酔仙楼 3
承琰は、久しぶりに再会した劉晟との酒が進み、いつの間にかすっかり酔っていた。
「晟ぃ〜、景都にいる間はさぁ……」
千鳥足になりながら、何やら楽しそうに話している。
劉晟はそんな承琰を見て、小さく息を吐いた。
「もう飲むな」
「まだ飲めるよ〜」
「十分だ」
劉晟は配下の者を呼び、承琰を屋敷まで送るよう命じた。
「じゃあね〜、月ちゃん」
承琰は最後まで上機嫌だった。
その姿を見送り、劉晟は瑶月と並んで酔仙楼を出ようとする。
その時だった。
「おやおや〜」
一階の客席から、声が飛んできた。
「これはこれは……あの穢らわしい王子じゃないですか」
振り返る。
そこにいたのは、身なりの良い貴族令息だった。
高価そうな衣を纏い、口元には薄い笑みを浮かべている。
その声を聞きつけた周囲の客たちも、何事かとこちらへ視線を向け始めた。
劉晟は男を一瞥した。
そして、瑶月を庇うように一歩前へ出る。
「……何か用か」
「いやいや、久しぶりに見たものでね」
男は笑いながら、劉晟を眺める。
「穢れている人間が屠城なんて――」
一呼吸。
「本当に、お似合いだよな」
周囲から、くすくすと笑う声が漏れた。
男は、それを楽しむように続ける。
「景国の恥さらし」
「人を殺すことしか能がない」
「よくまあ、何食わぬ顔で景都を歩けるものだ」
劉晟は何も言わなかった。
ただ、瑶月を背に庇ったまま、その男を静かに見つめている。
瑶月もまた、黙っていた。
これまでも、劉晟がこうした言葉を浴びせられるところを何度か見てきた。
だから、今も耐えられると思っていた。
けれど――
「まったく、お前には心がないんだよ」
その言葉が落ちた瞬間。
瑶月は劉晟の背中から、一歩前へ出た。
そして――
パチン――!
乾いた音が、酔仙楼の一階に響き渡った。
「……」
周囲が一瞬で静まり返る。
頬を打たれた男は、呆然と瑶月を見つめた。
瑶月は何も言わない。
ただ、真っ直ぐに男を見据えている。
その瞳に、迷いはなかった。
「……な、何を――」
男がようやく声を上げる。
けれど。
パチン――!
二度目の平手が、その頬を打った。
先ほどよりも強く。
男の顔が横へ弾かれる。
再び、静寂が落ちた。
瑶月はゆっくりと手を下ろす。
それでも何も言わない。
ただ、冷静な瞳で男を見つめ続けていた。
その背後で、劉晟は驚きを隠せないでいた。
「お前! 俺が誰だか分かっているのか!!」
男の怒鳴り声が店の中に響く。
劉晟が咄嗟に瑶月の前へ出て再び、彼女を自分の背後へ隠すように。
けれど――
瑶月は、その横から一歩前へ出た。
「知りません」
「……は?」
男が目を見開く。
瑶月は怯むことなく、男を見据えていた。
「自国の辺境を守護している皇族に、そのような暴言を吐く方を――」
一呼吸。
「景国の尊厳を落としているような人間を、誰が気にしましょう」
「貴様……!」
男の顔が怒りに歪んだ。
そして、瑶月へ向かって手を振り上げる。
その瞬間。
瑶月は、さらに一歩前へ踏み込んだ。
逃げるどころか、男との距離を自ら詰める。
「私、沈瑶月は――」
静かな声だった。
「この度、皇帝陛下のご命により、景都へ参りました」
男の手が止まる。
「もし、今ここで私が傷つけば――」
瑶月は男を真っ直ぐに見つめる。
「皇帝陛下にお会いすることが、難しくなるやもしれません」
一呼吸。
「その際、その責任はお取りになりますか?」
「……」
男の手が、ゆっくりと下がった。
瑶月は一歩も引かない。
男はしばらく瑶月を睨みつけていたが――
「……ふん」
最後には鼻を鳴らし、太々しい態度のまま踵を返した。
そのまま酔仙楼を出ていく。
男の姿が見えなくなってからも、店内にはしばらく沈黙が残っていた。
劉晟は、隣に立つ瑶月を見下ろす。
瑶月は何事もなかったかのように、静かに立っていた。
先ほどまで男に向けていた鋭い眼差しも、いつの間にか穏やかなものへ戻っている。
劉晟は小さく息を吐いた。
――なんていう女だ。
先ほどの瑶月の言葉を思い返す。
男の身分を知らないと堂々と言い切った。
景国の皇族を侮辱することが、景国そのものの面目を潰す行為だと指摘した。
そして最後には――
自分が皇帝の勅命を受けて景都へ来ていることを利用した。
もし自分が傷つけば、皇帝との面会が叶わなくなるかもしれない。
その責任を取れるのか、と。
相手が恐れているものを瞬時に見抜き、自分の立場を利用して逃げ道を塞いだ。
感情に任せて平手を打っただけではない。
その後の言葉には、冷静な判断があった。
――聡明な女だ。
自分の持つものを、ただ誇示するのではない。
必要な時に。
必要なだけ。
自分の立場を武器として使える。
それが、瑶月という女なのだ。
劉晟は、そんな彼女をしばらく黙って見つめていた。
そして――
ほんの僅かに、口元を緩めた。
自分が守らなければならないと思っていた少女は、いつの間にか横に並ぶ女性になっていた。




