは」
それを聞いても何が何やらという様子のブッフォだが、ウーモの表情にそこまで怒りが見えないことを認める。
実際、ウーモにあったのは心配のみだったのに加えて、自分の倍は生きている大人から、こんなにもきちんとした謝罪を受けたことはなく、気恥ずかしくなり、そんなに謝らないでほしいという気持ちが全てを上回っていた。
「いえ、気にしないでください。大丈夫です」
ウーモが芯からの言葉を伝える。
そんなウーモの言葉と態度から、あまり気にしても仕方がないと判断したブッフォは、エリオスに彼の車がある工房へと案内しようとする。しかし、一歩を踏み出したあたりでピタリとエリオスは足を止め、ウーモの方を振り返った。
「そうだ。カルダさんが貴女に出した手紙があるんです」
そう言って、彼は肩から下げていた大きなカバンを地面に置き、丁寧に開く。その中にはいくつもの小さな箱に分けられた手紙が整頓されていた。その中の一つの箱から彼は、中の手紙の厚みでパンパンに膨れた緑の封筒を取り出した。
もらった封筒は口がきっちりと糊付けされており、開封に困っていると、エリオスが専用のナイフを渡してくれた。感謝を述べ、中身を切らないように丁寧に封を切っていく。
中を見ると、カルダとラタン二人からの便箋が入っていた。カルダは淡い橙色で、ラタンは真っ白な――ラティの部屋にたくさんあった紙の余り――紙を使ってるところに、彼女らの性格を感じ、自然と口元が綻ぶ。最初の三枚は、カルダからの近況報告であった。そこには彼女の足が少し良くなったと書かれており、ウーモは安心する。それを捲り、真っ白な便箋を読み始めると、ラタンの力強い文字で「近々カルダの折返しの日を祝いたいんだけど、準備の人手が足りないから手伝いに来てくれない?もちろん、謝金は払うわ」と書いてあった。折返しの日が何かウーモにはわからなかったが、なにか特別な日なのだろうと考える。もしかすると、ただ招待しただけでは自分が断ると思っての気遣いで仰々しく書いているのかもしれないとも思いつつも、ちょうどすることがなくなってしまった今となっては、大変ありがたい申し出であった。
早速返事をしなくてはと、ブッフォに便箋と封筒のありかを確認するため顔を上げると、いつの間にか二人はその場を離れてしまっていた。実のところ、ウーモが手紙を読んでいる間に彼らは工房に向かうとはっきり言っていたのだが、あまりの集中に彼女は何も聞こえていなかったのだ。出てくるのを待とうかとも思ったが、エリオスがいなくなる前に彼に返事を渡したほうが都合が良いだろうと考え、先ほどブッフォが出てきた工房の大きな扉へ向かう。
扉の奥から二人の話し声が漏れ聞こえる。
ウーモは扉の取手を掴み、ゆっくりと押し開ける。するとそこには、ウーモが見たブッフォの家の二部屋を合わせても、まだ十倍ほども広い大きな空間があった。運ばれてきたのが夜だったせいでウーモは気が付いていないが、ここを訪れた多くの人が人里離れたこんな場所にこれほど大きな建造物があることに驚愕するほどの立派な工房である。
しかし、彼女が気になったのはその工房の広さでも、ドアのすぐ近くで話していた二人の男たちでもなく、その空間の真ん中にポツンと置かれたボロボロの空飛ぶ海だった。
二人に声をかけるつもりだったウーモは、その凄惨な光景に言葉を失う。
実のところ、ウーモはその無惨な姿の空飛ぶ海を見るまで、それがどこにあるのかを考えていなかった。それは、その悲しい現実から少しでも自分の気を逸らすために彼女が無意識にしていた自己防衛だったのだが、今それを目の前にした彼女は、それを自分の薄情さと捉えることをやめられなかった。
「ウーモ」
空飛ぶ海を見つめ、苦しそうな表情を浮かべるウーモにブッフォが声をかける。
「君が寝ている間にロロと引っ張ってきたんだ。いつまでもこの子を野晒しにしておくわけにはいかないからね」
「しかし、なんと頑丈な……。一見損傷が激しいが、内側や機械部分は十分綺麗に残っている」
エリオスが口を挟むと、それを聞いて、自慢げな表情を見せるブッフォ。
「空から落下した際に、外側が壊れることでそれをクッションにして、中の損傷を最低限にする設計にしてある」
だが、それでもまたこの空飛ぶ海が再度動くようになるにはそれなりの時間を有することは、誰の目から見ても明らかであった。そもそもフーゴがこの世を去って以降 ウーモもできる限りのことはしたものの きちんとした点検などは行われていない。そのブッフォの話を聞いて、ウーモはあれだけ大事なだと息巻いていながら、自分は空飛ぶ海のことを全然理解していなかったのだと気付かされた。
「また空を飛んでもらうわけにはいかないが、この子は私がもう一度元の美しい姿に戻すつもりだ。その時はまた会いにきてやってくれ」
「もちろんです」
ブッフォが言葉を言い終わるか終わらないかのうちにウーモは言う。たとえ空を飛べなかったとしても、空飛ぶ海は彼女にとって何よりも大切な物の一つだ。これでお別れなどはありえないことだった。
だが、再会の日を迎えるためには、まず今後の自分の身の置き所を見つけなければならない。ウーモは工房へやってきた当初の理由を思い出す。
「ブッフォさん、便箋ってありますか。何か代わりになるような物でもいいんですけど。カルダさんに返事を書きたくて」
「便箋なら――」
「――いや」
ウーモの言葉にカバンを開けようとするエリオスを、ブッフォが手で制する。
「いや、それなら直接言いに行くといい。彼が車で送り届けてくれるよ」
ブッフォの言葉に二人が同時に「え」と声を出すも、彼は気にせず続ける。
「私はしばらく仕事が立て込んでいるから、君を街に連れていくのは難しい。かといって、ここでは何も手伝ってもらえることがない。これも何かの縁だ、お願いできないだろうか、エリオス」
「私は……構いませんが……」
その表情や口調から、構うところがありそうなのが漏れ出るエリオス。しかし、ブッフォはそれも構わない。
「きっとカルダさんなら、急なことでも君を受け入れてくれるさ。何と言ったって、転がり込んだ私とフーゴの面倒すら見てくれたのだから。それに比べればずっと可愛いお客さんだ。どうだい?ウーモ」
そう言われて少し困るウーモ。いくら何でもそんな急に訪れるわけにはいかないように思う。またそれ以上に、エリオスと二人きりで車で移動だなんて息が詰まってしまうのは目に見えていた。車であれば、まっすぐセルロに向かっても、着く頃には日が暮れてしまうだろう。そんな長時間を耐えられる気がしなかった。
どうにか丁寧に断れないだろうかと脳を回転させていると、ブッフォが手で腰をポンポンと叩いていることに気がつく。そこで、自分が彼の寝床をこの数日奪ってしまっていたことを思い出した。変わらず自分が自分のことばかり考えていたことを反省するウーモ。意を決して、ブッフォの疲労を気遣っていることがバレないように装いながら、彼の提案を承諾することにする。
「わかりました。そうしてみます。早くあの二人にも会いたいですし」
「よかった。空飛ぶ海にあった君の荷物だと思うものは、できる限り集めて、あそこにまとめてある。全部あるかはわからないのだけれど」
そうブッフォが指差したところには小さなガラクタの山ができていた。あまり私物を触らないようにしようという遠慮もあったのだろう。壊れた棚などもそのまま置かれているが、フーゴとの写真だけは、少し避けて丁寧に台の上に置かれていた。
もとよりあまり物を持たないウーモである。衣服に、貴重品、抽斗のついた小箱。ざっと目を通しただけで必要最低限のものは全てあることがわかった。街の外れの方であれば、数日は泊まれるだけのお金があるのも確認し、安心する。
大きな旅行用カバンに衣類などを詰め込み、いくつか大切な物を肩下げに入れると、彼らをほとんど待たせることなく出発の準備が完了した。
「もういいのかい?」
「はい」
本当は空飛ぶ海を丸々一台持っていきたい気持ちではあるが、そんなことを言っても仕方がないことはわかっていた。ウーモは精一杯、何の心配もないという表情を取り繕う。
「大丈夫だとは思うが、念のため数日はこの薬を食後に飲みなさい」
ブッフォが彼女に丸薬の入った包み紙を手渡す。
「肩の傷のものだ。痛みが出てからじゃ遅い。必ず毎日飲むんだよ」
「ありがとうございます。本当に」
ウーモは心からお礼を伝える。そして続けて言う。
「私、正直まだ頭の中でまとまってないことのほうが多いんです。空飛ぶ海のこんな姿を見るだけで苦しいし、もう飛べないんだって考えたら、叫んでしまいそうなんです。いくら言われたって、母の考えもやり方もおかしいと思います。でも、私だって、彼女と同じように自分のことばかりで……。それに、言ってくれたように、父に誇ってもらう娘であるためには、いつまでも空飛ぶ海に甘えてはいけないんじゃないかなって気もしたんです。だから、一度陸の世界で、自分一人で生きていけるようになろうと思います」
「それは、すごい目標だね」
そう言って、ブッフォは手を広げウーモに「おいで」と言う。ウーモはその言葉に甘え、膝を曲げ、ブッフォを抱きしめる。指先に彼の小さな翼を感じた。
「でもね、君はいつだって一人じゃない。君のお父さんと同じようにね。いつでも遊びに来なさい。いいね?」
「はい」
ウーモのその返事と同時に、エリオスが車両用の大きな扉を開けるガタガタという音が聞こえた。ウーモはブッフォから離れ、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「貴女の荷物は、後ろに積んである私の荷物に重ねるといい」
そう言って後部座席のドアを開けてくれたエリオスに礼をし、ウーモは車へと向かう。彼の車はまん丸なライトで、仏頂面の彼とは違った愛嬌があるデザインをしており、少し可笑しくなる。詰め込んだウーモの荷物で後部座席はピッタリいっぱいになったので、彼女は仕方なく助手席に座ることになる。座ってみると、そのあまりの狭さに、車に乗ったことなんて本当に子供の時の数回しかないことに気がついた。
運転席に乗り込んだエリオスがエンジンをかける。その音を聞いた時のびっくりしたような表情が、ブッフォの修理が彼の想像以上のものだったことを物語っていた。
エリオスは改めてブッフォに礼を述べると、ギアを動かし、アクセルをゆっくりと踏み込む。車は滑らかに動き出した。ウーモが振り返ると、後部座席に積み込まれた荷物の山の隙間から、手を振るブッフォの姿が見えた。向こうからは見えないかもしれないと思いつつ、小さく手を振りかえした。こんな風に手を振ってもらえるなんて、久しぶりかもしれないと思った。
ブッフォの姿は遥か後方に見えなくなり、エリオスとの無言の旅がスタートする。ウーモはここからセルロまで車で行くとどのぐらいかかるのか聞くのをやめることにした。時間を意識すると、却って長く感じるかもしれないと思ったからだ。
すると、しばらく窓の桟に頬杖をつき、外を眺めていたウーモに、両手でしっかりとハンドルを掴んだエリオスが急に話しかける。強い決意とともに突然発されたその声の大きさから、彼もあまり人に話しかけるのが得意ではないのだろうというのが感じられた。
「もしよければ、先に私の自宅に寄っても良いだろうか。といっても、塔の家のすぐ近くなんだが」
「それはもちろん。運転してもらってる立場ですし」
「助かる。妻に渡さなければいけないものがあってな」
年齢を考えれば不思議なことではないのだが、エリオスと家庭というものが、頭の中で上手に結び付かず、ウーモは少し不思議な気持ちになる。だが、ここでうっかりそれを表に出してしまうと、それは当然失礼に当たるような気がして、何か適当な会話を探す。
「お疲れだったら、運転いつでも代わるので言ってくださいね」
とにかく自分にできることを増やさなければと思っていたウーモは、その提案を思いついた。車の運転などしたことはなかったが、空飛ぶ海だって地上では巨大な車みたいなものである。これほど小さな車体であればわけもないだろうと思う。
しかし、エリオスはそれに渋い顔を見せる。
「いや、運転許可証のないものに運転させるわけにはいかない」
「そう……ですよね」
「あ、いや、その……」
ウーモの声が想像以上に落ち込んで聞こえたのだろう。途端にエリオスの声が弱気になる。
「気にしないでください。エリオスさんが言っていることが正しいです。何か私にもできることがないかなと思っただけなので」
「ああ……」
そこからまた気まずい無言の時間が始まる。
今日は空気が澄んでおり、遠くの方まで景色が見える。それを暇つぶしにウーモはまた頬杖をついていた。空飛ぶ海よりもはるかに遅い移動だが、地上から見る景色というのはウーモにとって新しいものだった。木々や山々が自分よりもはるかに大きいものなのだということを、そんな当たり前のことを改めて気付かされる。
ゆっくりと何も起こらない時間が流れ、空が段々と朱色に染まり始めたころ、遠くにセルロの姿が見えてきた。ここからでもはっきりと見える塔の家がなんだが暖かく感じられた。ウーモは自分が長時間ずっと同じ体勢でいたことに気づき、狭い車内でできる範囲の伸びをする。すると、ごほんとエリオスが咳払いをした。
「街につけば、許可証を取る便宜をはかることならできる。君が望むならだが……」
一瞬、ウーモは彼が何の話をしているのかわからなかったが、すぐに運転許可証のことかと思い当たる。どうやら、この長い道中、彼なりにずっと考えていたようだ。
「そんな、無理しなくても大丈夫ですよ」
「だが、不便になるだろう?」
「もしかして、あの時のことをまだ気にしているんですか」
塔の家の前で初めてウーモがエリオスと出会った時のことである。なぜ彼が自分のためにそこまでしようとしているのかがわからなかったウーモが、もしかしてと口に出したその考えはどうやら図星だったようで、エリオスは「いや、その……」としどろもどろになっている。
「なんで、あの時あんな態度をとったんですか」
いくら待っても、「いやでも」や「やっぱり」と言うものの、それに続く言葉が出てこない彼に痺れを切らし、ウーモは真っ直ぐに尋ねることにした。実際気になってはいたし、このまま彼の言葉を待っていたら、セルロについて有耶無耶になりそうだったからというのもあった。
そんなウーモの言葉を後押しに、エリオスは軽く咳払いしてから、話し始める。
「その……近頃、郵便局員を騙って荷物を騙し取ったり、盗みを働く奴らが現れたんだ。それで規制がかなり厳しくなった。そこで、怪しい人物を検挙したら特別に賞与を出すと局長が」
「お金のためにってことですか」
「そうだ……」
だが、これまでに見てきたエリオスが、そこまでお金のために動く人間のようにはとても見えなかった。その疑いが表情に出ていたのだろう、彼は顔を真っ赤にしながら、言葉を続ける。
「その、妻が妊娠したんだ……」
そのことの何が彼をそうも恥ずかしがらせているのか分からずウーモが「はあ……」と間抜けな声を出すと、さらに顔を真っ赤にし、運転までおぼつかなくなる。「ハンドル!」というウーモの叫び声がなければ、危うくスリップしてしまうところだった。
「あの……おめでとうございます。でも、今は車があるってことは、問題なくなったってことですよね?」
大慌ての急ハンドルの後、安定した車内でウーモが言う。彼女が知る限り、車を個人で所有するというのはかなり費用のかかることだった。
「実はかなり反対されての結婚だったんだ。駆け落ちのような状態だったのだが、どこからか孫が生まれることを耳にされたようで、あのすぐ後から、打って変わって援助してくださることになって……」
「そういえば、この車も」
エリオスがブッフォに、これは妻の父親の車だと言っていたのを思い出す。
「ああ、そうだ」
つまりあれは、彼が妻のためを思い、その思いが暴走してしまった故のものであったというわけだ。そう言われてしまうと、もうウーモにはそれに文句を言うほどの怒りはなかったし、特別彼に負い目に思ってほしくも無かった。
「気にしていないので、本当に大丈夫ですよ」
この言葉で本当に彼が納得してくれるかはわからなかったが、ウーモはきちんと言葉にして伝えることにした。
そこからまたしばらく、二人でセルロの街を見つめながらの無言の時間が流れる。そして日が完全に沈んだ頃、車はようやくエリオスの自宅に到着した。
車が停止してすぐ、ウーモは外へと飛び出し、数時間ぶりに自分の足で地面に立った。今度こそ正真正銘の大きな伸びをするウーモ。自分が地に足をつけることをこんなに喜ばしく思う日が来るだなんて想像したことがなかった。
その感動に浸るウーモに、エリオスが荷物をいくつか下ろしながら話しかける。
「思っていたよりも遅くなってしまった。どうだろうか、カルダさんのお宅に行くのは明日にして、今夜はうちに泊まるのは。一部屋空きがあるんだ」
「え、いや、そんな。奥さんも急に困るでしょうし」
「いや、むしろ彼女の方がそう提案するだろう」
これもまた彼の贖罪の気持ちから来る行動だろうか。ウーモがそんなことを考えている隙にエリオスはさっさと玄関のドアノッカーを鳴らす。
中から元気な女性の声が聞こえた。
その声によって、ウーモは前にもこの家を見たことがあるのを思い出した。もっと言えば、今と同じように、この家からこの声の主である女性が出てくるのすら見ていたのだ。その時、彼女はこんなにも静かで穏やかではなかったのだが。
「おかえりなさい」
そう笑顔でエリオスを出迎えた彼女は、以前セルロでウーモをナンパ男から救ってくれた女性だった。
「あの後ケテールは何もしてないわよね?」
エリオスからの――それ以上に彼の妻からの――提案を断れぬままウーモが家の中に入ると、すぐさま紅茶が出され、そして最初の質問がこれであった。どうやら彼女はウーモのこともあのときのこともしっかりと覚えていたようで、しきりにそのことを心配していた。
だがその心配は裏目に出た。すでにケテールの顔は朧げになっていたというのに、名前を聞いた途端にウーモははっきりと思い出してしまい、うっかりと苦々しい顔を浮かべてしまう。
「本当にごめんなさいね。次会ったらただじゃおかないんだから、あいつ!」
「いえ、もう大丈夫です。サリーダさんが悪いわけじゃないので」
そう言ってもエリオスの妻サリーダの怒りは収まらないようで、どうやったらケテールを懲らしめられるかとブツクサ案を出し続けている。こんなときにエリオスが間に入るべきなのだろうが、彼は無事セルロに到着したことをブッフォに報告するため、電話機がある郵便局へ行ってしまった。
ウーモはエリオスがその場を離れる時、彼とも全く打ち解けていないにもかかわらず、彼の妻と二人きりにされたことよりも、郵便局にもブッフォの家にも電話機があるのだという驚きが上回っていた。自分が空を飛んでいる間の二年間に、世の中の生活は少しずつ変化していたのだと感じた。空飛ぶ海に乗る前は、電話というものは、本当に重要な一部の施設にしかなかったはずである。あのまま空で生活をしていたら、自分はどんどんと世の中からズレて行って、都会で感じるあの居心地の悪さを世界中で感じるようになっていたのだろうかと考える。
目をテーブルに落とすと、紅茶から暖かな湯気が立ち昇っている。そこでふと、自分の残された荷物の中に、ポフィナのジャムのビンが奇跡的に壊れず残っていたのを思い出した。紅茶に入れようとカバンに手を入れたところで、あっとあることに気づき、サリーダの方を見る。
「あの……ポフィナって大丈夫ですか」
「大丈夫……って?」
サリーダはウーモの質問の意図が全くわからなかったようで、そのまま言葉を返した。
「香りです。私の母が弟を妊娠していたときに、この香りで気持ち悪くなるって言っていて」
「あー、全然大丈夫よ!なんか私びっくりするぐらいそういうのなくて。医者がいつもエリオスにお前はラッキーだなって言ってるわ」
そう豪快に笑い飛ばすサリーダに安心し、ジャムをテーブルの上に出し、紅茶に入れるウーモ。正直なところ、彼女が妊娠していることで、ウーモはかなり身構えていた。ターニャがスーを身籠っていたとき、ウーモはまだ幼いながらに、家中に張り巡らされた緊張感に気がついていた。ターニャは妊娠によってかなり体質が変わる方で、しかもそれは月齢が増すごとに極端になっていた。今思えば、仕方のない部分があったのもわかるのだが、当時はそれを理不尽な恐怖と感じており、今でも妊婦を見ると緊張してしまう自分がいた。サリーダの元々の体質のせいなのか、以前のウーモがそれどころじゃなかったからなのかはわからないが、前回はまったく気が付かなかった彼女の妊娠も、今では十人中十人がすぐにわかるほどになっていた。
「あなたが来るのが今日でよかったわ」
サリーダが言う。
「どうしてですか」
「実はもうすぐ田舎にある祖母の家に行くのよ。お腹のためにその方がいいって」
「でもこっちの方が病院は大きいんじゃないですか」
「一人有名なお医者さんがいるのよ。今も週に一度その人がセルロに来てくれていて、健診を受けているの」
「すごいですね」
ウーモのその言葉は、それほど優秀な医者へのものだったのだが、サリーダは違う意味として受け取ったようだった。
「父のおかげね」
そう言って寂しそうな顔をするサリーダに、ウーモは慌てて話を赤ん坊に戻そうとする。エリオスの話からしても、彼女の家族は裕福で力のある家庭のようだが、どうやらその表情から、何か触れない方が良いものがあるのだと思ったからだ。
「いつ産まれるんですか」
「来月の頭ぐらいって聞いているけど、どうなるのかしらね。お腹の重さ的には今すぐ生まれてくれた方が助かるんだけどね」
「そうですか。これから暑くなるから大変ですね」
「そうねえ。ま、無事生まれて来てくれればなんだっていいわ」
「……不安じゃないんですか」
あまりにもカラッとした態度のサリーダに、ウーモは思わず聞いてしまう。彼女にとっては初めての出産のはずだ。もちろん、今会ったばかりのウーモに苦しみを吐露することがないことはわかっていたが、それにしても楽観的すぎるように感じたのだ。
「大丈夫よ、だってエリオスがいるもの」
これまたあっけらかんとサリーダが言う。しかし、今度はすぐにその表情を真剣にする。
「本当はね、ちょっと不安だったわ。でも、それは子供を産むことがじゃなくて、自分が親になることがね。あなたお父さんのこと好き?」
「はい」
急な質問だったが、ウーモははっきりと答える。これまでのやり取りと比べて、あまりにもはっきりとした口調のそれに、サリーダが笑顔になる。
「いいわね。……私はね、ここだけの秘密よ?大嫌いなの。子供ができたってわかったとき、何よりも真っ先に思ったのが、あんな親にだけはなりたくないってことだった。でもなってしまうんじゃないか不安。だって、それが私にとっての唯一の手本なんだもの」
そういって、サリーダは自分のグラスに入っている水を一口飲む。ウーモもそれに合わせて紅茶を一口飲んだ。花の香りが口の中に広がった。
「母はとても優しい人よ。本当に穏やかな人で、怒っているのを見たことがない。最愛の家族。でもね、母は結局一度たりとも父を止めなかったわ」
「止めたけれどダメだったのかも」
口を挟むウーモ。
サリーダはそれに「そうかもしれないわね」と返事をしたが、それはウーモが欲しがっている言葉を言っただけなのだということが明らかであった。
ウーモはスーが空飛ぶ海に乗って泣いてしまった日のことを思い出す。あの日、激昂したターニャに見せていたフーゴの顔はどのようだっただろうか。彼は自分の妻になんと言っていたのだろうか。
「どうしてお母さんは止めなかったんですか。諦めてしまったんですか」
ウーモは自分の直接的なその問いかけが非常に失礼で、踏み込んだものであることがわかっていたが、納得のいく答えが欲しく、聞くのをやめられなかった。彼女の言葉をそのまま受け入れてしまうと、ウーモは自分が信じてきた人を失ってしまうような気がして、素直に賛成することができなかった。
「どうしてか……。それは、愛していたからかしらね」
「愛していたから……?」
納得のいかない様子のウーモに笑顔を見せるサリーダ。
「エリオスと話したでしょう?あの人って本当にヘンテコなのよ。頼りになるようでならないし、真面目なのにかなり抜けたところがいっぱいあるし。でもね、彼は私が間違っていると思うと、間違っていると言ってくれるの。それが何よりも私にとっては大事なことだし、それがあるから、私はあの父のようにはならないんだって信じられるの」
そしてまた水を口にし、サリーダはグラスを空にする。
「ごめんなさいね、急にこんな話」
「いえ、私の方こそ、その……」
「そうね、ちょっと聞き方は良くなかったかも」
そう言って、サリーダは悪戯っ子のように笑う。
「罰として、飲み終わった紅茶のカップは自分で洗ってちょうだい。それから、ベッドメイキングはできてないから、それも自分でやってね」
なんの罰にもならない罰を冗談っぽくウーモに与えて、立ち上がるサリーダ。
手を貸そうかとウーモも慌てて立ち上がるが、大丈夫よと断られた。そこで、せめてそれぐらいはと、彼女の使っていたグラスも洗わせて欲しいと頼む。
「子供が生まれたら、我が家のお手伝いを頼んじゃおうかしら」
変わらず笑顔のサリーダだが、やはり少し疲れが顔に浮かんでいるのが見えた。
帰宅したエリオスに案内された寝室は、これから生まれる子供のためのものだった。壁には可愛らしい動物の絵と、親からのメッセージがカラフルな色で書かれている。
そんな愛に溢れた場所でウーモは、自分の父親に思いを馳せた。彼は一体どんな人だったのだろうか。世界で一番優しくて、賢くて、誰よりも人のために生きていたフーゴは、いつも彼女の憧れだった。
だが、ウーモはカルダやブッフォの話を聞いて、それは決して彼の全てではなかったのかもしれないと思い始めていた。彼も一人の人間で、腹を立てたり、嫌いな人がいたり、どうしても出来なかったことがあったりしたのかもしれない。今これほど自分を悩ませているあの母の一部はその大好きな父なのかもしれない。
寝室に持ってきた紅茶の残りを口にするが、甘いジャムの味はどんどんとウーモの意識から遠くへと離れていく。もっと彼のことを知らなければならなかったとウーモは思った。なぜ彼はブッフォとラティの制止を振り切って、自分の命を投げ打ってまで空を飛んだのだろうか。
そこまで辿り着いたとき、今度は自分自身への疑問に突き当たる。では、なぜ、自分はあんなにも空を飛ぶことにこだわったのだろうか。もちろん、初めはあの青い石がそれほどまでに恐ろしいものだとは知らなかった。だが、乗って半年もしたころには、自分の成長速度の異常さや、青い石を火に焚べた後の不調には気がついていた。見て見ぬふりをしていた部分もあった。だが、初めて塔の家につきラティの残したノートを見たとき、それは現実なのだと確信した。それでも、ウーモが空を飛び続けた理由、それは……。
ズズっと無くなりかけの紅茶が音を立てた。その音にウーモは現実に引き戻される。彼女の目の前にはエリオスとサリーダが、これから生まれる我が子に向けて書いたメッセージがある。
〈一生君を守るよ〉
ウーモはスーのことを思う。彼が生まれた時、その小さな手を掴んで、自分が同じことを言ったのを思い出した。そして、いつか空飛ぶ海に乗せると約束したことも。




