幸せな日々 3
沈軍が凱旋してから、数日が経った。
朝の柔らかな日差しが、瑶月の部屋へ差し込んでいる。
瑶月は机に向かい、日課にしている医術書を読んでいた。
頁をめくりながら、昨日教わった処置について考えていると――
ひょこっ。
突然、窓から人の顔が現れた。
「……?」
瑶月が顔を上げる。
「お前にぴったりの物を作ってやった」
「そうかい兄様!?」
窓から顔を出していたのは、三兄・沈滄海だった。
沈軍の武器製作を担当する滄海は、幼い頃から手先が器用だった。
武器の改良はもちろん、細かなからくり細工まで得意としている。
そして、何かを作っては妹の瑶月へ渡すのが、いつの間にか彼の習慣になっていた。
瑶月は本を閉じる。
「今度はなに?」
嫌な予感がする。
「前回は、矢みたいに簪を飛ばせる装飾箱だったけど……」
「便利だっただろう?」
「便利だったけど……」
瑶月は微妙な顔をする。
滄海が部屋の中へ入り、得意げに何かを取り出した。
それは――
大きく、少々野暮ったい簪だった。
「……」
瑶月は黙った。
どう見ても、令嬢が身につけるには少々無骨すぎる。
滄海はそんな妹の反応など気にする様子もなく、簪を掲げた。
「これはな、飾りの部分を引っ張ると――」
くいっ。
簪の飾りを引く。
すると内部から、薄い布がするりと伸びた。
「こうやって布が出てくる」
「……!」
「これで顔を隠せるだろう」
滄海は満足げに頷いた。
「お前、帷帽が嫌いだからな」
「……」
瑶月は兄の顔を見る。
そして、もう一度その簪を見る。
兄は、どうだと言わんばかりに誇らしげな顔をしている。
――あぁ。
言えない。
絶対に言えない。
この簪、ちょっとダサくてつけたくない。
妹のために一生懸命作ってくれたことは分かっている。
だからこそ、言えなかった。
「……ありがとう、兄様」
瑶月が引きつった笑顔を浮かべた、そのとき。
「そうかい様」
部屋の隅で片付けをしていた小雪が、ふと思い出したように声をかけた。
「今、城下では令嬢方の間で簪が流行っておりますよ」
「そうなのか?」
「はい。令嬢が身につける簪は、その方の品格を表すとも言われています」
小雪はちらりと、滄海の手元にある簪を見る。
「一度、城下で流行しているものをご覧になってみてはいかがでしょう?」
「なるほど!」
滄海の目が輝いた。
そして、すぐに瑶月を見る。
「瑶月」
「なに?」
「兄様が城下に連れて行ってやろうか」
「……!」
瑶月の目が一気に輝いた。
普段、自由に城下へ出ることを許されているわけではない。
名家の一人娘。
しかも王太子の妃候補と噂される身である以上、外出の際には何かと制限が多かった。
そんな瑶月にとって、城下へ出られるという言葉は――
「行く!!」
即答だった。
滄海は満足そうに頷く。
「そうか。では準備しろ」
「うん!」
瑶月は勢いよく立ち上がった。
手元には、先ほどまで読んでいた医術書。
そして机の上には、滄海が作った少々野暮ったい簪。
瑶月は医術書を机に置き簪を手に取ると、兄に見えないよう小さく笑った。
――城下へ行けるなら、このくらい我慢しよう。
久しぶりの外出に胸を弾ませながら、瑶月は身支度を始めた。
瑶月はお気に入りの藤色の衣を身につけた。
母に編んでもらった髪を整え、髪には先ほど滄海から渡された、例の少々野暮ったい簪を飾る。
鏡を覗き込み、少しだけ首を傾げた。
「……うん」
兄が自分のために作ってくれたものだ。
それだけで、悪くない気がしてくる。
瑶月は小さく笑うと、足早に屋敷の門へ向かった。
門前には、すでに身支度を整えた滄海が待っていた。
紅色の衣に、同じ色の額当て。
腰には沈家を象徴する玉飾りが下げられ、その後ろには愛用の双剣が備えられている。
そして瑶月は、ふと双剣の柄に目を留めた。
「あ……」
そこには、小さな飾りが結びつけられていた。
以前、瑶月が兄のために作ったものだった。
「まだつけてくれてたの?」
「ああ」
滄海は何でもないことのように答える。
「気に入ってるからな」
瑶月は嬉しそうに微笑んだ。
「かい兄様、行こう!」
「おう」
滄海は瑶月の簪についている薄い布を軽く彼女の顔にかけ、二人は並んで歩き始めた。
兄贔屓というわけではない。
――いや、多少はあるかもしれない。
それでも沈家の三兄弟は、揃って美男子の部類に入るだろう。
長兄・滄岳は、三人の中でもっとも体格が良い。
鍛え上げられた身体に、少々濃いめの顔立ち。
大刀を振るう姿も相まって、武人らしい力強い美しさを持っている。
二兄・滄瀾は、都にいる王太子・蕭長淵と並ぶほどの美男子だと、もっぱらの噂だ。
穏やかな笑みを浮かべれば、城下の令嬢たちが騒ぐのも無理はない。
そして三兄・滄海。
三兄弟の中では一番目が大きく、目力も強い。
ただし――
眠そうに半目になっていることが多い。
それさえなければ、かなりの美男子なのだが。
「かい兄様、久しぶりの東州城下はどう?」
「賑やかでいいな」
「でしょう?」
瑶月は嬉しそうに周囲を見渡す。
「そういえば、前に一緒に行った茶屋、二号店が新しくできたのよ」
「ほう」
「今日、行ってみましょうよ」
「おう」
「甘いものも食べたい!」
「好きにしろ」
「やった!」
そんな他愛のない会話を交わしながら歩いていると、目的の店が見えてきた。
最近新しくできた評判の装飾店だ。
「ここよ!」
瑶月が嬉しそうに店先へ駆け寄る。
「兄様、早く!」
「ああ」
二人が店へ入ろうとした、その時だった。
「――瑶月、滄海」
後ろから、聞き慣れた声がした。
二人が同時に振り返る。
「……?」
そこに立っていたのは――
穏やかな笑みを浮かべた、もう一人の兄。
沈滄瀾だった。
東州の令嬢たちが噂する、美男子。
その姿を見つけた瑶月は、ぱっと顔を輝かせた。
「らん兄様!」
滄瀾は笑みを深めた。
「二人とも、こんなところで何をしているんだ?」




