幸せな日々 6
青年は家へ戻ると、家族に今日あった出来事を話した。
川辺で倒れたこと。
毒に当たったこと。
そして――沈家のお嬢様に命を救ってもらったこと。
「それは、きちんとお礼をしなければね」
母親がそう言い、家族全員で翌日、沈家へ礼を伝えに行くことになった。
翌朝。
家族と共に沈家へ向かう道中、青年は改めて東州を治める沈家について思いを巡らせていた。
沈家。
朔国東部最大の州――東州を治める武家の名門。
朔国の国防を担う三十万の大軍を率いる大将軍、沈皓然を当主とする家。
辺境に近い東州では、山賊による被害も決して珍しくない。
それでも、この土地の民が安心して暮らせるのは、沈家が長年この地を守ってきたからだ。
沈家の庇護のもと、辺境にある街ですら山賊の脅威に怯えることなく、商人が行き交い、店が増え、人々の暮らしは豊かになっている。
沈家が掲げる家訓は――
護国安民。
国を守り、民を安んじる。
それを、沈皓然は言葉だけにしなかった。
昨年、東州の一部が大規模な水害に見舞われた際も、自ら軍を率いて被災地へ赴き、兵たちと共に復興を手伝ったという。
その姿を見た民たちは、口々にこう語っていた。
――沈将軍がいる限り、東州は大丈夫だ。
そして、沈皓然の三人の息子たちもまた、父と同じ道を歩んでいる。
長兄の滄岳。
二兄の滄瀾。
三兄の滄海。
三人とも武芸に秀でているだけではない。
名門貴族の子息でありながら、戦場に立ち、民を守るために剣を取っている。
そして――
末娘の瑶月。
ここ数年、青年は城下で彼女を見かけることが増えていた。
名門貴族の一人娘だからだろう。
城下へ出る際、瑶月はいつも顔を隠している。
けれど、東州の民ならば、彼女が沈家の瑶月だとすぐに分かる。
顔ではない。
立ち振る舞いが、何よりもそれを物語っている。
姿勢。
言葉遣い。
瑶月は月に一度ほど城下へ出て、病や怪我に苦しむ民の診察を行っている。
診察料を払う余裕のない者からは、ほとんど金を取らない。
貧しい者にとって、それがどれほどありがたいことか。
青年自身も、瑶月の診察を受けたことのある知人を何人も知っている。
季節の変わり目に流行する病も、早いうちに診てもらえるようになってから、命を落とす者が目に見えて減った。
そのおかげもあってか、東州の城下は年々賑わいを増している。
沈家は、ただ強いだけの武家ではない。
民を愛し、国を護っている。
そんな沈家を、東州の民は誇りに思っていた。
「……そんな家のお嬢様に、俺は命を救ってもらったんだな」
青年は、昨日の瑶月の姿を思い出した。
目の前で命が消えようというのに、少しも怯えず、迷うことなく手を差し伸べてくれた少女。
あの小さな手が、自分の命を救った。
青年は改めて、沈家へ向かう足を速めた。
今日は、きちんと礼を言おう。
そして――
もう一度、あのお嬢様に会いたい。
そんなことを思いながら、青年は沈家の門を見上げた。
青年とその家族は、沈家の屋敷へ通されると、一室へ案内された。
初めて足を踏み入れた沈家の屋敷は、青年が想像していたものとは少し違っていた。
名門武家の屋敷ともなれば、さぞ豪華絢爛なのだろうと思っていた。
しかし、実際は違う。
過度な装飾はなく、調度品も華美ではない。
それでも、一つ一つが上質で、屋敷全体に品格が漂っている。
「……」
青年は部屋の奥へ視線を向けた。
壁には、一枚の字板が飾られている。
そこに書かれていたのは――
護国安民。
青年は、難しい字を多く知っているわけではない。
けれど、この四文字だけは読める。
東州の民なら、誰もが知っている言葉だからだ。
沈家が代々掲げてきた家訓。
国を守り、民を安んじる。
青年がその四文字を見つめていると、ふと視線の先に気配を感じた。
部屋の中央に置かれた屏風。
その向こうに、小さな人影が見える。
まだ幼い少女のようだった。
そして、その姿を見た瞬間。
「あ……」
青年は気づいた。
昨日、自分を救ってくれた少女。
沈家の末娘――沈瑶月様だ。
青年たちは慌ててその場に跪き、深々と頭を下げた。
「昨日は、誠にありがとうございました」
「お命を救っていただき、家族一同、心より感謝しております」
しばらくして。
屏風の向こうから、鈴のように澄んだ声が響いた。
「表を上げてください」
青年たちは顔を上げる。
「そなたを助けるのは、私の責務なのです」
穏やかな声だった。
「我が沈家は、護国安民を掲げる一族です」
瑶月の声には、迷いがない。
「そなたを助けるのは当然のこと。ですから、礼など必要ありません」
「……」
青年は思わず唾を飲み込んだ。
まだ、十三歳の少女。
それなのに。
この落ち着きは何なのだろう。
その言葉には、幼い令嬢とは思えないほどの重みがあった。
これが――
朔国東部を守る名門、沈家の令嬢なのか。
青年が圧倒されていると、瑶月が少しだけ声を和らげた。
「ですが……」
青年が顔を上げる。
「そなたが、わざわざ礼を伝えるためにここまで来てくれたことは嬉しく思います」
屏風越しでも、その表情が微笑んでいるのが分かるようだった。
「だから、一つお願いがあります」
「……はい」
「これから先、そなたの隣にいる人が困っていたら、その人を助けてあげてください」
青年は目を見開いた。
「それが、私へのお返しになるでしょう」
静かな声だった。
自分が受け取った善意を、自分だけで終わらせない。
誰かから受けた恩を、また別の誰かへ渡していく。
青年は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
――ああ。
なんて、お優しい方なのだろう。
最後の最後まで、自分のことではなく民のことを考えている。
青年の瞳が、じわりと潤んだ。
そして、強く頷く。
「お気持ちのままに!」
その声は、部屋中に響き渡った。
屏風の向こうで、瑶月が小さく笑った。
「……それで十分です」
壁に掲げられた四文字が、静かに彼らを見守っていた。
護国安民。
それは、ただ沈家の壁に飾られた家訓ではない。
この少女の中にも、確かに根付いていた。




