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空に海  作者: 真倉あたり
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4.いつもより低い空

 今から三十年ほど前、空に憧れた研究者ラティは、志同じくした男ブッフォと出会い、いつか必ず空を飛ぼうと誓い合った。彼らは毎日のように塔の上から空を眺め、あと幾許かでもよいから近づけないかと研究に研究を重ねていた。だが初めのうちは順調だったその研究も次第に行き詰まり、なんの進展もないまま年月ばかりが過ぎ去っていった。そうして彼らが半ば諦めかけていたころ、どこからともなく研究の噂を聞いて駆けつけてきたのが、若き冒険家フーゴであった。

 彼が世界中の海を股にかけ手に入れた情報や物資は研究を加速度的に進ませた。彼らはこの塔の家で、まるで家族のように過ごし、寝る間を惜しんでその研究を進めた。そして、ついに〈空飛ぶ海〉は完成した。それはラティとブッフォが出会ってから、ちょうど十年目の冬のことだった。

 完成の高揚から、来る日も来る日も子供のように大喜びで大空を飛び回った三人。しかし、彼らの友情は、ある日パタリと終焉を迎えた。それ以降、彼らが顔を合わせたところを見たものはどこにもいない。

 そして、ラティは最愛の妻カルダにも、ついにその理由を言わず、この世から旅立ってしまった。




「そうだったんですね……」


 食卓でカルダから一通りの話を聞いたウーモは、そう呟き、カップに入った食後のお茶を飲み干す。フーゴが昔世界中を旅していたことは聞いたことがあった。あまり過去の話をしなかった彼が、子供の頃に一度だけ誕生日に汽車に乗ったことがあり、それ以来各地を旅するのが好きになったのだと語っていたのも覚えている。そして、そのフーゴの嘘か本当かわからないような冒険譚を聞くのが、幼いウーモが寝るときの一番のお楽しみだった。だが、そんなお話の中にも、ラティやブッフォという名前が出てきたことは、ウーモが覚えている限りで一度もなかった。今振り返ると、彼が意図的に隠していたのだろうと思う。空飛ぶ汽車を自分が作ったということすら隠していたのは、理由はわからないが、彼らのことを話さないようにしたかったからかもしれない。

 どしんと食卓の机が軽く揺れる。カルダが机の上に古いアルバムを置いた振動である。彼女はその中にあるいくつかの写真を取り出し、ウーモに見せる。


「これ、さっき思い出したの。あの人は『全部捨てろ!』なんて言ってたんだけどね、こっそり何枚か残していたのよ。手のかかる子供が二人も増えたみたいで大変だったけど、私にとってはすごく充実した、すてきな思い出なのよ」


 そこには、若かりし頃の彼らの笑顔が写っていた。研究室のような実験道具が置かれた机の前での写真、今ウーモがいる食卓での写真、セルロの駅での写真まであった。いつも父の横にいる色白でメガネをかけている人物にラタンに似た雰囲気を感じ取り、この人がラティだろうと思う。そうすると、もう一人の小柄でがっしりとした体型の人がブッフォだろう。何かのお祭りらしき写真には、ラタンとチャール姉妹の姿もある。

 自分が生まれるよりも前の父親が、友人ととびきりの笑顔を見せている写真を見て、ウーモは喉の奥がキュッと痛むのを感じた。自分に見せてくれていたのとはまた違う、友人への笑顔。そこにはイタズラっぽさや、若さからの自信が浮かんでいる。

 そう思ったところで、自分が父の笑顔をはっきりと思い出せないことに気がついた。空飛ぶ海で、自分一人で生きていこうと決めてからの二年、上手くいかないことが山のようにあった。それでも、父の想いを繋ぎたいと、なんとか乗り越えてきた多くの苦難があった。彼のようにできればと何度も願った。だというのに、今思い出そうとしても、その父の顔はぼんやりとしか浮かんでこない。呼吸が浅くなり、視界が少し狭くなる。

 そんな彼女の様子を見たカルダがラタンに目配せをする。彼女もそれにすぐ応えて椅子を立ち上がり、ウーモのところにやってくる。ラタンはウーモの頭を胸に優しく抱き寄せ、暖かな声で話しかける。


「ずっと一人で大変だったわね……。きっとあの子は、チャールはあなたが誰か大人に甘える必要があると思ったのね。荷物がどうとかじゃなくって。人遣いは荒いけど、よく気のつく子なのよ」


 久しぶりに感じる人の温もりに、ウーモは自分の体が小刻みに震えていることに気がついた。それをラタンがさらに強く包みこむ。今日あったばかりの人だというのに、ウーモは彼女の優しさを不思議と強く感じる。幼い彼女が誰の手も借りず、必死に大人のように振る舞うことで、辛うじて堰き止めていた感情は脆くも溢れ出しそうになっている。


「あなた、お母さんは?」


「は、母は、弟と、く、暮らしてます」


 難しくなった呼吸と呼吸の合間で、ウーモは必死に言葉を吐き出す。

 ラタンはウーモを抱きしめながら、ゆっくりと話しかける。


「そう……。父が死んだのはね、チャールが父と大喧嘩した次の日だったの。それ以来、あの子は自分に責任があるんじゃないかって思いを消せなくなってね、ここに帰って来れなくなっちゃったわ。そんな訳ないのにね。あなたはもっと顔を見せてあげて。空飛ぶ海から一度離れて、ゆっくり家族で休む時間だってとても大切だわ」


 ラタンのその言葉は、ウーモを妹と重ねた部分もあったが、それ以上に今目の前で震えを止められずにいる少女への心配と優しさからの言葉だった。

 しかし、そう言われたウーモは、ラタンの思いとは裏腹にその言葉から自分と母の別れの日を思い出してしまう。先ほどまでぼんやりと麻痺していた脳内に冷たい水が流れたかのような感覚をおぼえた。そして、ウーモはラタンを軽く押し返した。彼女の腕から抜け出す。

 深く息を吸い、ウーモは呼吸を整えた。


「ありがとうございます。でも、ダメなんです。空飛ぶ海を離れることはできません。もちろん私はまだまだ未熟だし、できないこともたくさんあるけれど、父が私に遺してくれたんです、空飛ぶ海を。だから、私は飛ばないといけないんです。それが、父のために私ができる唯一のことなんです」


 先ほどまでとは一転し、強い意志を感じさせるウーモ。ラタンは、とても十五歳の少女から発せられているとは思えないそれに、思わず気圧される。


「それに、都市を離れると、本当にたくさんの人が困っているんです。空飛ぶ海がないと、行きたい場所に行けないって人が何人もいて、だから  」


「ねえ、もう遅くなったし、今日はウーモに泊まっていってもらいましょう。続きはまた明日にして」


 突然朗らかな物言いで割って入ってきたカルダの言葉にウーモが目をぱちくりとさせる。どうやら自分の思いが高まり、視界が狭くなっていたようだということに気が付く。だが、その恥ずかしさをやり込める術がわからず「あの、その」と吃るしかない。

 一方で、ウーモの中で燃え上がったその強さに脆さを感じたカルダは、その鎮まった様子に満足げな表情を浮かべ、話を続ける。


「上の部屋の掃除はちゃんとしてあるわよね?」


「う、うん。下から一枚毛布は持って行ったほうがいいと思うけど、大丈夫」


 ラタンがそう答えるも、状況にようやく整理がついたウーモが慌てて断ろうとする。「そんな、大丈夫です!駅もすぐ近いですし」

 だが、いまだ遠慮をしようとするウーモを、カルダが優しくも有無を言わせぬ口調で嗜める。


「私があなたに泊まって欲しいの。こういうとき、大人はありがたく頂戴するものよ」


 実際、夜も深いこの時間に街外れにある停留所まで一人で歩いて行くのは危険が伴う。その上、カルダにそのように言われてしまうと、ウーモには何も言い返せない。結果、感謝と謝罪の言葉を何度も繰り返し、その申し出を受けることにした。

 ラタンがウーモを廊下へと手招きする。


「おいで、きっと面白いわよ」


 カルダに最後もう一度感謝を述べたウーモは、そうラタンに言われるまま食卓を後にした。四角いリビングの端にある無骨なドアの前に連れて来られる。外から見れば、ここが塔の真下にあたる場所である。

 ラタンがそのドアを開くと、そこには大人が二、三人入ればぎゅうぎゅうになってしまいそうな小部屋が現れた。ウーモはラタンに背中を軽く押され、その中に入る。ラタンもドアを閉めながら後に続く。


「ここは?」


「昇降機。お父さんの自信作よ」


「昇降機?」


 ラタンはニヤリと笑い、ドアに閂でしっかりとロックした後に小部屋の天井から吊り下がっているレバーを引っ張る。


「これを引っ張るだけだから、あなたもすぐに使えるわ」


 すると、ガコンという音がし、大量の歯車が一度に回転する音が部屋中に鳴り響く。それと同時に、ウーモは突然上からの強い重力を感じ「きゃっ」と叫び、ラタンの腕に捕まった。


「な、なんですか!」 


 そのウーモの慌てようを見て、ラタンは質問に答えず快活に笑い出す。


「いつも空飛んでるんなら慣れっこでしょう?」


 ニヤニヤを抑えきれない表情でラタンが言う。


「飛んでるんですか!」


「違う違う。上に動いてるだけ」


 数呼吸の後、昇降機は今度はフワッという浮遊感を二人に一瞬与えたかと思うと、ピコンという高い音を鳴らし、騒々しかった歯車たちの動きを止めた。

 昇降機の動きが完全に停止したのを確かめ、ラタンは先ほど自分でかけた閂を外し、ドアを開く。先ほどとは逆に、まずはラタンが昇降機の小部屋から出て、次にウーモがその足を踏み出す。

 するとそこには、いくつもの巨大な窓に囲まれた空間が、月明かりに照らされて広がっていた。


「ちょっとめんどくさいんだけど、カーテンを全部閉めないと朝すっごく眩しくなるから気をつけてね」


「はい……」


 ラタンの言葉に生返事をするウーモ。彼女の心はすでに窓から見える景色に吸い寄せられていた。一面の窓から見える景色は、まるで自分を空と大地のちょうど中間に自分を連れて行ってくれるようで、空から降り注ぐ星々の光とそれを反射する建造物の群れが見るものに独特の高揚を与えるようだった。


「不思議……。空なのに、いつもよりも街の灯りが近い」


 空飛ぶ海に比べれば、まだまだその景色は低いが、それでもいつものように眼下に広がるこの街中の灯りは、ウーモの心に安らぎを与えた。

 部屋の壁はたくさんの本棚と窓で埋め尽くされている。唯一窓のない角にはベッドが置かれており、その近くには立派な木製の机が置かれている。机の上にはたくさんの実験道具や、ラティが残した大量の書類が山のようになっており、綺麗に掃除された部屋の中で、それだけが時間に取り残されたように、先ほどカルダに見せてもらった写真と同じ姿でそこに佇んでいる。


「お父さんが死んだ時からずっとそのままなの」


 机を見つめるウーモの視線に気付き、ラタンが言う。


「片付け方がわかんないものばっかりなのよ。変に爆発されても困るし」


 ラタンはそう言うが、ウーモはおそらく彼らが彼らの意思でそのままにしているのだろうと思った。空飛ぶ海の中にも、ウーモがいまだ触れていない、抽斗のついた小箱がある。その軽さから、中身は空かもしれないと思いつつも、見て見ぬふりを続けている。


「だから、悪いんだけど荷物とかは椅子の上に置いてもらえる?あ、毛布は今から持ってくるわ。他に何かいる?」


「いえ、大丈夫です。本当にありがとうございます。初めて会った私なんかに、ここまでしていただいて……」


「いいのよ、そんなの。こっちこそ、初めて会った人の家に怖がらず泊まってくれてありがとう。……今日ね、お母さんがあんなに楽しそうな顔してるの久しぶりに見たわ。あなたのおかげよ。私も楽しかったわ。久しぶりのお客さんだったの」


 自分はただ荷物を持ってきただけで、何も特別なことはしていない。そう言ってこれ以上に謙遜を続けても、その卑屈さが相手を困らせてしまうことにウーモは気付き、言いかけた言葉を飲み込む。

 それを見たラタンは「それでいいのよ」とでも言いたげにニコリと歯を見せ、昇降機でリビングへと降りて行った。

 昇降機が下に着き、再度騒々しい歯車の音が止んだことで、ウーモは自分がその間呆然と突っ立っていたことに気づく。まずはカバンを置こうと、傍にあったランタンに明かりを灯し、椅子へと向かうウーモ。机の上にチラリと目をやると、そこにはラティが残した大量のメモ書きがあった。

 うっかり最初の数行に目を通してしまったウーモ。よくないと一度目を離すも、その内容が頭から離れず、再度目を落とし、じっくりと読み始めてしまう。すると、それらの中の一つに気になる章を見つけた。ウーモは冊子状のそれを手に取る。メモ紙の端に穴が開けられており、紐で十数枚が一つに纏められているものである。パラパラとめくり、その章の一ページ目を読み、めくる。

 途端、再度昇降機の音が鳴り始めた。ウーモは慌てて、そのメモの冊子をカバンに詰め込み、椅子の上へと置いた。


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