屠城 1
いつもと同じ朝だった。
下女の小雪に起こされ、母に髪を編んでもらう。
身支度を終えた瑶月は、自室でいつものように医術書を開いていた。
今日も、昨日までと何も変わらない。
そう思っていた。
――不幸は、真夏の雷雨のように突然にやってくる。
屋敷の外から、激しい足音が響いた。
次の瞬間、ひとりの兵士が息を切らしながら屋敷へ駆け込んできた。
「皓然様!」
その声に、屋敷中の空気が変わった。
「城内に……多数の山賊が現れました!」
「なんだと!?」
皓然の声が響く。
ここ数日、山賊の動きが活発になっていた。
だからこそ沈家は、城外だけではなく城門にも兵を増やし、警戒を続けていた。
それなのに――
なぜ、山賊が城内にいる?
その疑問を抱く暇もなかった。
「父上!」
三兄弟が一斉に動き出す。
甲冑を身につけ、武器を手に取る。
さっきまでの穏やかな朝が、瞬く間に戦の朝へと変わっていった。
「滄岳、滄瀾!」
「はい!」
「我について来い。民を助ける」
「承知しました!」
皓然は最後に滄海を見る。
「滄海」
「はい」
「ここは頼んだ」
「……承知しました」
三兄弟の声が重なる。
「「「はっ!」」」
皓然、滄岳、滄瀾が屋敷を出ていく。
その背中を見送る間もなく、滄海が動いた。
「正門を閉めろ!」
屋敷の兵たちが一斉に動く。
重い門が閉じられ、閂がかけられていく。
「裏門にも兵を回せ! 誰も許可なく中へ入れるな!」
「はっ!」
滄海は江氏と瑶月の元へ駆け寄った。
「母上、瑶月。広間へ」
「かい兄様……」
「ここなら兵を集めやすい」
瑶月の手は震えていた。
自分でも止められない。
怖い。
城内に山賊がいる。
それだけは理解できた。
けれど、戦場を知らない瑶月には、それがどれほど恐ろしいことなのかさえ分からなかった。
ただ、父と兄たちが出ていった。
その事実だけが、不安を大きくしていた。
江氏はそんな娘の手を強く握った。
「大丈夫ですよ」
その声は穏やかだった。
「こちらには私兵もおります。心配はいりません」
滄海が振り返る。
「母上……」
「あなたも、皓然様と共に民の元へ行くのでしょう?」
「……」
滄海は首を横に振った。
「行けません」
「でも――」
「これは父上の命令です」
滄海は静かに言った。
「俺は、母上と瑶月を守ります」
瑶月の目に涙が浮かぶ。
まだ十三歳。
武家の娘として育てられ、医術も学んできた。
けれど――
戦を知らない。
人が殺し合うことも。
山賊がどれほど恐ろしいものなのかも。
知らない。
だからこそ、今の状況がただ怖かった。
「かい兄様……」
震える声で名前を呼ぶ。
滄海は瑶月の前にしゃがみ込んだ。
そして、いつも眠そうに細められている目を、まっすぐに妹へ向ける。
「大丈夫だ」
優しく笑う。
「何があっても、兄様が守ってやる」
「……うん」
瑶月は小さく頷いた。
滄海の背中を見つめる。
いつもなら眠そうにしている兄。
武器を作るのが好きで、少し変わったものばかり作っては自分にくれる兄。
けれど今は――
いつもよりずっと大きく見えた。
「小雪」
「……はい、お嬢様」
「大丈夫。怖くないわ」
そう言いながら瑶月は小雪の手を力強く握った。
例えその手が震えていても…
手を離さない。
「きっと大丈夫よ」
小雪は何も言わず、瑶月を見つめる。
瑶月は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
外からは、遠く兵士たちの怒号が聞こえている。
何かが倒れる音。
馬の嘶き。
そして、時折響く金属音。
瑶月はそれらを聞くたびに、胸の奥が締めつけられるような気がした。
怖い。
本当は、今にも泣き出したかった。
それでも――
自分まで怯えてしまったら、小雪はもっと怖くなる。
だから瑶月は、震える手で小雪の手を強く握った。
「大丈夫よ」
今度は、自分自身に言い聞かせるように。
「父上も、兄様たちもいるもの」
その言葉を信じて、瑶月は小雪の手を離さなかった。
その時だった。
広間の扉が勢いよく開いた。
「滄海様!」
一人の兵士が、息を切らしながら駆け込んでくる。
「裏門が……突破されました!」
「……何?」
滄海の表情が、一瞬で変わった。
それまで瑶月たちの前では平静を保っていた顔に、鋭い緊張が走る。
滄海は瑶月と江氏を一瞥した。
そして――小雪と目が合った。
何かを察したのか、小雪の顔が強張る。
「母上」
滄海は静かに立ち上がった。
「俺は裏門の様子を見てきます」
「滄海……」
「大丈夫です」
そう言いながら、滄海は踵を返した。
その手が、腰へ伸びる。
そこには、彼が愛用する双剣があった。
そして、その柄には――
瑶月が以前、兄のために作った飾りが付いている。
滄海はその飾りに触れることなく、ただ強く双剣の柄を握った。
その姿を見て、瑶月は悟った。
――かい兄様が、戦いに行く。
今までとは違う。
鍛錬に向かう兄ではない。
民を守るために、命を懸けて戦う兄の背中だった。
「……かい兄様」
気づけば、瑶月は呼び止めていた。
滄海が振り返る。
「帰ってくるの、待ってる」
声が震えた。
滄海は少しだけ目を細める。
そして、いつものように――
にかっと笑った。
「ああ」
一歩、扉へ向かう。
「待ってろ」
そう言い残し、滄海は広間を出ていった。
扉が閉まる。
瑶月はしばらく、その扉を見つめていた。
胸の奥に、嫌な予感が残っていた。
けれど、それが何なのか。
この時の瑶月には、まだ分からなかった。
沈家の門を飛び出した皓然たちは、馬を駆った。
一刻も早く城下へ。
そう思っていた。
けれど――
城下へ入った瞬間。
三人の顔から、血の気が引いた。
「……」
そこにあったのは、いつもの城下ではなかった。
無数の山賊が街を埋め尽くしている。
道には血が流れ、店先には人が倒れていた。
昨日まで賑わっていた通りが、まるで別の場所になっている。
瑶月がよく通っていた茶楼。
いつも笑顔で迎えてくれた店主。
道端で焼き菓子を売っていた屋台のおばちゃん。
顔を合わせれば「お嬢様、今日は何にしますか」と声をかけてくれた者たち。
その誰もが――
道に転がっていた。
「……なんなんだ……」
滄瀾の声が震えた。
普段なら何事にも動じない彼の顔に、明らかな動揺が浮かんでいる。
皓然は奥歯を噛み締めた。
――なぜだ。
山賊が増えていることは分かっていた。
だからこそ城外にも、城門にも兵を配置していた。
それなのに。
なぜ、これほどの数が城内にいる?
どうやって入った?
なぜ、誰も止められなかった?
疑問が次々と浮かぶ。
だが――
今は考えている暇などない。
まだ、生きている民がいる。
「滄瀾」
「はい!」
「城門へ向かえ」
皓然は街の先を睨んだ。
「右軍が城内へ入れるよう、城門を確保しろ」
「……!」
一呼吸。
皓然は長男を見る。
「滄岳」
「はい!」
「お前は我と共に来い」
皓然は刀を抜いた。
「最後まで民を守ろう」
その言葉に、滄岳は迷いなく頷いた。
「父上、承知しました!」
滄瀾が前に進む英雄らを呼び止める。
「父上! 私もここで――」
「ならん」
皓然が遮った。
「だが……!」
「城門がいかに大事か、お前なら分かるだろう」
「……」
「右軍の兵を入れられるかどうかは、お前にかかっている」
滄瀾は唇を噛んだ。
父の言っていることは分かる。
それでも、目の前で父と兄を置いていくことには抵抗があった。
「行け」
「……」
皓然は滄瀾の愛馬へ近づいた。
そして、その尻を強く叩く。
「行け!」
馬が駆け出した。
滄瀾は振り返る。
遠ざかっていく父と兄の姿を見つめながら、拳を強く握った。
「……必ず、兵を連れて戻ります」
その声は、誰にも届かなかった。
一方。
皓然は滄岳と並んで、目の前の山賊を見据えた。
ここで戦うということが何を意味するのか。
二人とも分かっていた。
これは、ただの討伐ではない。
敵の数が多すぎる。
援軍も来ていない。
このまま戦えば――
死ぬ可能性が高い。
それでも。
背後には、自分たちが守るべき民がいる。
今は考えるべきことを、後回しにするしかなかった。
なぜ山賊が突然城内へ現れたのか。
誰が城門を破ったのか。
なぜ友軍が来ないのか。
何も分からない。
それでも――
「父上」
滄岳が刀を構えた。
「沈家の長男として、期待に応えましょう!」
皓然は息子を見た。
そして、わずかに笑う。
「ああ」
次の瞬間。
滄岳は愛刀を大きく振り上げた。
「沈家の名に懸けて――!」
山賊の群れへ、駆けていく。
皓然もその後を追った。
こうして。
東州を守る沈家の戦いが始まった。
城門へ辿り着いた滄瀾が、最初に目にしたもの。
それは――
自軍の兵士たちの死体だった。
固く閉ざされた城門。
その前に、まるで山のように積み上げられている。
長年共に戦ってきた者たち。
共に酒を飲み、笑い合った者たち。
その身体が、無造作に重ねられていた。
山賊たちは、その死体の山を戦利品でも眺めるかのように、下卑た笑みを浮かべながら見ていた。
「…………」
胸の奥から、様々な感情が一気に込み上げる。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
仲間をこんな姿にした者たちへの憎悪。
今すぐ飛び出して、目の前の山賊を一人残らず斬り伏せたい。
けれど――
滄瀾は、ゆっくりと息を吐いた。
感情を、無理やり押し込める。
まるで荒れ狂う感情を、理性という重い石で押さえつけるように。
「……落ち着け」
今、自分がすべきことは復讐ではない。
城門を開けること。
右軍を城内へ入れること。
そのためには、まずこの場所を制圧しなければならない。
滄瀾は城門から少し離れた場所で馬を降りた。
そして、敵の少ない場所へ身を潜める。
腰を低くし、気配を殺す。
矛を主な武器とする滄瀾にとって、隠密行動は決して得意ではない。
けれど――
以前、滄海から教わったことがある。
足音の消し方。
敵の死角。
相手の視線。
そして、一瞬で仕留める方法。
「……」
滄瀾は一人目の背後へ回った。
一閃。
倒れる。
続いて二人目。
また一人。
また一人。
思った以上に、うまくいっている。
だが――
その時。
背負っていた矛が、城壁に当たった。
――カンッ。
乾いた音が響く。
「……!」
近くにいた山賊が振り返った。
「誰だ!」
気づかれた。
滄瀾は一瞬だけ目を閉じる。
そして――
「……ふっ」
小さく笑った。
「滄海のようには、上手くできないね」
背中から矛を外す。
両手で、しっかりと握る。
やはり。
自分には、こちらのほうが合っている。
「私は――」
滄瀾は矛先を山賊へ向けた。
「こっちのが性に合います」
「殺せぇ!」
叫び声と共に、山賊たちが一斉に押し寄せてくる。
数は――五十を超えている。
滄瀾は、一人だった。
それでも。
退かなかった。
矛を構える。
一歩、踏み込む。
そして――
五十余りの山賊を相手に、ただ一人。
矛を振るった。
その頃。
沈家の屋敷もまた、山賊に囲まれていた。
「――っ!」
滄海は物陰から飛び出してきた山賊の背後へ回り、短く息を吐く。
一閃。
山賊が崩れ落ちた。
しかし、止まらない。
門を破ろうとする者。
塀を越えて侵入してくる者。
次から次へと、山賊が屋敷へ流れ込んでくる。
「……多すぎる」
滄海は双剣を握り直した。
長年、辺境の山賊討伐に携わってきた。
だからこそ、分かる。
――何かがおかしい。
山賊の中に、明らかに武術を学んだ者が混ざっている。
足運び。
構え。
攻撃の間合い。
どれも、ただの山賊の動きではない。
滄海は眉をひそめた。
山賊とは、いわば賊だ。
武術を専門に学んだ者など、そう多くいるものではない。
「……妙だな」
けれど、考えている暇はない。
また一人。
また一人。
侵入してくる山賊を斬り伏せる。
山賊の数が、ようやく底を見せ始めた頃。
「きゃあああっ!」
大広間の方から、悲鳴が聞こえた。
「!」
滄海は即座に駆け出した。
廊下を抜け、大広間へ飛び込む。
そこで目にしたものに――
滄海は一瞬、目を見開いた。
床に、一人の山賊が倒れている。
その傍らに立っていたのは――
「……小雪?」
瑶月付きの下女だった。
普段は瑶月の身の回りの世話をしている。
髪を整え、衣を用意し、瑶月の傍にいる。
そんな小雪が。
今、山賊を斬り伏せた。
滄海はすぐに察した。
――そういうことか。
沈家では、いざという時に備え、屋敷の使用人にも最低限の武術を身につけさせている。
小雪も、その一人だった。
もっとも。
その事実を知らない者が、沈家に一人だけいる。
――瑶月だ。
「……」
当の瑶月は、何が起きたのか理解できないという顔で小雪を見つめていた。
「小雪……?」
「お嬢様、お怪我はありませんか?」
「え、あ……うん」
瑶月は呆然としている。
滄海は思わず苦笑した。
まあ、そうなるだろう。
ずっと自分の身の回りの世話をしていた小雪が、実は武術に長けた手練れだったなど、瑶月が知るはずもない。
滄海は二人の元へ歩み寄った。
「大丈夫か?」
「うん。私は大丈夫」
瑶月が答える。
そして、兄の姿を見上げた。
「かい兄様こそ……」
瑶月の視線が、滄海の衣へ向く。
「血がいっぱい……」
「これか?」
滄海は自分の衣を見下ろした。
「返り血だ」
「……そう」
瑶月はそれ以上何も言えなかった。
その時。
「滄海様!」
兵士が駆け込んできた。
「屋敷内に侵入した山賊は、あらかた片付きました!」
「そうか」
滄海は頷く。
しかし――
その胸に残る違和感は、消えなかった。
山賊の数。
侵入の手際。
そして、あまりにも武術に長けた者たち。
ただの山賊ではない。
そう思えてならなかった。
滄海は周囲を見渡した。
屋敷を守る私兵たちにも、まだ余力がある。
「半数を父上たちの応援へ回せ」
「しかし、こちらの守りは……」
「残った者で十分だ」
滄海は即答した。
「一人でも多く、民を守るために使え」
「はっ!」
兵たちは急いで屋敷を出ていった。
滄海はその背中を見送る。
自分も行きたかった。
父の隣で戦いたかった。
兄たちと肩を並べたかった。
けれど――
父から託された役目は、この屋敷を守ること。
そして、母と瑶月を守ること。
それを放り出すわけにはいかない。
滄海は大広間へ戻った。
瑶月は、まだ不安そうに外を見つめている。
その姿を見て、滄海は双剣の柄を握った。
どうか。
どうか、無事でいてくれ。
自分が行けない代わりに。
父上を。
滄岳を。
滄瀾を。
どうか、無事に連れて帰ってきてほしい。
それは願いというより――
祈りに近かった。
滄海は誰にも聞こえないほど小さな声で、ただ一度だけ呟いた。
「……頼む」
それは紛れもない祈りだった。




