前日
船遊びから、幾日か経った。
ここ最近、沈家の男たちは慌ただしかった。
少し前までは、朝になれば中庭から三兄弟の鍛錬する声が聞こえていた。
けれど、今は違う。
今日も中庭にいるのは、三男の滄海だけだった。
滄岳は夕暮れになって、ようやく屋敷へ戻ってくる。
そして滄海と入れ替わるように、また屋敷を出ていく。
次兄の滄瀾に至っては、もう何日も姿を見ていない。
「……」
瑶月は、少しだけ不安を覚えていた。
けれど――
これは武家としては、当たり前の日常なのだ。
父も兄たちも軍人なのだから。
戦が近づけば忙しくなる。
それだけのこと。
瑶月は、そう自分に言い聞かせていた。
その朝も、江氏に髪を編んでもらいながら、瑶月は何気なく口を開いた。
「最近、みんな忙しいね」
江氏の指が、一瞬だけ止まった。
「……そうね」
それだけだった。
「今日は父上とお芝居を見に行く予定だったのに」
瑶月は少し残念そうに呟く。
「皓然様、今朝戻ってきたばかりよ」
「そっか……」
瑶月は鏡の中の自分を見つめた。
「また別の日にしようかな」
「ええ」
江氏は微笑みながら、娘の髪を最後まで丁寧に編んだ。
やがて身支度が終わる。
江氏は瑶月の肩にそっと手を置いた。
「瑶月」
「なあに?」
「大切なものや、好きなものは――」
「相手に悟られないように」
二人の声が重なった。
江氏はいつものように微笑んだ。
「そう。よく覚えているわね」
「もう何度も聞いてるもの」
瑶月も笑った。
それが、いつもの朝だった。
瑶月は自室へ戻ると、いつものように医術書を開いた。
しばらく読み進めていると、見慣れない薬材の名が目に入る。
「……これ、城下の薬舗にあるかしら」
興味を持った瑶月は、本を閉じた。
せっかくなら実物を見てみたい。
そう思い、部屋を出て屋敷の門へ向かった。
だが――
「瑶月」
「え?」
背後から呼び止められた。
振り返る。
そこには父、皓然が立っていた。
「しばらく屋敷から出るな」
「……どうして?」
瑶月は目を丸くした。
「城下に行きたいの。薬材を買いたくて――」
「駄目だ」
いつになく強い声だった。
「山賊が増えている」
「でも……」
瑶月は父を見上げる。
「父上たちがいるから――」
大丈夫でしょう?
そう続けようとした。
けれど。
「……だとしてもだ」
皓然の声が、低く落ちた。
「……え?」
「お前は、しばらく屋敷から出るな」
それ以上、皓然は何も言わなかった。
瑶月はその場に立ち尽くす。
今までなら、父の言葉に疑問を抱くことなどなかった。
けれど。
最近、何かがおかしい。
兄たちは忙しく屋敷を出入りし、滄瀾の姿は何日も見えない。
父も戻ってきたばかりだというのに、また何かを抱えている。
そして今――
自分が一番安心していたはずの言葉。
「父上たちがいるから大丈夫」
瑶月は知らなかった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
自分が当たり前だと思っていた幸せのすぐ隣まで、不穏な影が忍び寄っていることを。
その日の夜。
久しぶりに、沈家の食卓に家族全員が揃っていた。
瑶月はそれだけで嬉しかった。
最近は父も兄たちも忙しく、家族全員で食事をすることすら少なくなっていた。
だから今日は、いつも以上に箸が進む。
「これ、うまいな!」
滄岳が少々大きな声を上げる。
「がく兄様、声が大きいわ」
「そうか?」
そう言いながらも、本人は気にした様子もない。
その隣では滄瀾が瑶月の皿を見つめていた。
「瑶月」
「なあに?」
「野菜も食べなさい」
「……」
瑶月が嫌そうな顔をする。
すると滄瀾は、瑶月の皿へ野菜をひとつ乗せた。
「ほら」
「兄様、私もう子供じゃないわ」
「子供だろ」
「十三歳よ!」
「十分子供だ」
「もう!」
向かいでは、滄海が黙々と食事をしている。
眠そうな半目で、自分の皿をじっと見つめていた。
「かい兄様、眠いの?」
「……少し」
「寝ながら食べちゃ駄目よ」
「寝てない」
「目が半分閉じてるわよ」
「……」
滄海は何も言わなかった。
いつもの沈家だった。
騒がしくて。
賑やかで。
少しだけ鬱陶しいくらいに、家族の声が聞こえる食卓。
その隣では、江氏が夫の杯へ酒を注いでいる。
「どうぞ」
「ありがとう」
皓然は微笑みながら杯を受け取った。
瑶月はそんな両親の姿を眺めながら、ふっと笑った。
――やっぱり、家族みんなで食べるご飯はいいな。
夜
布団に潜り込んだ瑶月は、久しぶりの家族団欒を思い返していた。
父の笑顔。
母の優しい声。
三人の兄たちの騒がしい声。
思い出すたびに、自然と頬が緩む。
「……ふふ」
瑶月は布団の中で、小さく笑った。
すると、隣から母の声がした。
「瑶月」
「なあに、母上?」
江氏は娘を見つめる。
「あなたが大好きよ」
瑶月は嬉しそうに笑った。
「私もよ、母上」
いつもの言葉。
何度も交わしてきた、いつもの会話だった。




