8.第二章 義郎さん エピソード4
母にしっかり勉強をするように言われて、返事をした手前、机に向かわない訳にはいかなかった。夕飯を食べ終わった僕は、久しぶりに勉強机に向かった。その週で締め切りのレポートが二本あって、気が乗らなくてずっと先送りにしてきたのだが、そろそろ本腰を入れて書き始めないと提出期限に間に合わない。
『人々の消費行動について、実例を挙げながら、千字以上で述べなさい』
という課題。なんとなく、書こうとすることは決めていた。それは、僕がアルバイトをしている遊園地のこと。テーマパークや複合型のアミューズメント施設などが隆盛する中で、時代遅れとも受け取れるあの遊園地がなぜ、今も細々と営業できているのかを、消費者である客の立場から述べようと考えている。ただ考えているだけで、最初の一字を書き始めるのが難しいのだが。
パソコンを開いて、文章ソフトの書式を指定されたものに設定する。カーソルを書き出しの位置に持ってきて、キーボード叩こうとしたとき、スマホが鳴った。通知を受け取ったときのような短い音ではなくて、同じ旋律を繰り返している。最近、ほとんど電話を受けることがなかったから、その音が電話の着信音だと気づくのに、時間がかかってしまった。
「あぁ、こんなときに、誰だよ」
髪の毛をくしゃくしゃにして、スマホの画面を見てみる。大樹からだった。まさか、前みたいに、今から遊びに行こうと誘うのではないだろうなと思いつつ、恐る恐る画面の緑の部分に触れてみる。
「あぁ、圭太、元気にしてるか?」
いきなり相手の近況を訊くところが、大樹の電話で話すときの流儀というか、単なる癖だった。
「今、レポートを書いていたところ。つまり大樹の電話で邪魔をされた」と、喉元まで出かかったが、寸でのところで思い留まる。あらゆることにつけて大樹には気後れしていたので、妙に気を遣ってしまうところが僕にはあって、なかなか正直に自分のことを話せないでいた。
「うん、なんとかやっているよ」
結局、いつものように、あやふやな答えになってしまった。
「ちょっと、聞いて欲しいことがあってな。今、時間あるか?」
「えっ、聞いて欲しいこと? あぁ、いいけど……」
大樹にしては珍しく、声に張りがなかった。本当は、レポートを書き始めないとやばいことになりそうだったが、なんとなく大樹のことが気になってしまって、ほぼ無意識にそう返事してしまっていた。
「実は、俺、里香と別れたんだ」
「里香さん? あっ、大樹の彼女だった……」
「そうだよ。大学のゼミで知り合ってから、半年ほど付き合ったけど、別れ話を持ち出されてな。俺と一緒にいたら、将来が見えないらしい。だから、もっと堅実な人と付き合うと言って、去って行ったんだ」
「はぁ、堅実な人……」
堅実な人というのが、どんな人のことを指すのかがよくわからなかったが、大樹の彼女が大樹のことを「将来が見えない」と話していることから、「未来を見据えて、今すべきことをやっている人」と言った意味だろうか。まぁ、大樹は、どちらかと言うと、流行に流されやすいタイプとは言えた。流行りの服装に身を包み、ファッション誌のモデルのように髪型をバッチリ決めている。SNSや動画サイトには、小学生の頃から顔を出していたらしいし、彼女とのデートでは、ネット上に溢れる口コミを常にチェックして、人気のあるお店ばかり通っていた。
でも、ある意味で、それらは僕にはないものだった。フットワークの軽さや常にアンテナを張って情報をチェックしている姿勢は、羨ましく思っていたほどだった。その大樹が、彼女から愛想を尽かされたと言うのだ。世の中、わからないものだ。僕は、複雑な心境になった。
「俺さ、なんだか自信をなくしちゃったよ。今まで、新しいことを追い求めることが、素晴らしいことだと思っていたけど、そうではなかったのか……。なぁ、圭太、俺って、そんなにも薄っぺらい人間か? 中身がないのか?」
大樹の言葉に、僕は思わず怯んでしまった。『薄っぺらい』とか『中身がない』とか、そんなのじゃないとは思う。そもそも、中身のない人間なんていないと思う。確かに大樹は、流行に敏感になっていたところはあるけれど、それはそれで彼女を楽しませようとしてやったことだろうし、大樹が持つ優しさの裏返しのような気もする。
「いや、僕はそうは思わないよ。大樹は、僕にとっては、憧れの人だったからね。大樹の明るくて積極的なところは、いつも羨ましく思っていた。僕なんて、臆病で怖がりで、どんなことにも二の足を踏んでばかりいたから……」
「そっ、そうかな。圭太は、そう思ってくれているのか?」
「えっ、うん、本当だよ。僕が今のアルバイトを始めようと思ったのも、実は大樹の影響があったからなんだ。何もせずに毎日、あてもなく過ごしているのがなんだか虚しくなってきちゃってさ。それで、何でもいいから新しいことを始めてみたいと思った」
「そうだったのか。あっ、バイトはその後、調子はどうだ? 一緒に働いている人、なんて名前の人だったっけ。その人のことで、悩んでいるようだったじゃないか」
義郎さんのことを言っているのだろう。悩んでいたのは事実だったが、あれから義郎さんと話したり、実際に働きながらお客さんと接したりしているうちに、義郎さんが僕に伝えようとしていたことが、なんとなくわかってきたような気がしていた。だから、心配してくれている大樹には、そのことを包み隠さず話すことにした。
「へぇ、なんだか圭太、今のアルバイトが楽しそうじゃないか。俺は羨ましいよ」
話し終わって、大樹が漏らした言葉に、僕ははっと肩を上げた。自分では普通に働いているつもりなのに、大樹から羨ましく見られている。よくわからないけど、大樹とは立場が逆転してしまったみたいで、気恥ずかしかった。
「いやぁ、そんなことはないけど……ただ、任されたことをやっているだけだよ」
「そんなことはないぜ。圭太が機転を利かしたおかげで、その女の子の夢を叶えてあげたんだもんな。初めてのバイトにしては、大したものだよ。なかなか、いいスタッフをやっているじゃないか」
「いいスタッフだなんて、そんなの大袈裟よ」
大樹が言った「その女の子」とは、話の途中で出したあの足の悪い女性と一緒にやってきた、小さな女の子のこと。機転を利かすほどのことはやっていないけど、手を振りながら笑顔で帰って行ったところを考えると、あの女の子の目に、僕はいいスタッフとして映っていただろうか。
「なんだか、わからないけどよ、圭太と話せて、よかったよ。俺、圭太から元気をもらえたような気がする」
「そんな、元気だなんて……」
「恥ずかしがることはないんだよ。本当のことなんだからさ。それよりもまた今度、気晴らしにパーッと行こうぜ」
いつしか、大樹の口調は明るくなっていた。彼女にフラれて電話をかけてきたはずなのに、気持ちの切り替えのよいところは、いかにも大樹らしかった。
「うん、またいつでも電話して」
そう言って、電話を終えた。ぼんやりと、目の前のパソコンの画面を見つめる。カーソルが、書き出しの位置で点滅を繰り返していた。
「今のアルバイト、楽しそうじゃないか」
「いいスタッフをやっているじゃないか」
電話の中で大樹が話した言葉が、いつまでも僕の脳裏を反芻していた。




