↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
49/185

劉晟の左手

 窓辺から外を見る。


 今日も、劉晟が鍛錬をしていた。


 昨夜、あれほどの騒ぎがあったというのに。


 まるで何事もなかったかのように、いつもと変わらぬ姿で矛を振るっている。


 瑶月はしばらく、その姿を眺めていた。


 そして――


 ふと、劉晟の手元に目が止まった。


「……?」


 何かがおかしい。


 瑶月は目を細める。


 劉晟が矛を握っている手。


 ――右手。


「……右手?」


 瑶月の眉が寄った。


 劉晟は、左利きの矛使いではなかったか。


 なのに――


 今、目の前にいる劉晟は、右手で矛を振るっている。


「……どうして?」


 一度生まれた疑問が、頭の中で膨らんでいく。


 瑶月は昨夜のことを思い返した。


 自分が黒衣の男に攫われた時。


 劉晟が追ってきた。


 そして、自分を助けた時に握っていた剣も――


「右手……」


 瑶月の目が揺れる。


 さらに、別の記憶が蘇った。


 戦場で野犬と対峙していた時。


 あの時も。


 劉晟は右手で武器を扱っていた。


 偶然?


 いや。


 偶然にしては――


 重なりすぎている。


 瑶月は窓辺から離れられなくなった。


 目の前では、劉晟が何事もなかったかのように矛を振るっている。


 右手。


 何度見ても、右手だ。


「……でも」


 瑶月は唇を噛む。


 自分は、確かに見た。


 あの日。


 東州で。


 父の右腕を切り落とした男。


 左手で剣を握っていた。


 あの姿だけは、絶対に間違えない。


 あの時、左手で剣を振るった男が――


 なぜ今は、右手で武器を扱っている?


「……おかしい」


 瑶月の胸の奥がざわつく。


 ただの利き手の問題ではない。


 もし自分の記憶が正しいのなら。


 もし、あの日に見た男が本当に劉晟なのだとしたら。


 なぜ――


 今の劉晟は、あれほど右手を使うのか。


 瑶月の中で、疑いが少しずつ形を持ち始めていた。


 東州で見た左手。


 戦場で見た右手。


 昨夜、自分を救った時の右手。


 そして今、矛を握る右手。


 すべてが一本の線になりかけている。


「……まさか」


 瑶月の胸が、大きく跳ねた。


 けれど、その先を考えることを、心が拒んだ。


 もし――


 もし、自分があの日見た男と。


 今、目の前で矛を振るっている男が。


 同じ人物ではないのだとしたら。


「…………」


 瑶月は息を呑んだ。


 これまで信じてきたものが、音を立てて崩れ始める。


 それでも。


 あの日の光景だけは、あまりにも鮮明だった。


 父の腕が落ちた瞬間。


 血に染まった東州。


 そして――


 左手で剣を握っていた、あの男。


 瑶月は窓辺から動けないまま、劉晟を見つめ続けた。


 疑いはもう、小さな違和感ではなかった。


 「本当に、あの日の男は劉晟だったのか」


 その疑問が、瑶月の胸の中で大きく膨らみ始めていた。




「……まだ、決めつけるのは早い」


 瑶月はそう自分に言い聞かせた。


 右手を使っているからといって、それだけで何かを断定できるわけではない。


 左手を怪我しているのかもしれない。


 あるいは、何か別の理由があるのかもしれない。


 だから――


 その日から、瑶月は劉晟をよく観察するようになった。


 食事の時。


 劉晟が箸を持つのは、左手。


 書を読む時。


 筆を握るのも、左手。


 書簡を書く時もそうだった。


 何気ない日常の動作では、いつも左手を使っている。


 けれど――


 武器を手にした瞬間だけ。


 劉晟は右手を使う。


 矛も。


 剣も。


 戦場で武器を扱う時は、決まって右手だった。


「……やっぱり」


 瑶月は遠くから劉晟の姿を眺める。


 間違いない。


 彼は左利きだ。


 なのに、武器だけは右手。


「左手で武器を振れない理由が……あるの?」


 瑶月は考え込む。


 怪我。


 古傷。


 あるいは――


 何か、別の理由。


 まだ答えは出ない。


 けれど、もう一つの疑問が瑶月の中に生まれていた。


 もし。


 もし、万が一――


 あの日の犯人が、劉晟ではなかったとしたら。


「……じゃあ、誰なの?」


 瑶月は小さく呟いた。


 自分は、確かにあの日の男を見た。


 左手で剣を握っていた男。


 父の右腕を切り落とした男。


 それが劉晟だと、ずっと信じていた。


 でも――


 もし違うのなら。


 東州を襲ったあの男は、いったい誰だったのか。


 そして。


 その男が存在するのなら――


 今回、自分を連れ去ろうとした者たちとも繋がっているのだろうか。


 瑶月は窓辺へ歩み寄った。


 窓の外には、丁寧に手入れされた庭園が広がっている。


 整えられた木々。


 季節の花々。


 静かに行き交う使用人たち。


 誰もが淡々と自分の仕事をこなし、屋敷には穏やかな日常が流れていた。


 その光景を見ていると、瑶月は妙な気持ちになった。


 ここは――


 自分の家族を奪った男の屋敷だ。


 なのに、あまりにも静かだった。


 庭を掃く音。


 使用人たちの小さな話し声。


 風に揺れる木々。


 どれも、あの日の東州とはかけ離れている。


 瑶月は窓枠に手を置いた。


 そして、ふと思う。


 自分は――


 何も知らないのではないか。


 東州で何が起きたのか。


 なぜ沈家が襲われたのか。


 誰があの日の惨劇を引き起こしたのか。


 そして。


 なぜ自分は、今ここにいるのか。


「……私、何も知らない」


 その言葉を口にした瞬間。


 胸の奥が、ひどく冷たくなった。


 これまで自分が信じていたものは、本当に真実なのだろうか。


 瑶月は庭園を眺めながら、答えのない問いを抱えた。


 静かな屋敷の中で。


 少しずつ、自分の知らなかった真実へ近づき始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。