皇帝 劉安
瑶月は、すぐに目を伏せた。
皇帝陛下から許しをいただくまでは、その御姿を直視してはならない。
そう教えられてきた。
伏せた視線の端に、ふと人影が映った。
――承琰。
なぜかこちらを見ながら、片目をぱちりと閉じている。
瑶月は心の中で呟いた。
――そこにいるのは分かっているわ……。
その隣で、劉晟がゆっくりと片膝をついた。
「兄上、帰還しました」
「……?」
瑶月の胸の中で、疑問が弾けた。
――兄上?
皇帝陛下が、劉晟の兄?
混乱する瑶月をよそに、劉安は穏やかな声で口を開いた。
「よく帰ってきた。怪我はないか?」
「怪我はありません」
「そうか……」
その声には、安堵が滲んでいた。
そして劉安は、瑶月へ視線を向ける。
「其方が、沈瑶月か?」
「はい。私です」
「表を上げよう」
その言葉を受け、瑶月はゆっくりと顔を上げた。
視線の先に、景国皇帝――劉安の姿がある。
「東州での活躍は聞いておる」
一拍置いて。
「大義であったな」
「ありがとうございます」
瑶月は静かに答えた。
「ですが、私は医師として行うべきことを行ったまでです」
劉安の口元がわずかに緩む。
「そうか。だが、民が助けられたのには変わらん」
そして、穏やかに続けた。
「後ほど褒賞を受け取るがよい」
「ありがとうございます」
瑶月が一礼した。
その時だった。
「陛下!」
謁見の間に、一人の文官の声が響いた。
「昨日、我が息子が、そこにいる沈瑶月に打たれたと申し上げます!」
劉晟の手に、わずかに力が入った。
その隣では、承琰が――
まるで目の前で始まった芝居を楽しんでいるかのような顔をしている。
劉安は瑶月へ視線を戻した。
「それは、事実か?」
瑶月は一瞬も怯まなかった。
まっすぐに劉安を見つめ、静かに口を開く。
「昨日、私は確かに、不届き者を打った記憶がございます」
謁見の間が静かになる。
「その方は、辺境を守護している将軍を大衆の前で侮辱しておりました」
一呼吸。
「景国の尊厳にも関わる行為だと思い、打ったのですが……」
瑶月は、文官へ視線を向けた。
「そのような不届き者が――御令息ということでしょうか?」
「……!」
文官の顔が引きつる。
その瞬間。
劉安の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
「そんな不届き者が、其方の息子ではなかろう!」
「……っ」
文官の顔に冷や汗が浮かぶ。
「は……はい。私の勘違いでございました」
そう答えるしかなかった。
劉安は満足そうに文官を見つめた。
そして、ふっと劉晟へ視線を向ける。
「劉晟」
「はい」
「面白い拾い物をしたなあ!」
「……」
劉晟は何も答えなかった。
ただ静かに、兄である劉安を見つめていた。
その横で、瑶月はわずかに首を傾げる。
――拾い物?
自分のことを言われているのだろうか。
けれど、劉晟は何も説明しなかった。
ただその瞳だけが、ほんの僅かに揺れていた。
劉安はそんな瑶月を、しばらく興味深そうに眺めていた。
やがて、ふっと笑う。
「……そうだ」
何かを思い出したように、口を開いた。
「数日後に、大きな宴がある」
瑶月が顔を上げる。
「其方らも参加せよ」
「……」
一瞬、瑶月は劉晟を見る。
けれど、答えは決まっていた。
皇帝からの言葉だ。
誘いのように聞こえても、実際には断ることなどできない。
劉晟が静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
瑶月も続けて一礼した。
「承知いたしました」
「うむ」
劉安は満足そうに頷いた。
「では、楽しみにしておるぞ」
二人は揃って一礼し、謁見の間を静かに下がっていった。
扉が閉じる。
瑶月は歩きながら、今日一日の出来事を思い返していた。
景都へ来たばかりだというのに。
皇帝への謁見。
承琰との出会い。
そして――
数日後には、皇帝主催の宴。
瑶月は小さく息を吐いた。
どうやら景都での暮らしは、思っていた以上に慌ただしいものになりそうだった。




