幸せな日々 4
「かい兄様が、新しい簪を買ってくれるって!」
瑶月が嬉しそうに言う。
「買うとは言ってないだろう」
滄海は淡々と返した。
「えぇ〜」
瑶月が頬を膨らませる。
それを見ていた滄瀾は、やれやれと小さく息を吐いた。
「仕方ないな」
そう言って、瑶月の頭を軽く撫でる。
「私が買ってあげるよ。瑶月、一緒に選ぼうか」
「やったーーー!」
瑶月の顔がぱっと輝く。
「甘やかしすぎだ」
滄海が呆れたように呟いた。
「いいじゃないか。久しぶりに妹と城下へ来たんだ」
三人は並んで歩き、新しくできた装飾店へ入った。
店内には、異国から取り寄せたらしい装飾品が所狭しと並んでいる。
店主は三人を見るなり、慣れた笑みを浮かべた。
「これはこれは、沈家のご令息とお嬢様ですか。ようこそお越しくださいました」
どこか東州の人間とは違う顔立ちをした店主だった。
店主は次々と人気の商品を取り出しては、瑶月へ見せていく。
「こちらは最近、都で人気の品でございます」
「まあ……綺麗」
「こちらも、若いご令嬢方に大変人気でして」
瑶月は目を輝かせながら、並べられた簪を眺めていた。
その中に、一際目を引くものがあった。
真っ白な簪。
雪のように白く、光を受けるたび淡く輝いている。
瑶月は思わず手を伸ばした。
けれど――
触れる寸前で、すっと手を引っこめた。
瑶月は何も言わない。
ただ、その白い簪をじっと見つめていた。
「こちらは、北玄国でしか採れない『白亜』という石で作られた簪でございます」
店主が説明する。
「北玄国……」
その名を聞いて、瑶月が小さく呟いた。
滄瀾は妹の代わりに、白い簪を手に取った。
「綺麗だな」
その瞬間だった。
――びゅうっ。
突然、店内へ強い風が吹き込んだ。
「きゃっ……!」
瑶月が驚いて身を縮める。
風に煽られた簪の薄布が、大きく舞い上がった。
顔を隠していた布が、完全に瑶月の顔から離れる。
ほんの一瞬。
店主と瑶月の視線が重なった。
「――――」
店主の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
だが、滄海は見逃さなかった。
次の瞬間には、瑶月の前へ身体を滑り込ませていた。
「……」
大きな背中が、瑶月の視界を覆う。
店主から妹の姿を隠すように。
「かい兄様……?」
「動くな」
低い声だった。
滄海は何も言わず、店主を見据えている。
空気が、一瞬だけ張り詰めた。
けれど――
「これをいただこう」
滄瀾の声が響いた。
彼は白い簪を手にしたまま、店主へ向き直る。
「すぐに用意してくれ」
「……かしこまりました」
店主は一礼した。
その声に先ほどまでの動揺はなかった。
滄瀾は簪を眺めながら、瑶月へ振り返る。
「瑶月、これがいいだろう?」
「え……」
瑶月は白い簪を見る。
美しい。
けれど、それ以上に――
兄が自分のために選んでくれたことが嬉しかった。
「……うん」
瑶月は小さく頷いた。
「これがいい」
滄瀾は満足そうに笑った。
その隣で、滄海だけが店主をじっと見ていた。
瑶月の顔を見た、あの一瞬。
何か――妙な違和感があった。
「……」
けれど。
滄海は小さく眉を寄せただけで、それ以上は考えなかった。
気のせいかもしれない。
今日は、久しぶりに妹と城下へ出てきたのだ。
余計なことを考える必要はない。
そう自分に言い聞かせるように、滄海は瑶月の方へ視線を戻した。
「瑶月、次はどこへ行く?」
「えっとね……」
瑶月は嬉しそうに店内を見回している。
その姿を見て、滄海はわずかに口元を緩めた。
――今日は、ただ妹と過ごす日だ。
それでいい。
「簪を買ったところで、今度は私の用事に付き合ってもらおうか」
滄瀾はそう言いながら、滄海と瑶月の背中を店の外へ押した。
「らん兄様は、なんの用事?」
瑶月が振り返る。
「実はね」
滄瀾は少し楽しそうに笑った。
「黒色の衣しか持っていない友人に、衣を贈ろうと思っているんだ」
「お友達に?」
「ああ」
そして瑶月を見る。
「瑶月、一緒に選んでくれないか?」
「もちろん!」
瑶月は嬉しそうに頷いた。
その横で、滄海が首を傾げる。
「……やつのか?」
「ああ」
滄瀾は短く答えた。
どうやら兄たちには、共通の友人がいるらしい。
瑶月は少し考えてから、真剣な顔で頷いた。
「兄様たちのご友人でしたら、しっかり選ばないと」
「そう言ってくれると思っていたよ」
滄瀾は満足そうに笑った。
「では、行こうか」
「うん!」
三人は再び城下を歩き始めた。
向かった先は、沈家が昔から贔屓にしている、貴族御用達の衣店だった。
色とりどりの絹や衣が並ぶ店内には、東州ではなかなか見られない上質な布地も揃っている。
瑶月は店先に並ぶ衣を眺めながら、まだ見ぬ兄の友人のために、どんなものが似合うのかを考え始めていた。
瑶月は一枚一枚を眺めながら、兄の友人に似合いそうなものを探していく。
「これはどう?」
そう言って手に取ったのは、深い藍色の布地だった。
落ち着いた色合いでありながら、光が当たるとわずかに青みが浮かぶ。
瑶月は布地を広げ、滄瀾へ見せた。
「兄様のお友達、黒い衣しか持っていないんでしょう?」
「ああ」
「だったら、これなら黒に近いけど、少し違って素敵だと思う」
滄瀾は布地を眺め、それから瑶月を見る。
「……いいな」
「でしょう?」
「うん。これにしよう」
滄瀾は店主を呼んだ。
「これを仕立ててくれ」
「かしこまりました」
店主は深い藍色の布地を受け取り、寸法などを確認していく。
「仕立て上がりは数日後になります」
「ああ。後日、受け取りに来よう」
「承知いたしました」
瑶月は仕立てられていく布地を眺めながら、満足そうに微笑んだ。
「きっと似合うわね」
「ああ。きっと喜ぶよ」
滄瀾も穏やかに笑った。
瑶月はまだ、その友人の顔すら知らない。
ただ兄が大切にしている友人なら、自分も大切に選んであげたい。
その日の夕刻。
三人は何事もなく屋敷へ戻った。
夕餉の時間になると、いつものように家族全員が揃う。
父・皓然。
母・江氏。
そして、滄岳、滄瀾、滄海、瑶月。
全員が揃った食卓には、城下での出来事が飛び交っていた。
瑶月も今日買ってもらった白い簪のことや、城下で見つけた菓子のことを嬉しそうに話している。
その夜。
屋敷の一角にある皓然の書斎には、三人の男の姿があった。
父・沈皓然。
そして、滄瀾と滄海。
昼間とは打って変わり、三人の表情から笑みは消えていた。
「……装飾店の件ですが」
滄瀾が口を開く。
「すでに影を一人、店へ送ってあります。しばらく様子を見させます」
「そうか」
皓然は静かに頷いた。
滄海は腕を組み、眉間に皺を寄せる。
「思い違いだったらいいが……」
昼間。
瑶月の顔を見た店主の表情。
そして、その直後に自分が感じた、わずかな違和感。
あれが単なる気のせいなら、それに越したことはない。
皓然はしばらく黙ったあと、低い声で言った。
「慎重に越したことはない」
二人の息子を見る。
「何かあっても、すぐに対処できるようにしておけ」
「はい」
滄瀾が頷く。
「承知しました」
滄海も短く答えた。
それ以上、三人は何も言わなかった。
廊下の向こうからは、家族の笑い声が聞こえている。
その声を聞きながら、皓然は静かに目を伏せた。
――何も起こらなければ、それでいい。




