故地、東州 1
まだ雪が降り始まる前。
瑶月たちは、東州へ到着した。
馬車から降りた瑶月は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
四年ぶりだった。
四年ぶりに――
東州城下へ足を踏み入れる。
けれど。
目の前に広がっていた光景は、瑶月が最後に見た東州とは、あまりにも違っていた。
あの日。
鼻につく、忌々しい血の匂い。
道端に転がる、無数の死体。
崩れ落ちた露店。
焼け焦げた建物。
泣き叫ぶ人々。
それが、瑶月にとっての最後の東州だった。
けれど――
「……」
瑶月は、ゆっくりと周囲を見渡した。
血の匂いは、どこにもない。
代わりに漂ってくるのは、露店から漂う、できたての饅頭の香り。
道端に転がっていた死体はなく、そこには笑顔で歩く民の姿がある。
崩れていた露店もない。
その代わり、道の両側には所狭しと様々な店が並んでいた。
食べ物を売る店。
布を売る店。
装飾品を並べる店。
子どもたちが走り回り、その横を荷車が通り過ぎていく。
人々の声が重なり合い、城下には活気が満ちていた。
瑶月の目に、涙が浮かぶ。
懐かしかった。
あまりにも、懐かしかった。
――あの頃の東州だ。
家族と一緒に歩いた道。
兄たちと立ち寄った店。
母と買い物をした露店。
父が笑いながら歩いていた城下。
失われたと思っていた景色が。
今、目の前にある。
瑶月は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
その時だった。
「劉晟さまだ!」
誰かが声を上げた。
その一声を合図にしたかのように、周囲の民が次々と劉晟のもとへ集まってくる。
「殿下、お帰りなさいませ!」
「これ、よかったら受け取ってください!」
花を差し出す者。
「新しく作った菓子です。ぜひ召し上がってください!」
そう言って包みを差し出す者。
別の民は、採れたばかりの果物を持ってくる。
劉晟は驚いた様子もなく、ただ穏やかに民へ頷いている。
青龍と白虎が、慣れた様子で民から差し出された品々を受け取っていく。
「ありがとうございます」
「こちらへ」
その光景を、瑶月は少し離れたところから眺めていた。
劉晟の周りに集まる人々。
誰も彼を恐れていない。
誰も彼を憎んでいない。
むしろ――
皆、彼を慕っている。
瑶月は、静かに劉晟を見つめた。
もう知っている。
四年前。
東州を襲ったあの男は、劉晟ではない。
父の右腕を斬り落とした男も。
沈家を滅ぼした男も。
劉晟ではなかった。
ならば。
この四年間、劉晟は何をしていたのだろう。
瑶月は、目の前に広がる東州を見渡す。
すべてを失った土地。
血に染まった土地。
それでも今、ここには人々の暮らしがある。
笑い声がある。
温かな食べ物の匂いがある。
子どもたちの声がある。
誰かが、この街をもう一度立ち上がらせた。
その中心にいたのが――
劉晟だった。
瑶月は、彼を見つめる。
その姿は、いつものように静かだった。
けれど、その周囲には笑顔の民がいる。
あの日、すべてを失った自分にはできなかったことを。
家族を失った自分には、もう見ることのできなかった景色を。
この人は、この場所に取り戻していた。
瑶月の胸に、ふと一つの言葉が浮かんだ。
――護国愛民。
沈家の家訓。
国を護り。
民を愛する。
父が。
兄たちが。
何よりも大切にしていた言葉。
瑶月はもう一度、東州を見渡した。
そして、劉晟を見る。
胸の奥から、自然に一つの思いが浮かんだ。
――ああ。
この人が、東州の民を守ってくれたんだ。
その事実が、なぜか不思議なほど自然に感じられた。
かつて沈家が守っていた東州を。
今は、劉晟が守っている。
瑶月の目から、静かに涙がこぼれた。
「お嬢!! お帰りなさい!」
突然、人々の向こうから声が響いた。
聞き覚えのある声。
見覚えのある顔。
「……す、朱雀……?」
瑶月の目が大きく見開かれる。
民の先に、二人の男が立っていた。
かつて滄瀾の側近を務めていた朱雀。
そして、滄海の側近だった玄武。
間違えるはずがなかった。
生きていた。
二人とも、生きていた。
瑶月の目に、涙が溢れそうになる。
けれど、すぐには泣かなかった。
姿勢を正す。
ゆっくりと息を吸う。
そして、二人へ向かって歩き始めた。
一歩。
また一歩。
最初は、ゆっくりと。
けれど。
一歩進むごとに、胸の奥から込み上げてくるものが大きくなっていく。
歩く速度が、少しずつ速くなる。
もう、抑えられなかった。
「……っ」
瑶月は駆け出した。
最後には、全力で二人のもとへ走っていた。
「お嬢!」
朱雀と玄武もまた、瑶月へ向かって駆け出す。
そして三人は、互いを迎え入れるように足を止めた。
「……生きてたの……?」
瑶月の声が震える。
朱雀は目を伏せた。
「はい」
一呼吸置いて。
「あの日、俺たちは城外の軍営にいました」
その言葉に、瑶月の目が揺れる。
朱雀は拳を握りしめた。
「城下で何が起きていたのか……俺たちが知った時には、もう――」
言葉が続かない。
玄武が、静かに口を開いた。
「助けられなくて……本当に申し訳ございません」
その言葉とともに。
二人は瑶月の前へ膝をついた。
「本当に申し訳ございません」
頭を下げる二人。
瑶月の目から、とうとう涙が溢れた。
「……」
しばらく、何も言えなかった。
やがて、瑶月は静かに首を振った。
「もう……過ぎたことです」
声は震えていた。
それでも、二人へまっすぐに向ける。
「あなたたちのせいじゃないわ」
一呼吸置いて。
「あなたたちが生きてくれているだけで……もう十分です」
その言葉に。
朱雀と玄武は顔を上げた。
瑶月は、朱雀と玄武を両隣にして歩いていた。
少し後ろには小雪が続いている。
四人の間には、絶えず笑い声が響いていた。
「お嬢は昔から変わりませんね」
「そういう朱雀こそ、昔と全然変わってないわ」
「俺は背が伸びましたよ!」
「どこが?」
「どこって……」
朱雀が困ったように笑う。
玄武も、そんな二人を見ながら静かに笑っていた。
小雪もまた、瑶月の楽しそうな横顔を眺めている。
四年ぶりだった。
こんなふうに、誰かと並んで歩くことも。
昔の話をして笑うことも。
瑶月にとっては、あまりにも久しぶりだった。
その様子を、少し離れたところから劉晟は馬上で眺めていた。
隣では青龍も、同じように前を歩く四人を見ている。
「瑶月様、楽しそうですね」
「ああ」
劉晟は小さく頷いた。
その口元には、ほんの僅かな笑みが浮かんでいる。
青龍はそれを横目で見た。
そして――
「滄燼さまは、幸せそうですね」
「……」
劉晟の視線が、ゆっくりと青龍へ向く。
冷たい目だった。
「……」
「……すんません」
青龍はすぐに前を向いた。
けれど、口元には笑みが残っている。
その時だった。
少し先を歩いていた瑶月が、何かを思い出したように振り返った。
そして――
小走りに、こちらへ戻ってくる。
「劉晟!」
馬のそばまで来ると、瑶月は顔を上げた。
「聞くのを忘れていたのだけど……」
「なんだ?」
「私たち、今どこへ向かっているの?」
劉晟は一瞬、瑶月を見つめた。
そして。
ふっと笑った。
「瑶月の家だ」
「……え?」
瑶月が目を瞬かせる。
劉晟は、静かに続けた。
「沈家だ」
その言葉を聞いた瞬間。
瑶月の足が止まった。
四年ぶりに聞く――
自分の家の名前だった。
一行は、やがて沈家の前へ辿り着いた。
瑶月は馬車から降りると、目の前にある門を、ただ静かに見つめていた。
あの日。
血にまみれ、傷つき、無残に壊されていた扉。
その光景は、今も瑶月の記憶に焼きついている。
けれど、目の前の扉は綺麗に修復されていた。
木の色も。
門の金具も。
まるで、あの日の惨劇など最初から存在しなかったかのように。
その整った姿が、かえって胸を締めつけた。
壊れていたなら、まだ「あの日の続き」だと思えたかもしれない。
けれど、門は何事もなかったように立っている。
戻らないものだけを残して。
そして――
門の上には、あの日と変わらず一枚の額が掲げられていた。
そこには、はっきりと。
――沈家。
そう記されている。
その二文字を目にした瞬間、瑶月の胸の奥に、懐かしい声や温かな記憶が一気に押し寄せた。
父の大きな背中。
母の穏やかな笑顔。
兄たちの笑い声。
けれど、どれだけ耳を澄ましても、今ここに彼らの声はない。
「……」
瑶月は何も言わなかった。
声を出せば、堪えているものがすべて崩れてしまいそうだった。
だから。
ただ、一歩。
足を前へ出す。
もう一歩。
そしてまた一歩。
足元は確かに地面を踏んでいるのに、心だけが四年前のあの日と、幼い頃の記憶の間を行き来していた。
ゆっくりと、確かめるように歩いていく。
やがて――
瑶月は、沈家の門をくぐった。
門の先に広がっていたのは、見覚えのある広場だった。
かつて、兄たちが鍛錬に使っていた場所。
長兄・滄岳が大刀を振るい。
滄瀾が矛を構え。
滄海が双剣を振るっていた。
何度も何度も、兄たちの姿を見た場所。
掛け声が響き、武器が風を切り、鍛錬を終えた兄たちが汗を拭いながら笑っていた。
瑶月は、そこに兄たちの姿を探してしまう。
けれど、広場にいるのは静かな風だけだった。
その鍛錬場も――
綺麗に整えられていた。
柱も。
武具を置く台も。
踏み固められた地面さえも。
すべてが、あの日の記憶に近い形で蘇っている。
懐かしい。
そう思った直後、胸の奥に鋭い痛みが走った。
懐かしいと思えるほど、もう二度と戻れないのだと気づいてしまったからだ。
そして、そのすぐ近くには――
秋千があった。
幼い頃。
兄たちに押してもらった秋千。
母に笑われながら、何度も何度も揺れた場所。
父に背中を押されると、秋千は高く空へ舞い上がった。
その声が、今にも聞こえてきそうだった。
瑶月は、その場に立ち尽くした。
目の前にあるのは、ただの秋千だ。
けれど瑶月にとっては、家族と過ごした時間そのものだった。
何もかも。
そこにある。
失われたはずの場所が。
まるで、瑶月が帰ってくる日を待っていたかのように。
瑶月は秋千へ、ゆっくりと近づいた。
そっと手を伸ばす。
指先が、木の座面に触れる。
冷たい。
けれど、その冷たさがかえって現実を伝えてきた。
ここにある。
沈家は、確かにここにある。
なのに、家族だけがいない。
父も。
母も。
三人の兄も。
どれだけ待っても、もうこの門をくぐって帰ってくることはない。
瑶月の目に涙が浮かぶ。
懐かしさも。
寂しさも。
失った痛みも。
すべて、この場所に置いていくように。
四年前に失ったものは、戻らない。
けれど。
沈家は、消えていなかった。




