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空に海  作者: 真倉あたり
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7.レイシャ

 ウーモの生まれ故郷であるレイシャは、都会と言うには小さいが、決して田舎ではない、そんなところだった。だが、野菜や果物がよく育つ肥沃な大地と、暖かな気候があることから、早々に主要な都市までの線路が引かれた場所の一つであった。

 この土地の郷土料理にキノコ鍋があるのだが、数十年前にセルロの料理人がそれに山の加護を意味する古語である「サオベ」と名付け売り出した。それ以来、諸外国のみならず、多くの国民ですらそれをセルロ料理だと信じている。そんなことをきっかけに、町ぐるみでかなりの敵対意識を持っていたセルロに対し、レイシャが直通の線路を繋げるという計画が発表された際、住民からはかなりの反対意見があった。その線路を使った交易によりレイシャが十分な恩恵を受けた今でも、キノコだけは一切セルロに送っていない。

 そんな歴史を持つレイシャの駅から大人の足でもなかなかに時間のかかる山の麓にウーモは空飛ぶ海を停めた。ここから歩いて裏側から町に入れば、レイシャの人たちに目立たず弟の姿を見られるだろうという考えの上でのことだった。何せ生まれてから十三年ほどを過ごした場所である。いくら成長したとはいえ、一目で見慣れない女性がウーモであることに気がつく者は多いだろうし、そうなるとまず間違いなくターニャに話が届く。彼女に会うにしてもあまり大事にせず、簡単な挨拶を交わす程度に留めたいウーモにとって、それは避けるべき展開であった。

 肩まである髪の毛を動きやすいようにきつく結んだウーモは、セルロを出たときから同じ場所に鎮座していた鍵を取り、空飛ぶ海にきちんと鍵をかける。こんなところから歩いたことはなかったが、小さい頃から何度も空から見下ろした土地だ。地図を開かずとも、道はわかった。




 背の低い雑木が立ち並ぶ細道を軽く息が切れるほどに歩を進めると、一気に視界が開ける。そこには広大な果樹園が広がっている。この辺り一帯はロデじいさんという偏屈なおじいさんが所有している。彼の果樹園の仕事は早朝から始まり昼過ぎには終わるため、夕方暇を持て余した子供たちがこの自然の迷路を使ってかくれんぼや鬼ごっこといった遊びを繰り広げていた。

 大人でもうっかりと迷ってしまいそうなこの果樹園だが、実は等間隔で目印となる木が植えてある。中からは気づきにくいが、空から見れば一目瞭然なそれをウーモは小さい頃から覚えており、これまでに救出した迷子の数は数え切れないほどだった。そんなことをしていれば、一目置かれたみんなのヒーローにでもなりそうなものを、それでも孤立していた子供時代を送っていた彼女は、自分はよほど斜に構えた子供だったんだなと、当時を顧みた。

 そんな果樹園のところどころに残る子供達の落書きを横目に、ウーモは最短距離で果樹園を突っ切り、スーの通っている学校へと辿り着いた。

 レイシャに住む子供のほとんどは、この学校で学生生活を送る。ウーモも例外ではなかった。多くの子は六年間の初等教育のみを受け、中でも裕福な子や優秀な子は四年間の中等教育へ進む。高等教育を受けるために都会へ行くような学生は一年に一人いるかどうかだ。中等教育を修了すれば、少なくともこの地域での将来は約束されたようなものであり、それを途中で投げ捨てたウーモのようなものが一体どう噂されているのか、それを想像するだけでも彼女は辟易した。

 そもそもウーモはあまり学校が好きではなかった。ただ、空飛ぶ海の中で父がしてくれた話を夢中で聞き、時折出してくれた問題を夢中で解いていたら、学校の成績が上がってしまったのだった。そして、あれよあれよと優秀学生として中等教育への入学許可を手に入れ、進学することとなった。行きたかったわけではないが、何か人より優れていることで得られる優越感をひょいと捨てられるほど大人ではなかった。だが、空飛ぶ海に乗ってサボりがちな彼女のそんな成績も、一生懸命授業を受けていた多くの学生にとって、彼女を遠ざけるのに十分な理由となっていた。

 少し校門から離れたところでウーモがスーの姿を待っていると、ちょうど初等科の授業が終わったようで、子供たちが元気に駆け出してくる。スーも現在初等科の四年生であるため、きっとすぐに現れるだろうと思っていると、次いで数人の大人が顔を出した。子供たちを見送る教師たちの姿である。すると、その中にいた一人の老人が視界にウーモを捉え、じっと見つめてくる。


「もしや、ウーモかい?」


 ウーモが「しまった」と体を隠すよりも早く、その男性はウーモに近づき、話しかけてきた。彼はウーモの初等科時代の数学教師である。


「はい。お久しぶりです、先生」


「いやあ、驚いたな。随分と大人っぽくなったから、気がつかなかったよ。都会に住むと背が伸びるのかい?なんてね」


 彼はそう言って笑う。授業中もよく冗談を言って一人笑っているが、その可笑しさは本人にしかわかっていないことが多い。

 今回もウーモはそれに笑わなかった。代わりに一点、気になることがあった。


「都会?」


「君のお母さんから聞いたよ。今ドルマの学校に通っているそうだね。やはりあちらでは数学の研究もかなり進んでいるんだろう?」


 ウーモは「一体何の話ですか」と口に出すよりも一手早く状況を察した。あの母親が娘に逃げられたと知られては恥だと思い、嘘に嘘を重ねているのだろうと。それに気づいた途端、真実をぶちまけてやろうかという誘惑に駆られたが、すんでのところでウーモはスーの声を耳にし、それを抑える。彼は校門にいる教師に丁寧に別れの挨拶をしていた。いちいち立ち止まって彼らに挨拶する子供なんて彼ぐらいものものだろう。母親の悪評でそんな弟を傷つけるわけにはいかないという理性がウーモの最後の防波堤となった。


「ええ、まあ。あの、すみません、スーを迎えに来たんです」


「ああ、引き留めてすまないね。今度ぜひ数学について語り合おう。君がいたときの授業は楽しかった。私の長い教師暦の中でも、君ほどの数学的才能の持ち主はそういなかったよ」


 ウーモが彼の授業で語っていた、彼の愛してやまない数学の話は、全て父であるフーゴから聞いたことをそのまま自分のアイデアのように言っていただけだったことに、彼女は今更ながら少し罪悪感を感じる。たった今怒りを覚えた自分の母親と同じように、自分も良い評価を受けるために、実際よりも自分を大きく見せようとしていたのだと思えたのだ。

 だが、その罪悪感は下校中の学生の彼を見る目によって少し緩和される。それはなにかあまり彼とかかわりたくないような、そういった雰囲気のものだった。それにより、彼がその教え方の複雑さや試験の厳しさからあまり学生に好かれていなかったのを思い出した。それはここ数日大きなミスもせず乗客に感謝されている自分を強く肯定してくれているような気がして、ウーモは少し気が大きくなる。

 そこでウーモは背筋を伸ばし、その数学教師に「では」とだけ返し、スーの元へと向かう。スーは最後に見た時よりもかなり背が伸びており、少女のようだった顔には若干の力強さが浮かび始めていた。だが、父親譲りの癖っ毛は赤ん坊の頃から変わっていない。


「スー!」


 ウーモの呼びかける声を聞いて、スーは首が捻じ切れそうなほどの勢いで振り返る。呼びかけたウーモが心配になる程の勢いだったが、彼にとって、久しぶりに聴いたその声はそれほどまでに喜ばしいものだったのだ。


「ウーモ!」


 スーはそう叫んで、ウーモの方へと駆け出し、その勢いで抱きつく。


「いつ帰ってきたの?」


「たった今よ」


「いつそんなに大きくなったの?でも、すぐにウーモだってわかったよ!」


「私もすぐにスーがわかったわ。あなたも大きくなったわね」


「でも、まだクラスの中だと小さい方なんだ。ウーモみたいに大きくなれるかな?」


「なれるわよ。お父さんも大きかったもの。……あの子たちはお友達?」


 そう言って、ウーモは自分たちのことを少し離れた場所でジロジロ見ている数人の子供達に視線をやる。その中の何人かはここを離れる前に見たことがあるような気がした。

 そのウーモの言葉から「え?」と振り返り彼らを見たスーは、慌ててウーモから離れ、手を引っ張る。


「仲悪いの?」


「ちがう、けど、いいから!」


 そう言いながら癖毛の隙間から覗かせるその耳まで真っ赤になっているスーを見て、ウーモは合点する。と同時に、姉と仲がいいところを見られて恥ずかしがるという弟の成長に対し、自分が微笑んでいることがバレないように気をつけることにした。

 そうして彼らの見えないところまで無言でスーに引っ張られるまま一緒に歩いていると、ウーモは今歩いているこの道が、二年前と何一つ変わらない学校からの帰り道であることに気が付く。


「家に向かってる?」


「うん。今日からまた一緒に住めるんじゃないの?」


「え?あ、いや、ごめん……」


 ここで初めてウーモは、自分の身勝手さに気がついた。約束を果たすためにターニャに会わなければならない。そのやる気を掻き立てるためにスーに会うことを目標に立てたのは良いが、だからと言って何を話すかだとか、それによって彼がどんな思いになるかなんてことには一切気持ちが向いていなかったのだ。スーは一体どこまで自分とターニャのことを知っているのだろうか。手紙を送ってくれているということは、先ほどの数学教師と違い、ウーモが空飛ぶ海に乗っていることは少なくとも知っているはずだ。だが、そのきっかけとなったターニャの行動までをスーがはっきりと認識しているかどうかは、ウーモにはわからなかった。もしかすると、彼女にとって都合のいい言い訳によって塗り固められた作り話を聞いているかもしれないとも思う。どちらにせよウーモは、そんな身勝手な姉にも甲斐甲斐しく手紙を送り、会えばここまで喜んでくれるスーに、なんとも言い難い申し訳なさを覚えた。


「手紙、ありがとうね。いつも返すの遅くなったりとか、色々ごめんね」


 ウーモはその申し訳なさをそのまま伝える。


「大丈夫だよ。届いてるのはすぐわかるし」


「そうなの?」


「うん、郵便屋さんが、会うといつも教えてくれるんだ」


 その言葉で、セルロで最後に会ったあの郵便局員のことをウーモは思い浮かべる。当たり前かもしれないが、中には彼と違い暖かな人もいるのだろうと思う。


「でも、もっと会いに来てくれると嬉しいな」


「そうだよね……」


 そう申し訳なさそうに言うウーモに、スーは励ますように元気な声を出す。


「じゃあさ、泊まらなくてもいいから、僕の部屋に来てよ!ウーモに見せたいものがあるんだ!」


 それはつまり彼らの母親の家に行くということであり、ウーモは一瞬足を止めかけたが、多忙な彼女の仕事が終わるのは、日が長くなった今の時期でも、かなり暗くなってからなことを思い出す。それならばむしろ、帰りがけにチラリと顔を合わせ、一言交わすだけのちょうど良い会合になるのではと考え直し、歩みを再開させる。何より、これ以上弟をがっかりさせたくなかった。

 今でも目を瞑って帰れる歩き慣れた道をそのまま歩き、家に辿り着く。ウーモの記憶よりもずっと早く辿り着いた気がしたそこには、思っていた以上に何も変わっていない建物がウーモを待ち構えていた。

 外壁こそ何度か塗り直された後はあるが、端々に老朽化の跡が見られる。その外観に少し意表をつかれるウーモ。この二年間も変わらずターニャの業績は順調のはずである。であれば、彼女のことだから、もっと立派な見た目の家になっているのではないかと思っていたのだ。だが変わっていなかったのはそれだけで、スーが鍵を開けてドアを開いた瞬間から、ウーモはまるで別の世界に自分が迷い込んでしまったかのような錯覚に陥った。もしかすると、外側が同じだからこそ、余計そう感じたのかも知れない。

 玄関のすぐ前にある階段と、それを左に抜けると広がるリビング。そういった間取りは一切変わっていないにもかかわらず、中にある物も、そこにあった色彩も、全てが自分の記憶から遠くかけ離れていた。おそらくそれぞれはそれぞれで質の良い物なのだろうと感じさせる家具たちが、妙なミスマッチでひしめき合っている。近代的な時計の横にある棚には、鮮やかな羽飾り付きの帽子を初めとした民族的な雰囲気を感じさせる手作りの置物が並べられていた。

 元々母は派手好きな人だったが、ここまでだったろうかとウーモが思っていると、その表情から彼女の言いたいことを察したスーが補足する。


「貰い物とかが多いみたい。お母さんに好かれたら色々有利だからって、贈り物してくる人がいっぱいいるって言ってた」


「言ってたって、あの人が?」


「あの人?」


「……母さん」


「そうだよ」


「そう……」


 スーにまでそんな嫌な大人の世界の話をするなんてというウーモの怒りは、母親を「あの人」と呼ぶという些細な反抗がそのスーに感じ取られた恥ずかしさによって一瞬にして押さえ込まれた。見た目から彼の成長をわかったつもりでいたが、その内面の成熟度合いは心苦しくなるほどのものだった。母親との二人暮らしによって、彼はそれまで以上に早く成長しなければいけなかったのではないかと心配する。


「ほら、こっち」


 だが、今はそんなことを忘れたかのように、スーは無邪気な表情で階段をバタバタと駆け上がる。

 スーの部屋はウーモがこの家にいたときと同じで、二階の廊下を突き当たって右手にある。廊下を挟んで向かいのドアを開けると、そこはかつてウーモの部屋だった場所だ。

 ウーモは一瞬、自分の部屋だった場所が今どうなっているのか、ドアを開けようかと逡巡したが、首を振ってその思いを断ち切った。「ここはもう私の家じゃない」そんな思いからだった。


「見て、すごいでしょ!」


 先に部屋に入ったスーが、ウーモが中に入るのを待ちきれずに声を上げる。


「それ……!」


 後に続いたウーモにも、スーが見せたかったものが何かはすぐにわかった。


「空飛ぶ海……!」


 スーの部屋の真ん中にある小さな机の上には、非常に精巧な空飛ぶ海の模型が  作りかけにもかかわらず  今にもその机をはみ出しそうな大きさになって置かれている。

 ウーモは、一体どうやってこれほど正確に空飛ぶ海を再現できたのか不思議に思う。少なくともウーモが運転し始めてから、この辺りの土地に空飛ぶ海が来たことはなかった。誰かがそれ以前に撮った写真でもあったのだろうか。そうでもなければ、これほどまでの再現性は不可能なように感じる。


「すごいわ!あなた一人でこれを?」


「ううん、細かいところは手伝ってもらってる。でも、組み立てたりとか、色を塗ったりとかは僕がやってるところも多いんだよ!」


 材料はほとんどが木材で、上から塗料で塗られている。いくらスーが器用だったとしても、子供の力で全てのパーツをこれだけ細かく切り出すのは不可能だろうとウーモは思っていたので、納得する。

 一通りジロジロと全体を見たウーモは一つ違和感を見つけ、指摘する。


「あ、でも、ここの車両を繋げている部分が違うわ」


 空飛ぶ海は上空でも車掌が車両移動をする必要があるため、地上の汽車と違い、先頭車両と二両目の間が連結ではなく初めから溶接されており、その上にしっかりとした床が固定されている。また左右ともに腰の高さに手すりが渡してあるのも特徴と言える。

 普段は乗客の目に触れない箇所であるため、こういったミスが生まれたのだろうとウーモは目ざとく見つけた。

 だがそれを言った後で、もしかしすると、嫌味だっただろうかとウーモが心配しスーを見ると、彼は目をキラキラと輝かせ、彼女のことを見つめていた。


「すごいなあ……。ウーモは汽車守だもんね!」


 心からの尊敬の眼差しである。


「だからって、私にこんな立派な模型は作れないわ。スーには芸術の才能があるのね」


 ウーモのその言葉にスーは満面の笑みを浮かべると、自分が空飛ぶ海のどこが好きか、この模型を作る中でどこに苦労したのかを語り始める。

 空中で風の抵抗を減らすために先細りした正面部分や、なるべくボディに隠れるように付けられたタイヤといった外観の美。先頭車両に機関室だけでなく居住スペースがコンパクトに収まっている独自性。乗客がリラックスできる木造りの内装。スーが言うには青色の煙に映える車体の黒はとても再現が難しかったそうだ。


「僕もいつか乗ってみたいな」


 息もつかずに空飛ぶ海への愛を語っていたスーが、ふと俯きつぶやく。

 それを聞いてウーモの記憶がフラッシュバックする。スーがまだ学校に入るよりも前のことである。一度ウーモはフーゴと一緒に彼を空飛ぶ海に乗せた。しかし、彼は初めて体験する大空への恐怖からか、上空で大泣きしてしまい、それがきっかけで空飛ぶ海に乗らなくなった。というより、それを見たターニャが禁じたと言った方がより正確かもしれない。

 あの時の彼女の鬼気迫る表情は、ウーモにとって今でも思い出せるほどのトラウマになっている。また、あれほどまでにフーゴが本気で怒鳴られている姿を見たのも、彼女にとってあれが初めてだった。

 だが、それは彼が本当に小さな時のことだ。いつからかその恐怖を好奇心が上回り、乗りたいと思った時もあったのかもしれないが、その時にはすでに「スーは空飛ぶ海に乗らない」という共通認識が家族の中に芽生えてしまっていた。だが、今の彼が心から空飛ぶ海に憧れを覚えているのは、目の前にある模型からもわかる。

 もしかしたら、自分が父と乗っている時間を大切にしているのに気がつき、その邪魔をしないようにと遠慮していたのかもしれないという考えにまでウーモは思い当たる。彼は今よりも小さな頃から、他者の気持ちを慮るあまり、自分の気持ちを抑え込むことが多々あった。


「スーならいつでも大歓迎よ」


 ウーモが精一杯の笑顔を浮かべ、スーを元気付けようとするが、空飛ぶ海がレイシャに来ることがないことをスーは知っている。「ありがとう」と言うその言葉にはあまり力がなく、沈黙が流れる。

 そこで、先ほどから彼を項垂らせてばかりなウーモは一つ、彼を喜ばせるアイデアを思いついた。


「スー。お母さんが帰って来るまで、まだ時間あるわよね?」


「え?」


「山の方に空飛ぶ海を停めてあるの。今から急いで行ったら、暗くなるまで少し乗れるわ」


 今度のウーモの言葉は、スーにしっかりと効いたようだった。勢いよく顔を上げ、

ただでさえ丸い目をさらにまん丸にしてウーモを見つめる。


「ほんとに?いいの?」


「もちろん。ほら、急ぐわよ」


「うん!」


 そう言って二人は手を繋いで勢いよく部屋のドアを開けた。このまま家を飛び出し、空飛ぶ海の元へ急ごうとする。

 しかし、ドアのすぐ前に現れたのは廊下ではなく、一人の女性の姿であった。二人の母ターニャである。ウーモと違い背丈は低いが、その鋭く大きな目は、誰が見ても彼女たちが親子であると気づくであろう意志の強さを孕んでいた。彼女もちょうどドアを開けようとしたタイミングだったようで、勢いよく開いたドアに「キャア!」と驚きの声を上げる。

 一方で、ウーモはそこに人がいた驚きを、まだ帰ってこないはずのターニャがその場にいる驚きが上回り、固まってしまう。

 互いに強張り見つめ合う二人。そうして生まれた沈黙を、その中で一番ドアから離れていたスーが崩す。


「おかえり、お母さん」


 スーのその言葉でターニャは一気に落ち着きを取り戻す。


「ただいま、スー。それに、おかえりウーモ。少し肌荒れしてるわよ、いい塗り薬を最近もらったのよ、使うといいわ」


 ターニャは、まずスーを見て、つぎにウーモを見て優しく話しかける。まるで、この世にこんなにも素敵な母親はいないかというような声だ。そんな彼女に向けてウーモの刺々しい声が響く。 


「まだ仕事の時間でしょ?」


「まずはただいまでしょう?」


 しかし、ターニャはそれを抑え込むように、優しく母親らしい暖かな声色で返す。それが却ってウーモの感情を逆撫でする。


「仕事やめたの?」


 負けないウーモ。

 ターニャは、ウーモからの「ただいま」を諦めたことを強調するようにため息をついて、ウーモの質問に答え始める。


「やめてないわよ。何人か部下が空飛ぶ海を見たって言うのよ。それで、もしかしてと学校に人を送ったら、あなたを見た先生がいるって聞いてね。慌てて帰ってきちゃった。数年ぶりに娘に会えるってわかったら、仕事なんてしちゃいられないわよ!」


 久しぶりの娘との再会に満面の笑みを浮かべるターニャ。

 それを見て苦虫を噛み潰したような顔をするウーモ。

 ちょうど対峙する二人の間に入ってしまったスーは、少しでも雰囲気を良くしようと試みる。


「今からウーモと空飛ぶ海に乗るんだ」


「スー!」


 しかし、そのスーの判断はウーモにとってあまり喜ばしくないものだったようで、彼は人生で初めて、ウーモから厳しい声を聞く。


「そんな怖い声出さないであげてちょうだい。スーがびっくりしちゃうわ。いいじゃないの、二人でドライブ。どのあたりに停めてあるの?」


「関係ないでしょ」


「そんな言い方しなくても良いじゃない。ねえ?」


 ウーモを注意しつつ、スーに同意を求めるターニャ。返事を待たずにそのまま一つ質問を加える。


「山の方とか?」


 ターニャにそう聞かれたスーは、答えて良いものかどうか考えあぐねてウーモを見る。しかし、彼のその不安気な表情だけで、ターニャには十分な答えとなってしまったようだと気づく。彼はまたウーモに叱られてしまうかと体を縮こまらせたが、ウーモは大丈夫だよという想いを込めてスーの頭を優しく撫でた。


「そうかもね。ところで、何か用事?何もないならもう帰るけど」


 ウーモが言う。


「そんなこと言わないで。晩ご飯でも一緒にどう?スーもそのほうが嬉しいわ。あなたのことずっと待ってたのよ」


 そう言われウーモがスーを見下ろすと、スーもウーモを見返す。確かにその目には、まだウーモに行かないでほしいと訴えるような意志が浮かんでいるのがわかった。ウーモはスーの頭に乗せた手で、そのまま彼の癖っ毛をさらにクシャクシャにするように撫でまわし、ターニャのほうを見ずに返事をする。


「じゃあ、食事だけ」


 その言葉を聞き、パッと表情を明るくするターニャとスー。


「嬉しいわ!時期はちょっと早いけど、きのこ鍋にしましょう!」


 まるで誕生日を迎えた子供のように大袈裟に喜びを全身で表現しながら、ターニャはキッチンへと向かう。

 そのターニャの後ろ姿が消えるのを待ってから、スーが言う。


「ウーモ……ごめんなさい」


「謝ることないわ」


「でも、ウーモは知られたくなかったんでしょう?空飛ぶ海の場所」


「いいのよ。それにこの辺りは山だらけなんだから、わかりっこないわ」


 半ば自分にも言い聞かせるようにウーモは言う。実際、あれだけの情報で空飛ぶ海の場所がわかるわけがないと思いつつも、あまり長い時間ここにいるわけには行かないなとも思う。

 ウーモは、ターニャが自分の心の中に娘を心配する愛情深い母親と、有無を言わさず自分の目的を達成させる狡猾さを当たり前のように同居させることができることを知っている。

 冷静に側から見ればいくらおかしくとも、彼女にとってそれらは完全に矛盾しないことであり、必要があれば彼女は自分の中にのみ存在するその時々の正論で、それらを美しくまとめあげることができる。その客観的に見ればおかしな論理に強い説得力を持たせられるからこそ、彼女は今このレイシャという町で、揺るがぬ地位を築いているのである。

 彼女と話せば話すだけ、彼女の頭の中で出来上がった「彼女が正しく、ウーモが間違っている」という物語を聞かされる羽目になる。そんなことを考えるだけで頭が痛くなるウーモは、できるだけ急いで食べて、彼女の隙をついてこの家を出ようと考える。そして、スーにだけはまた会いに来れば良いのだ。


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