幸せな日々 7
その頃。
部屋の外には、そわそわと落ち着かない三つの人影があった。
言うまでもない。
沈家の過保護な三兄弟である。
扉の向こうから聞こえてくる瑶月の声に、長兄・滄岳は腕を組みながら満足そうに頷いていた。
「瑶月、立派になったな!」
次兄・滄瀾も、感心したように微笑む。
「別人のような立ち振る舞いだな……母上の教育の賜物だ」
そして三男・滄海は、黙って部屋を見つめている。
「……」
三人とも、妹の様子が気になって仕方がないらしい。
やがて、青年たちが部屋から退出する。
三人はそれを確認すると、間髪入れずに部屋へ入った。
「瑶月!」
「え?」
突然、三人の兄が入ってきたことに瑶月は目を丸くする。
「え? え? なんでいるの?」
さっきまでの凛とした姿はどこへやら。
慌てふためく妹を見た滄岳が、嬉しそうに笑った。
「我が沈家――」
「?」
次の瞬間。
「明珠あり!」
「きゃあっ!」
滄岳は勢いよく瑶月を抱き上げた。
「ちょっと、がく兄様!」
「よくぞここまで立派に育った!」
「やめてよー、もう!」
瑶月は顔を真っ赤にする。
そこへ滄瀾が、くすくすと笑いながら口を挟んだ。
「確かに立派だったな」
「らん兄様まで……」
「さっきの姿だけ見たら、別人かと思ったよ」
「そんなに?」
「ああ。とても十三歳には見えなかった」
「……」
瑶月は少しだけ得意げに胸を張った。
「ふふん。母上の教育の賜物ね」
その瞬間。
部屋の隅から、ぽつりと声が落ちた。
「……おばさんかと思った」
「…………」
瑶月の笑顔が固まった。
ゆっくりと振り返る。
「……かい兄様?」
滄海は悪びれる様子もなく、いつもの眠たげな目で妹を見ている。
「だって、貫禄があったから」
「もう!」
瑶月は滄海へ駆け寄ると、その胸元をぽこぽこと叩き始めた。
「おばさんじゃない!」
「痛い」
「失礼よ!」
「はいはい」
「全然反省してない!」
ぽこ、ぽこ、ぽこ。
滄海はされるがままになっている。
その様子を見ながら、滄瀾は笑い、滄岳は豪快に笑い声を上げた。
先ほどまで、沈家の令嬢として凛とした言葉を口にしていた少女。
けれど兄たちの前では、ただの十三歳の妹だった。
「父上〜! 明日、お船に乗りに行きましょうよ〜!」
夜もすっかり更けた頃。
沈皓然の書斎から、少女の明るい声が響いていた。
机に向かっていた皓然は、筆を置いて振り返る。
「船遊びか?」
「うん!」
瑶月は嬉しそうに頷いた。
「明日はお休みでしょう? だから、みんなで行きたいの!」
「……明日か」
「そう!」
瑶月は父の机の前まで歩いてくる。
「今日、城下でね、茶楼のお芝居の話も聞いたの。最近、新しいお芝居が始まったんですって」
「ほう」
「父上たちの英雄譚なんだって!」
「……」
皓然の眉がぴくりと動く。
「我らの?」
「うん! 沈家の三兄様たちも出てくるんだって!」
「小っ恥ずかしい」
皓然は即答した。
「行かんぞ?」
「えぇ〜!」
瑶月が頬を膨らませる。
「せっかく父上が主役なのに!」
「我は戦場に出るのは好きだが、芝居のネタになるのは好きではない」
「父上〜」
そこへ、奥から江氏が二人分の夜食を運んできた。
「ほら。こんな時間までお父様を困らせてはいけませんよ」
「母上からもお願いして〜」
瑶月が母に駆け寄る。
「瑶月。わがままはいけませんよ」
江氏は笑いながら娘の頭を撫でた。
「母上まで……」
瑶月がしょんぼりする。
皓然はそんな娘を見て、ふっと笑った。
そして机の上に置かれていた、滄海が設計した武器の図面を端へ寄せる。
「芝居は見に行かん」
「……うん」
「だが」
瑶月が顔を上げる。
「船遊びくらいなら、付き合ってやろう」
「本当!?」
瑶月の顔が一瞬で明るくなる。
「やった!」
その声が書斎に響いた。
その時だった。
部屋の外から、低い声が聞こえた。
「父上。至急、ご報告したいことがあります」
滄岳の声だった。
皓然の表情が変わる。
「入れ」
扉が開く。
そこには滄岳と滄瀾が並んで立っていた。
二人の表情を見た瞬間、皓然は何かを察した。
江氏も同じだったのだろう。
「瑶月、部屋に戻りましょう」
「え?」
「もう休む時間ですよ。」
「……うん」
瑶月は少し不思議そうな顔をしながらも、母の手を取った。
江氏は一度だけ皓然を見つめる。
そして二人は静かに書斎を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、沈家の男たちだけになった。
「どうした?」
皓然が尋ねる。
滄瀾が一歩前へ出た。
「以前、見張りをつけていた装飾屋の店主ですが……」
皓然の目が細くなる。
「国境付近で山賊に襲われ、命を落としました」
「……」
皓然の顔が険しくなる。
「荷は?」
「すべて奪われています」
滄瀾は続けた。
「商品を仕入れる道中だったと思われます」
滄岳が低い声で付け加える。
「このところ、また山賊の活動が活発になっています。近いうちに、戦になる可能性もあるかと」
皓然は黙って考え込んだ。
やがて、ふと顔を上げる。
「……装飾屋の店主が殺されたのは、本当に偶然か?」
滄瀾が一瞬黙った。
「……今のところは、偶然かと」
「そうか……」
皓然は窓の外へ目を向けた。
先ほどまで、娘の笑い声が響いていた書斎。
明日は船遊びへ行く約束をした。
その約束を、瑶月はきっと楽しみにしている。
だからこそ――
皓然は胸の奥に生まれた、説明のつかない不安を押し込めるように、ゆっくりと息を吐いた。
「……念のため、城門の警戒を強めておけ」
「はい」
滄岳と滄瀾が揃って頭を下げた。
まだ、この時の三人には分からなかった。
それが「偶然」ではなかったことを。
翌朝。
空は、雲一つないほど青かった。
白い雲がゆっくりと流れ、風も穏やかだ。
「今日は天気がいい!」
朝から瑶月はご機嫌だった。
中庭では、三人の兄たちが鍛錬をしている。
瑶月はその少し離れた場所にある秋千に腰掛け、ゆらゆらと揺れながら兄たちを眺めていた。
「兄様〜!」
声をかけると、滄岳が振り返る。
「どうした、瑶月!」
「今日は船遊びの日よ!」
滄岳は大刀を振り下ろしながら答えた。
「それまでまだ時間がある!」
「……」
「日々の鍛錬が大事だ!!」
力強い声が中庭に響く。
瑶月は頬を膨らませた。
――熱い。
がく兄様は、熱すぎる。
これは嫁探しには絶対に苦労するだろう。
そんなことを考えながら、瑶月は小さくため息をついた。
その時。
「そろそろ出かける用意をしなさい」
背後から声がした。
振り返ると、父・皓然が立っていた。
「父上!」
その一言を聞いた途端、三兄弟が一斉に鍛錬を止めた。
「では、準備してきます!」
「俺も」
「……行ってくる」
三人はまるで競うように屋敷の中へ戻っていった。
「……兄様たち、早すぎ」
瑶月が呆れていると、皓然が秋千の後ろへ回った。
「ほら」
「え?」
皓然が秋千をゆっくりと押す。
瑶月の身体が前へ揺れる。
「わぁ……!」
何度か押しているうちに、皓然がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば瑶月」
「なあに?」
「お前も最近、鍛錬をしているそうだな」
「……!」
瑶月の身体がぴたりと止まった。
ぎくりとしながら振り返る。
「う、うん……」
「滄岳が鍛えているのか?」
「そうなの。がく兄様が、私が貧弱だからって……」
「そうか」
皓然は少し笑った。
「小さい頃から貧弱だったもんな」
「?」
「昔、都へ行った際に湖へ落ちて、風邪を引いたことがあっただろう」
「あぁ……」
瑶月は少しだけむっとする。
「かなり前の話だわ。もう風邪なんて引かないもの」
「ははは。そうか、そうか」
皓然は満足そうに笑った。
瑶月は再び秋千へ向き直る。
青い空。
白い雲。
穏やかな風。
そして、すぐ近くには大好きな父がいる。
やがて準備を終えた三人の兄たちも戻ってきた。
「瑶月、行くぞ!」
「はーい!」
その日。
沈家は家族全員で船遊びへ出かけた。
船は穏やかな水面をゆっくりと進んでいく。
瑶月は帷帽を深く被り、風に揺れる薄布の向こうから水面を眺めていた。
兄たちは船の上でも妹を取り囲み、何かと世話を焼いている。
時折、瑶月の鈴のような笑い声が風に乗って聞こえてくる。
皓然と江氏はそんな子供たちを静かに見守り、兄たちも楽しそうに言葉を交わしていた。
顔は見えない。
けれど、その家族を包む穏やかな空気は、遠く岸辺にいる者にも伝わるほどだった。
その姿を――
たまたま岸辺を通りかかった一人の絵師が目にした。
絵師は足を止める。
「……なんと、幸せそうな家族だ」
船の上で、帷帽を被った少女。
その周りを囲む三人の兄。
娘を見守る父と母。
穏やかな水面。
青い空。
白い雲。
絵師はしばらくその光景を眺めたあと、筆を取った。
少女の顔は見えない。
けれどこの家族が、どれほど互いを大切にしているのか。
それだけは、十分に伝わってきた。
筆先が、静かに紙の上を走る。
そうして一枚の絵が残された。




