渡せぬ簪
瑶月は朱雀と共に医館へ向かうため、部屋を後にした。
部屋には劉晟と長淵だけが残された。
静かな時間が流れる。
互いの茶杯が卓に触れる僅かな音だけが響いていた。
やがて、長淵が重い口を開く。
「停戦条件の、最後の条件ですが……」
劉晟は目だけを長淵へ向けた。
――最後の条件。
沈瑶月のことか。
長淵は続けた。
「今回の騒動もあり、今、彼女を朔国へ連れ戻せば……彼女の立場が危うくなるでしょう」
一呼吸置く。
「景国の民を命懸けで救った、裏切りの軍医」
その言葉に、劉晟の視線がわずかに揺れた。
だが、何も言わず、茶杯へ目を戻す。
「なので、無理には連れ戻しません」
「……そうか」
劉晟の返事は短かった。
長淵はさらに続ける。
「ただ――」
静かに、けれど迷いなく。
「彼女が朔国へ戻りたいと言った場合は、連れ戻します」
長淵は劉晟をまっすぐ見つめた。
「その時は――命懸けで守ります」
劉晟は何も答えなかった。
ただ静かに、その言葉を聞き届けていた。
医館から戻った瑶月は、屋敷の廊下を歩いていると、前方から長淵が歩いてくる。
「長淵さま」
瑶月は足を止め、軽く頭を下げた。
長淵も足を止める。
しばらく瑶月を見つめた後、静かに尋ねた。
「瑶月」
一呼吸。
「朔国へ、戻りたいか?」
瑶月は黙って長淵を見つめた。
分かっている。
朔国へ戻った後、自分に待っているもの。
生涯罪人として生きることになるかもしれない未来。
けれど――
今は、それ以上に戻れない理由があった。
東州で起きた、あの日の惨劇。
なぜ家族は殺されたのか。
なぜ東州は襲われたのか。
誰が、何のためにあの惨劇を起こしたのか。
ここで朔国へ戻れば、その真相を追うことができなくなる。
静かな廊下に、時間だけが流れていく。
やがて瑶月は、ゆっくりと口を開いた。
「……今は、まだ戻れません」
長淵は、その答えを静かに受け止めた。
「そうか」
ほんの少しだけ目を伏せる。
「分かった」
それだけ言うと、長淵は瑶月に背を向けた。
何も言わず、歩き去っていく。
その背中を、瑶月は静かに見つめていた。
去っていく彼の懐には――
金継ぎが施された白玉の簪が、静かに収められていた。
数日後。
長淵は、朔国へ戻るため東州を旅立つことになった。
城門の前。
瑶月と劉晟が、その姿を見送っている。
「長淵さま、お気をつけて」
瑶月が静かに頭を下げる。
「ああ」
長淵は短く答え、馬車へ乗り込んだ。
馬車がゆっくりと動き出す。
窓から外を見れば、瑶月と劉晟の姿が次第に遠ざかっていく。
やがて二人の姿が見えなくなると、長淵は視線を前へ戻した。
東州の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
そして――
馬車の中にいる馬浪へ目を向けた。
「……東州を襲った左利きの兵士は、お前か?」
静かな問いだった。
馬浪は何も答えない。
ただ、いつものように薄い笑みを浮かべている。
その沈黙だけで、十分だった。
長淵の瞳が鋭くなる。
窓の外へ視線を戻す。
遠ざかっていく東州。
そこには、瑶月が残っている。
そして――
自分がこれから帰る場所には、父がいる。
長淵は唇を固く結んだ。
「……父上」
誰にも聞こえないほど小さな声が、馬車の中へ落ちた。




