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雨禍 1

それから数日が経った頃。


 劉晟と長淵は、停戦条件の詳細を詰めていた。


 その時だった。


「滄燼さま!」


 扉が勢いよく開いた。


 青龍が息を切らしながら入ってくる。


 その顔は、真っ青だった。


「どうした?」


 劉晟が問う。


 青龍はすぐに劉晟のもとへ駆け寄り、耳元で何事かを告げた。


 その瞬間。


 劉晟の表情が変わった。


 鋭く細められた瞳。


 先ほどまでの穏やかな空気が、一瞬にして消える。


「……案内しろ」


 短く言い残し、劉晟は立ち上がった。


 ただ事ではない。


 そう感じた長淵も、すぐに後を追う。


 二人が案内されたのは、東州の医館だった。


 中へ入った瞬間――


「……!」


 長淵の足が止まる。


 医館は、病人で溢れ返っていた。


 床にも。


 椅子にも。


 待合の隅にも。


 人が横たわっている。


 そのほとんどが、激しく咳き込んでいた。


「ごほっ……ごほっ……」


 苦しそうな咳が、あちこちから聞こえてくる。


 医師たちは休む間もなく患者を診ている。


 それでも、到底追いついていない。


「これは……」


 長淵が呟いた。


 その時だった。


「劉晟!」


 医館の入口から、瑶月が駆け込んできた。


 知らせを聞いて、急いで来たのだろう。


 瑶月は二人のもとへ駆け寄ると、持っていた手拭を差し出した。


「これで鼻と口を覆って!」


 劉晟と長淵が手拭を受け取る。


 瑶月は医館の中を見渡した。


 患者たち。


 苦しそうな咳。


 次々と運び込まれる病人。


 その顔から、血の気が引いていく。


「……これは」


 瑶月が小さく呟いた。


 そして、確信したように顔を上げる。


「流行病だわ」


「発生源や、きっかけを調べないと」


 瑶月は病人の様子を確認しながら、険しい表情を浮かべていた。


「どの種類の流行病なのか、まだ特定できないわ」


 その瞳が、わずかに震えている。


 それでも、立ち止まっている暇はなかった。


 話している間にも、新たな病人が次々と医館へ運び込まれてくる。


「こちらへ!」


「早く寝かせて!」


 瑶月は手拭で鼻と口を覆いながら、一人ずつ症状を確認していく。


 劉晟は医館の中を見渡した。


 このままでは、収容しきれない。


「青龍、白虎」


「はい!」


「医館に入りきらない病人は、屋敷の一部を開放して収容する」


「承知しました!」


 二人がすぐに動き出す。


 医館の外へ出ていく彼らを見送りながら、劉晟は次々と指示を出していった。


 その一方で。


 長淵は、ただその場に立ち尽くしていた。


 目の前には、苦しむ民。


 その中で必死に治療を続ける瑶月。


 そして、次々と指示を出し、民を救おうと動く劉晟。


 長淵の胸に、ひとつの疑念が浮かんだ。


 ――これが。


 父上の言っていた「大雨」なのか?


 東州へ来る前に届いた、父からの密信。


 ――東州、将に大雨至らんとす。


 ――帰還の時宜、汝に委ねる。


 あの言葉が、頭から離れない。


 もし、この疫病が父の言っていた「大雨」なのだとしたら。


 父上は、これを知っていたのか。


 いや。


 まさか――。


 長淵は視線を落とした。


 病人の苦しむ声が聞こえる。


 瑶月が懸命に手を動かしている。


 劉晟が民を守ろうとしている。


 なのに。


 自分は――


「……俺は」


 拳を握り締める。


 自分はいったい、何なんだ。


 父の命令を守る王太子なのか。


 それとも。


 この民を救うために、ここにいる一人の人間なのか。


 答えは出なかった。


 長淵はただ、固く拳を握ったまま、そこに立ち尽くしていた。



医館は、混乱を極めていた。


 次々と運び込まれてくる病人。


 苦しそうな咳。


 泣き叫ぶ子供。


 不安に震える家族。


 瑶月は休む間もなく、一人ひとりの症状を確認していた。


「この方には解熱の薬を」


「はい!」


「こちらは水分を多めに。食事は無理に取らせないで」


 小雪がすぐに指示を受け、薬や水を運んでいく。


 瑶月自身も手拭で鼻と口を覆いながら、患者の脈を取り、呼吸を確認していた。


 まだ、病の正体は分からない。


 だからこそ、今できることをするしかなかった。


「朱雀、玄武!」


 瑶月が二人を呼び止める。


「最初の感染者を探して。発生した場所も、何を食べたのかも、分かる限り調べて」


「分かりました!」


 二人はすぐに医館を飛び出していった。


 その時、劉晟が医館の中へ入ってきた。


「瑶月」


 呼びかけられ、瑶月が振り返る。


「お前は屋敷へ戻っていろ」


「私は医者よ」


 瑶月は手を止めずに答えた。


「ここを離れるわけにはいかないわ」


「危険すぎる」


 劉晟の声には、抑えきれない心配が滲んでいた。


 瑶月は一瞬だけ彼を見つめる。


「東州の民を、今度こそ守り切る」


 その言葉に、劉晟は何も言えなくなった。


 やがて劉晟は静かに頷く。


「ああ」


 そして、瑶月の隣に立った。


「共に守ろう」


 瑶月は小さく頷き、再び患者へ向き直った。


 その頃。


 医館の外では、長淵が馬浪と向き合っていた。


 長淵は込み上げる怒りを、必死に押し殺している。


「……父上の言っていた『雨』は」


 長淵は医館の中へ目を向けた。


「このことか?」


 馬浪は、しばし長淵を見つめた。


 そして薄く笑う。


「さようです」


 長淵の瞳が揺れた。


 やはり――。


 あの密信に書かれていた「大雨」とは、この疫病のことだった。


「……どうやって流行らせた?」


 長淵は怒りを押し殺したまま尋ねる。


 馬浪は少し考えるように黙った。


 やがて、淡々と答えた。


「東州へ運ぶ賠償金の中に、流行病を患って死んだ者の遺体を紛れ込ませておりました」


「……!」


「その遺体を、酒楼へ置かせたのです」


 長淵の瞳に、怒りが宿る。


「酒楼に……?」


「人の出入りが多く、食事や酒を介して広まりやすい場所ですから」


 馬浪は、まるで何でもないことのように続けた。


「そこで働く者や客たちが感染し、城下へ戻っていった。あとは、時が経てば自然に広がります」


 長淵の拳が、固く握られた。


 目の前にいる男は――


 民の命を、命だと思っていない。


 ただの駒としか見ていないのだ。


「……なんの病だ?」


 長淵は怒りを無理やり抑え、低い声で尋ねた。


 馬浪は少し考えた後、答えた。


「西の風土病です」


「……」


「たとえ病が判明したとしても――」


 馬浪の口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「ここ東州では、治療に必要な薬材は足りないでしょう」


 長淵は馬浪を一瞥し、医館へ戻ろうとした。


「殿下」


 背後から、馬浪の声がした。


 長淵の足が止まる。


「よろしいのですね?」


「何がだ」


「都へ戻らなくても」


 しばしの沈黙。


 長淵は振り返らなかった。


「ああ」


 静かに答える。


「戻らない」


 その言葉を残し、長淵は医館へ戻っていった。


 扉を開ける。


 そこには、懸命に患者を救おうとする瑶月がいた。


 その隣には、彼女を支える劉晟がいる。


 長淵は二人の姿を見つめた。


 自分も――


 ここで、この民を守る。


 そう決めた。


 その頃。


 東州に降り続いていた雪は、次第に勢いを増していた。


 やがて雪は、激しい吹雪へと変わっていった。


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