雪の降り始め 1
夜が更けた頃。
沈家の一角にある長淵の部屋を、静かな風が通り抜けていた。
長淵は卓に向かっていた。
その時、馬浪が小さな書簡を差し出した。
「殿下」
長淵は受け取る。
都にいる父からの密信だった。
馬浪は長年、朔国王に仕えてきた側近である。
今回、長淵と共に東州へ入ったのも、おそらく――
自分一人では頼りないと、父が判断したのだろう。
長淵は書簡を開いた。
そこに記されていたのは、わずかな言葉だけだった。
――東州、将に大雨至らんとす。
――帰還の時宜、汝に委ねる。
「…………」
長淵の目が、静かに細くなる。
紙を握り潰す。
そして、そのまま卓の上に置かれていた蝋燭へ近づけた。
紙の端に火が移る。
炎がゆっくりと書簡を飲み込んでいく。
やがて、文字も。
紙も。
すべてが灰になった。
長淵は燃え尽きた書簡を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……父上」
しばしの沈黙。
「そなたは、またここを……」
その先を、長淵は口にしなかった。
長淵はふと、卓上に置かれていた小箱へ目を向けた。
それは、東州へ来てからずっと持ち歩いていたものだった。
蓋を開けることもなく、ただそこに置かれている。
小箱の中に何が入っているのか。
長淵は知っていた。
だからこそ、触れることができなかった。
瑶月へ返すもの。
けれど今の瑶月にはもう必要がないのかもしれない。
何より、自分には彼女へこれを返す資格があるのだろうか。
長淵は小箱を見つめたまま、ゆっくりと拳を握った。
背後に控えていた馬浪が、わずかに目を細める。
その口元には――
薄い笑みが浮かんでいた。
窓の外、雪がしんしんと降り続いている。
翌朝。
景国へ支払う賠償金を積んだ荷車が、次々と東州の城下へ入ってきた。
その様子を、いつもの茶楼から瑶月が眺めている。
「荷車、多いわね」
瑶月がぽつりと呟く。
隣にいた小雪が答えた。
「かなりの額を支払うようです」
「東州は、さらに潤いますね〜」
朱雀が嬉しそうに言う。
すると玄武が淡々と水を差した。
「一部は景国の国庫に入りますよ」
「そうね」
瑶月は荷車を眺めながら頷いた。
「おそらく、半分以上は国庫入りでしょうね」
それでも、と瑶月は続ける。
「多少は東州へ入るでしょうし……勝ち戦をした黒曜軍にも、いくらか入るでしょう」
その時だった。
「瑶月」
聞き慣れた声に、瑶月が振り返る。
そこには、長淵が立っていた。
「長淵さま」
瑶月は立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
長淵はそんな瑶月を見つめ、少しだけ目を細めた。
「東州に来るのは、初めてなんだ」
一呼吸置いて。
「……案内してくれないか?」
瑶月は一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、柔らかく微笑む。
「喜んで」
瑶月は長淵と並んで、東州の城下を歩いていた。
かつて、屠城によって大きく傷ついた故郷。
街は、もう以前と同じではない。
それでも今、瑶月の目の前には、人々の暮らしが戻っていた。
通りには新しい店が軒を連ね、炊きたての飯の匂いが漂っている。行き交う人々の声が重なり、どこかの家からは子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
失われたものは、決して元の形には戻らない。
それでも――
ここは、紛れもなく瑶月の故郷だった。
四年という月日をかけて、街は少しずつ息を吹き返している。
その姿を見つめる瑶月の瞳には、悲しみと安堵が静かに揺れていた。
その時――
空から、白いものがひとひら舞い落ちてきた。
「雪……」
瑶月が足を止め、空を見上げる。
淡い雲の切れ間から、雪が次々と降り始めていた。
白い雪が屋根や石畳を静かに覆い、行き交う人々の肩にも積もっていく。
長淵は傘を開いた。
「瑶月、こちらへ」
「ありがとうございます」
二人は一つの傘の下に入った。
雪を避けるため、自然と距離が近くなる。
肩が触れそうなほどの距離。
瑶月の衣から、ふわりと白檀の香りが漂ってきた。
長淵の喉仏が、無意識に小さく動く。
それを悟られまいと、長淵は静かに前を向いた。
瑶月は、そんな彼の変化には気づかない。
ただ、雪の向こうに広がる故郷の街を眺めながら歩いていた。
白く霞む景色の中で、店先の灯りがひとつ、またひとつと浮かび上がる。
かつて多くのものを失った場所は、今、人々の声と温かな灯りに満ちていた。
その後ろでは――
「……距離が近すぎます」
玄武が、二人の背中を険しい目で見つめていた。
「引き離してきます」
そう言って、ツカツカと歩き出す。
しかし。
「まあまあ」
朱雀が玄武の肩を掴んだ。
「いくらなんでも、王太子さまですよ〜」
「…………」
玄武は進めていた足を止めた。
正論だった。
王太子に対して、そう簡単に割って入ることなどできない。
玄武は、ただ無力に二人の背中を眺めていた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……こんな時、滄海さまがいたら……」
その声には、悔しさとも寂しさともつかない感情が滲んでいた。
一つの傘の下。
瑶月と長淵は、しばらく並んで歩いた。
やがて、瑶月が足を止める。
「そろそろ屋敷へ戻りましょうか」
長淵は、すぐには答えなかった。
傘の外では、雪が静かに降り続いている。
もう少しだけ、この時間が続けばいい。
そんな思いを胸の奥に押し込み、長淵はわずかに寂しそうな声で答えた。
「そうだな」




