春風入庭 1
屋敷の庭に花海棠の蕾が膨らみが、春の訪れを告げていた。
劉晟は部屋の窓からそれを眺め、ぽつりと呟いた。
「……そろそろか」
東州に、春が訪れたのだ。
景都から届いた勅命のことは、すでに瑶月にも伝えてある。
突然の知らせに驚いた様子は見せたものの、皇帝からの勅命となれば、自分たちに選択肢がないことも理解していた。
春になれば、景都へ向かわなければならない。
瑶月は少しでも、この東州の景色を目に焼きつけておきたかった。
彼女は名残惜しそうに、春に包まれた城下を歩いていた。
冬の間、雪に閉ざされていた通りにも、少しずつ人の姿が戻っている。雪解け水が石畳の隙間を細く流れ、靴底の下で小さく水音を立てていた。
店先からは威勢のいい声が聞こえる。
焼きたての餅から立ち上る香ばしい匂い。
道に咲く花の香り。
風に乗って届く、川の冷たい水の匂い。
それらを瑶月は堪能していた。
そんな中。
瑶月は、軒先に並ぶ人々の姿に気づいた。
子供も。
大人も。
皆、色とりどりの紙や布を広げ、細い竹ひごを組み合わせて何かを作っている。
紙を折る音。
糊を伸ばす音。
子供たちの弾んだ声。
時折、竹ひごが折れて「あっ」と上がる声に、周囲から笑い声が重なった。
「……何かしら?」
近づいてみると、それは灯籠だった。
赤、青、黄色、白。
薄い紙を通した陽の光が、柔らかな色となって指先を染めている。灯籠の中には小さな蝋燭を置くための台が作られており、風が吹くたび、紙の表面がかすかに震えた。
瑶月は不思議そうに首を傾げる。
祭りでもあるのだろうか。
けれど――
以前の東州には、この時期に行われる祭りはなかったはずだ。
瑶月は灯籠を作っていた子供へ声をかけた。
「お祭りでもあるのですか?」
子供が顔を上げる。
頬には糊がつき、手には色紙の切れ端が握られていた。
「はい! 三日後に灯籠流しをするお祭りがあります!」
「灯籠流し……?」
「みんなで灯籠を川に流すんです!」
子供は嬉しそうに灯籠を掲げた。
まだ少し歪んでいる。
けれど、その中には、作った者の願いが詰まっているように見えた。
瑶月は灯籠へそっと手を伸ばす。
紙の表面は、陽に温められてほんのりとぬくもっていた。
その温かさが、指先から胸の奥へ静かに広がっていく。
瑶月は、その灯籠を眺めながら小さく笑った。
四年。
たった四年という歳月が――
自分の知らない祭りまで、この街に生み出したのだ。
かつての東州を知っている自分には、少し不思議な感覚だった。
失われたものばかりではない。
東州は、東州の人々の手で新しい時間を積み重ねている。
その事実に気づいた瞬間、瑶月の胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
「……そうなのね」
瑶月は子供へ微笑み、再び歩き出した。
背後では、灯籠を作る人々の声が続いている。
紙の擦れる音。
竹を組む音。
笑い声。
そのすべてを、瑶月は一つも忘れまいと、心の中にそっと刻みつけた。
三日後。
東州では、灯籠流しが行われる。
城下から戻った瑶月は、そのまま劉晟の部屋へ向かった。
足取りはいつもと変わらない。
けれど――
ほんの少しだけ、いつもより速いような気がした。
小雪はその後ろ姿を見ながら、静かについていく。
部屋へ入ると、瑶月は劉晟の前で足を止めた。
「劉晟」
「ああ」
いつものように顔を上げる劉晟。
瑶月は少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「……お願いがあるんだけれども」
小雪は、思わず目を瞬いた。
――お願い?
あの日以来。
お嬢様は、誰にも助けを求めなかった。
どれほど苦しくても。
どれほど辛くても。
いつも自分で抱え込み、誰かに頼ろうとはしなかった。
そんなお嬢様が――
今、劉晟さまに「お願い」をしている。
嬉しいような。
少し複雑なような。
小雪は目の前にいる二人を、黙って見つめた。
運命とは、なんと皮肉なものなのだろう。
お嬢様は――
劉晟さまを憎むことで、生きる力を取り戻した。
そして今は。
劉晟さまと出会ったことで、少しずつ前を向いている。
その相手が、よりによって自分が最も憎んでいたはずの人だというのだから。
小雪がそんなことを考えている間にも、瑶月は劉晟を見つめていた。
「三日後のお祭りに……参加したいの」
劉晟が、わずかに目を細める。
「灯籠流しのことか?」
「ええ」
瑶月は小さく頷いた。
「今日、城下で見かけたの。私、知らなかったわ」
その声には、珍しく子供のような素直な響きがあった。
「……お祭りに行きたいの」
それは、とても小さなお願いだった。
けれど小雪には――
それが何より大きなことのように思えた。




