雨禍 2
長淵も医館の中へ入る。
そして、瑶月の手伝いを始めた。
患者の身体を支え、薬を運び、次々と運ばれてくる病人を寝台へ案内する。
慣れない作業だった。
それでも、長淵は黙々と手を動かした。
長淵が唾を飲み込む。
「……西の風土病に似ているな」
「え……?」
瑶月が顔を上げた。
その言葉を聞いた瞬間、何かに気づいたように患者たちへ視線を走らせる。
咳。
発熱。
身体のだるさ。
そして、次々と同じ症状を訴える患者たち。
瑶月は一人、また一人と症状を確認していく。
やがて顔を上げた。
「長淵さま!」
その瞳に、確信が宿っていた。
「それです。これ……西の風土病だわ」
「……」
長淵は瑶月の直視に耐えれず、目を伏せた。
「なぜ、西の風土病が……」
瑶月は考え込んだ。
東州で、なぜ西の風土病が発生したのか。
その理由が分からなければ、感染を止めることはできない。
けれど。
「まず、薬を用意しないか」
長淵が静かに言った。
瑶月は顔を上げる。
「……そうね」
今は原因を追うよりも、目の前の命を救うことが先だった。
その頃。
劉晟は、瑶月から渡された薬の一覧を手に、東州の薬屋を回っていた。
必要な薬材を一つでも多く集めるために。
だが――
どの薬屋を訪ねても、必要な薬材は十分に揃っていなかった。
東州では、西の風土病に使う薬材などほとんど備えていない。
劉晟は最後の薬屋を出ると、手の中の一覧へ目を落とした。
「……足りない」
必要な薬材は、まだ大量に残っていた。
気づけば、東州の城下は激しい吹雪の中にあった。
劉晟は雪の向こうに目を向けた。
薬材を手に入れるには――
平陽へ戻るしかなかった。
その夜。
劉晟は、瑶月と向かい合っていた。
「東州だけでは、必要な薬材が揃わない」
劉晟は静かに告げた。
「民を救うには、平陽まで取りに戻る必要がある」
瑶月は黙って窓の外へ目を向けた。
激しい吹雪が、夜の東州を白く覆っている。
「この吹雪の中、平陽まで戻るなんて……無茶だわ」
「だが、この方法しかない」
劉晟の声に迷いはなかった。
「やっと立ち直った街なんだ」
一呼吸置く。
「ここで躓いてはいけない」
その顔には、すでに覚悟が決まっていた。
「けれど……」
瑶月が不安げに見上げる。
その言葉を遮るように、劉晟が続けた。
「必ず薬材を持って帰る」
瑶月は、ただ劉晟を見つめた。
「それまで――」
劉晟は静かに言う。
「東州は頼んだぞ」
「……分かったわ」
瑶月が小さく頷いた。
その時。
「朱雀、玄武」
劉晟が部屋の外へ声をかける。
「はっ」
二人が部屋へ入ってきた。
劉晟は二人を見つめる。
「本日付で、お前たちは沈瑶月につけ」
朱雀と玄武が顔を上げる。
「お前たちの主人は――瑶月だ」
「はっ!」
二人が揃って頭を下げた。
劉晟は瑶月へ視線を戻す。
ほんの僅かに、口元を緩めた。
「朱雀玄武はそなたに返す」
「必ず戻る」
その言葉だけを残した。
窓の外では、吹雪が激しく舞い続けていた。
未明。
劉晟は、青龍と白虎、そして数人の配下だけを連れ、吹雪の中へ馬を走らせた。
瑶月は屋敷の窓から、その背中を見つめていた。
薄明かりの中へ、一行の姿が少しずつ消えていく。
見えなくなっても、瑶月はしばらく窓辺を離れなかった。
瑶月には分かっていた。
劉晟は、きっと戻ってくる。
けれど――
決して容易な道のりではない。
東州から平陽までは百里。
普段なら、戦馬を飛ばせば半日ほどで辿り着ける距離だ。
だが、今は真冬。
しかも、これほどの吹雪だ。
進むだけでも時間がかかる。
道を失うかもしれない。
雪に足を取られれば、命を落とす可能性さえある。
それでも。
瑶月は静かに呟いた。
「……きっと、戻ってくる」
そう信じて、窓を閉めた。
瑶月もまた、立ち止まってはいられなかった。
風土病に対する薬の処方を見直す。
少ない薬材でも、同じ効果を得られないか。
薬の量を減らすことができれば、劉晟が戻ってくるまでの時間を稼げる。
患者の世話をしながら、瑶月は古い医術書や記録を読み漁った。
長淵もまた、その作業を手伝った。
二人で書簡を読み、薬の処方を確認し、使える薬材を一つずつ探していく。
昼も。
夜も。
休む時間さえ惜しんで。
そして――
夜が更けた。
燭台の淡い明かりだけが、静かな部屋を照らしている。
机の上には、何冊もの医術書と書きかけの書簡が広がっていた。
瑶月はいつしか、机に伏したまま眠っていた。
長淵は、そんな瑶月をしばらく見つめていた。
よほど疲れているのだろう。
起こす気にはなれなかった。
その時。
ぽたり。
燭台から、溶けた蝋が落ちた。
長淵は咄嗟に手を伸ばす。
熱い蝋が、瑶月の手元へ落ちる寸前。
長淵の手の甲に落ちた。
「……っ」
熱が皮膚を焼く。
それでも、長淵は声を上げなかった。
眠ったままの瑶月を起こさぬよう、そっと手を引く。
赤くなった手の甲を見つめた。
そして――
眠る瑶月へ視線を戻した。
長淵は何も言わなかった。
ただ、その夜も瑶月が目を覚ますまで、静かにその場にいた。
数日後。
瑶月は、ついに薬の処方を改良することに成功した。
「……できた」
手にした処方箋を見つめ、瑶月は小さく息を吐いた。
少ない薬材でも、これまでと同等の効果を得られる。
そのことが、何より嬉しかった。
けれど、その顔には数日間の疲れがはっきりと残っていた。
隣にいた長淵は、そんな瑶月を見つめる。
痩せた頬。
疲れの滲んだ瞳。
それでも、患者を前にすれば立ち上がる。
その姿を見るたび、長淵の胸は痛んだ。
瑶月は完成した薬を、すぐに民へ配り始めた。
少しずつ。
一人ずつ。
薬を受け取った患者たちの中には、症状が軽くなる者も現れ始めた。
けれど――
それでも、薬は足りない。
どれだけ処方を改良しても、限界がある。
東州に残された薬材だけでは、すべての民を救うには到底足りなかった。
劉晟が平陽へ向かってから、すでに数日が経っている。
まだ戻らない。
窓の外では、雪が降り続いていた。
瑶月は何度も外へ目を向ける。
戻ってくる。
そう信じている。
けれど――
日が過ぎるほど、その胸には少しずつ不安が募っていった。
――劉晟。
どうか、無事でいて。




