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幸せな日々 5

ここ最近、瑶月には一つ悩みがあった。


 長兄・滄岳が屋敷へ戻ってきた翌日から、毎朝のように鍛錬へ連れ出されているのだ。


 理由は単純だった。


「瑶月は体力がなさすぎる」


 そして、


「貧弱すぎる」


 兄にそう言われた。


 医術を学ぶことには何も言わないくせに、武芸となると容赦がない。


 走り込み。


 体術。


 木剣を使った基礎鍛錬。


 果てには、女子である瑶月には少々重すぎると思われる鍛錬まで用意されている。


 ――逃げたい。


 今日も瑶月は、重たい足取りで鍛錬場へ向かっていた。


「……行きたくない」


 小さく呟く。


 せめてもう少し、医術書を読んでいたい。


 そんなことを考えながら廊下を歩いていると――


「……瑶月」


「?」


 壁の影から、誰かがひょこっと顔を出した。


 瑶月が目を凝らす。


「らん兄様?」


 滄瀾が、こちらへ手招きしていた。


「ちょっとこっちへおいで」


 瑶月は周囲を確認してから、そっと兄の元へ近づいた。


「どうしたの?」


 滄瀾は声を潜めて尋ねる。


「サボりたいか?」


「……サボりたい」


 瑶月は即答した。


「でも、抜け出せないの」


「そうか」


 滄瀾は少し考えたあと、口元を上げた。


「なら、いい場所を教えてあげよう」


「いい場所?」


「屋敷から城外までの抜け道を知りたい?」


「えっ?」


 瑶月は目を丸くした。


「そんなのあるの?」


「ああ」


「十三年ここに住んでるのに、知らない……」


「知らなくて当然だ。普段は使わないからね」


 そう言って、滄瀾は瑶月の手を取った。


「行こう」


「え、ちょっと――」


「しーーー。滄岳に見つかるよ」


「……!」


 その名前を聞いた瞬間、瑶月は黙った。

 滄瀾は事前に準備していた帷帽を瑶月に被せた。


 二人は人目を避けながら屋敷の奥へ進んでいく。


 やがて滄瀾が古びた壁の前で足を止めた。


 そこに隠された小さな仕掛けを動かす。


 ――カチッ。


 壁の一部がゆっくりと開いた。


「……すごい」


 瑶月が目を輝かせる。


「こんなの初めて見た」


「ふふん♪」


 二人は細い通路へ入り込んだ。


 暗い道をしばらく進むと、やがて外から差し込む光が見えてくる。


 出口を抜ける。


 瑶月は思わず目を細めた。


 そこは、屋敷から少し離れた城外だった。


「本当に出られた……」


 瑶月は振り返り、屋敷を眺める。


 十三年間、この屋敷で暮らしてきた。


 それなのに、自分の知らない場所がまだあった。


「こっち」


 滄瀾に手を引かれ、二人はしばらく歩いた。


 やがて、小さな小屋が見えてきた。


 そのすぐ横には、澄んだ小川が流れている。


 木々に囲まれた静かな場所だった。


「ここは……?」


「昔、私が見つけた場所だよ」


 滄瀾は小屋の前に腰を下ろす。


「誰も知らない場所」


「じゃあ、私も秘密にする」


「助かるよ」


 瑶月も隣に腰を下ろした。


 小川のせせらぎが、静かに耳へ届く。


 滄瀾は妹を見て、ふっと笑った。


「たまにはここでサボってもいいよ」


「本当に?」


「ああ」


 瑶月の顔がぱっと明るくなる。


「らん兄様、大好き!」


「はいはい」


 滄瀾は笑いながら、瑶月の頭を軽く撫でた。




 瑶月は小川のせせらぎを聞きながら、川沿いをゆっくり歩いていた。


「綺麗なところね」


「ああ。静かでしょう」


 滄瀾が後ろからついてくる。


 その時だった。


「……?」


 瑶月が足を止めた。


 少し先。


 川岸に、一人の青年が倒れている。


「らん兄様、あれ……」


「どうした?」


「人が倒れてる」


 二人は急いで駆け寄った。


 青年は地面に横たわり、苦しそうに息をしている。


 瑶月はすぐに膝をついた。


「兄様、少し離れて」


「分かった」


 先ほどまでの幼い少女の表情が消える。


 瑶月は青年の呼吸を確認し、脈を取り、瞳孔の状態を見る。


「……毒だわ」


「毒?」


「たぶん、この川にいる魚を食べたんだと思う」


 青年の唇は青白く、手足にもわずかな痙攣が見られる。


 瑶月は周囲を見渡した。


「このままだと危ない」


「助けられる?」


「すぐに対処すれば大丈夫。でも、遅れたら命に関わる」


 瑶月は立ち上がり、川辺を見渡した。


「解毒に使える薬草が……」


 周囲を探す。


 けれど、なかなか見つからない。


「どこ……」


 焦りながら視線を動かしていると――


「あっ」


 小屋の脇。


 目立たない場所に、一株の薬草が生えている。


「これだ!」


 瑶月は駆け寄ると、薬草を摘み取った。


 手早く必要な部分を取り分け、処置を始める。


 滄瀾は何も口を挟まず、その様子を見守っていた。


 瑶月の手は迷わない。


 幼い頃から学んできた医術。


 父や兄たちのために覚えた知識。


 西洋から来た医師に教わった技術。


 それらすべてが、今この瞬間、一人の命を救うために使われている。


「……大丈夫」


 瑶月は青年の顔を覗き込む。


「もう少しよ」


 しばらくすると、青年の呼吸が徐々に落ち着いていった。


 そして――


「……う……」


 青年の瞼が動いた。


「気がついた!」


 瑶月が安堵の息を吐く。

 先程まで人を助けるために外していた帷帽を急いで被り直す。


「ここは……?」


「川の近くよ。あなた、毒魚を食べたんだと思うわ」


 青年はまだ朦朧とした様子で瑶月を見る。


「……あなたが?」


「うん」


 瑶月はにっこり笑った。


「もう大丈夫。今日は無理をしないでね」


 青年は何度も頭を下げた。


「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」


「気にしないで」


 青年は何度も礼を言いながら、ゆっくりとその場を去っていった。


 瑶月はその背中を見送る。


「よかった……」


 ほっとしたように呟いた。


 その隣では、滄瀾が静かに妹を見つめていた。


 その表情には、隠しきれない誇らしさが浮かんでいる。


「……何?」


 瑶月が振り返る。


「いや」


 滄瀾は笑った。


「私の妹はすごいな」


「えへへ」


 瑶月は照れたように笑った。


「もっと勉強して、もっとたくさんの人を助けられるようになりたいの」


「そうか」


 滄瀾は優しく頷く。


「瑶月ならできるさ」


 小川のせせらぎが、二人の間を静かに流れていた。

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