停戦の使者 2
長淵は、慎重に一礼した。
「朔国王太子、蕭昭衡です」
劉晟は顔を上げる。
「ああ。知っている」
短い言葉だった。
「書簡を」
「……はい」
長淵は手にしていた書簡を差し出した。
劉晟はそれを受け取り、封を切る。
そこには、朔国からの停戦条件が記されていた。
今回の戦に対する賠償金を朔国が支払うこと。
そして――
東州については、今後も景国の統治下に置くことを認めること。
劉晟は書簡へ目を落としたまま、長淵の説明を静かに聞いていた。
やがて、長淵が口を開く。
「こちらから、一つだけ条件があります」
劉晟が視線を上げる。
「なんだ?」
「朔国の捕虜を返していただきたい」
「ああ。問題ない」
あまりにもあっさりとした返答だった。
長淵は一瞬だけ目を伏せる。
そして、続けた。
「軍医として勤めていた沈瑶月も、朔国の捕虜の対象に含まれます」
その瞬間。
劉晟の視線が、書簡からゆっくりと上がった。
「……沈瑶月も返せと?」
「はい」
長淵は静かに答えた。
「彼女は朔国の民ですから」
しばしの沈黙。
劉晟は長淵を見つめたまま、低く尋ねた。
「戦場で、自国の兵に殺されかけていたが?」
「……」
長淵は答えなかった。
あの時。
瑶月を救ったのは劉晟だった。
その事実を、長淵自身が誰よりも理解している。
劉晟はそんな長淵をしばらく見つめた。
「蕭昭衡」
初めて、その名を呼ぶ。
「お前は、沈瑶月を守る気があるのか?」
長淵の拳に力が入った。
「……」
「朔国は――」
劉晟の声は静かだった。
「沈家を守る気があるのか?」
長淵の瞳が揺れる。
この男は、知っている。
東州で何が起きたのか。
沈家がなぜ滅ぼされたのか。
もし、劉滄燼はこの四年間あの日について調べ続けていたら。
もし、あの屠城の裏にあるものまで辿り着いているのだとしたら。
長淵は答えられなかった。
ただ、握り締めた拳に力を込める。
その時だった。
「劉晟! 薬の時間よ」
明るい声とともに、扉が開いた。
瑶月だった。
手には、いつもの漢方薬が入った器を持っている。
「……!」
長淵の胸が、大きく揺れた。
瑶月。
生きている。
こうして、自分の目の前にいる。
「長淵さま!」
瑶月が長淵に気づいた。
その顔が、ぱっと明るくなる。
長淵の胸が締めつけられた。
瑶月がこちらへ来る。
そう思った。
けれど。
瑶月は、そのまま劉晟のもとへ向かった。
「はい。今日の分よ」
手にしていた薬を差し出す。
「ちゃんと飲んで」
「ああ」
劉晟は素直に薬を受け取った。
そして、ほんの僅かに口元を緩め、そのまま薬を飲む。
瑶月はそれをじっと見届けた。
「よし」
それからようやく、長淵のもとへ歩いてくる。
「長淵さま!」
嬉しそうな笑顔だった。
「お元気でしたか?」
長淵は、すぐには答えられなかった。
瑶月と別れてから、まだ半年ほどしか経っていない。
それなのに――
目の前にいる瑶月が、自分が知っている瑶月ではない気がした。
長淵の視線が、瑶月の髪へ向かう。
そこには以前、自分が贈った白玉の簪があった。
けれど、今は違う。
金細工の歩揺が、瑶月の髪で静かに揺れていた。
「長淵さま……?」
瑶月が不思議そうに顔を覗き込む。
「ああ……元気だった」
一呼吸。
「瑶月は、元気にしていたか?」
聞かなくても分かる。
彼女は元気だ。
その表情を見れば、それくらい分かった。
「はい。元気でした」
瑶月は笑った。
その笑顔を見つめながら、長淵は思う。
自分が守ると決めていた。
自分の妃になるはずだった。
そう思っていた少女が――
今は、自分の知らない場所で。
自分の知らない男のそばで。
自分の知らない日常を生きている。
長淵は、ようやく理解した。
あの日。
自分が失ったものを。
劉晟は、静かに立ち上がった。
「朔国の条件については、また話すとして――」
そう言いながら、長淵を一瞥する。
「東州で評判の酒楼に、一席設けてある」
一呼吸。
「王太子殿。一緒にいかがだろうか?」
長淵はわずかに目を見開いた。
敵国の将軍からの誘い。
だが、断る理由もない。
「ありがとうございます。喜んで」
長淵が答える。
その隣で、瑶月が劉晟を見つめていた。
何も言わない。
ただ――
私は?
そう言わんばかりの目をしている。
劉晟は一瞬、瑶月を見る。
「……瑶月も来るか?」
その瞬間。
瑶月の顔が、ぱっと明るくなった。
「喜んで」
満足そうに頷く。
長淵は二人を見つめた。
――あまりにも自然だった。
まるで、いつものことのように。
その光景が、また少しだけ胸に刺さった。
一行は東州城下でも評判の酒楼へ入った。
案内されたのは、大きな円卓だった。
席順は、劉晟、瑶月、長淵。
その後ろには、それぞれの側近たちが控えている。
やがて、東州の名物料理を中心に、料理が次々と運ばれてきた。
瑶月は姿勢を崩すことなく箸を伸ばした。
そして、名物料理を一品取り分けると、長淵の皿へそっと運ぶ。
「長淵さま、こちら東州の名物です」
その瞬間。
長淵の背後に控えていた側近が、わずかに胸を張った。
――やはり殿下だ。
そんな声が聞こえてきそうなほど、誇らしげな顔だった。
「ありがとう。美味しそうだね」
「そうでしょう?」
瑶月は穏やかに微笑む。
「私、幼い頃から好んで食べていましたわ」
長淵は箸を取り、料理を口へ運ぶ。
「……おいしいね」
そう言って、瑶月へ微笑みかけた。
その様子を、劉晟は黙って見ていた。
そして、何気ない声で口を開く。
「瑶月」
「なに?」
「今日は、其方がいつも食べている点心がないそうだ」
「そうなの?」
瑶月が店員へ確認すると、どうやら今日は用意されていないらしい。
「また今度来たらいいわ」
「そうだな」
劉晟は短く答えた。
その瞬間。
なぜか、劉晟の背後に控えていた白虎が、勝ち誇ったように胸を張った。
長淵側の側近が、それを見逃さない。
――何だ、その顔は。
――瑶月様に選ばれているのは、殿下の方だ。
――いや、普段の瑶月様を一番知っているのは滄燼さまだ。
声には出さない。
だが、互いに一歩も譲らない。
視線だけが、静かにぶつかり合っていた。
小雪は左右の側近たちを見て、深いため息をついた。
――お願いだから、本人たちの前で争わないでください。
けれど。
当の本人らは、そんな空気など知る由もなく。
何事もなかったように、料理へ箸を伸ばしていた。




