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三日月の夜

茶楼で満腹になるまで食事をした一行は、屋敷へ向かって歩いていた。


 夜もすっかり更けている。


 頭上には、細い三日月が静かに輝いていた。


「こんな夜遅くに外にいるなんて、昔なら考えられないわね」


 瑶月が隣を歩く小雪へ、ぽつりと言う。


「そうですね」


 小雪は少し心配そうに周囲を見回した。


「ですが、もう遅いですから。早く帰りましょう」


「うん」


 二人は並んで歩いていく。


 その少し後ろを、青龍と白虎がついていた。


 ふと、青龍は前を歩く瑶月の背中を眺めた。


 その時だった。


 月明かりが、瑶月の髪を照らす。


 一瞬――


 その髪に、淡い光が宿ったように見えた。


「……?」


 青龍は目を瞬いた。


 けれど、次に見た時には何もない。


 ただ月明かりに照らされた髪が、静かに揺れているだけだった。


「……見間違いか」


 そう呟き、青龍は再び歩き始めた。


 やがて、一行は屋敷へ辿り着いた。


 青龍と白虎が先に瑶月たちの前へ進み、門を開ける。


 重い門扉が、ゆっくりと開いていく。


 その向こうに――


 一人の男が立っていた。


 劉晟だった。


 夜の静けさの中、劉晟は静かに月を眺めていた。


 そして、瑶月へ視線を向けた。


 その瞬間だった。


 瑶月の背後から、人影が飛び出した。


「……え?」


 何が起きたのか理解する間もなかった。


 身体を掴まれる。


「な――」


 声を上げるより早く、瑶月の身体が引き寄せられた。


「瑶月様!」


 青龍が叫ぶ。


 次の瞬間。


 瑶月はそのまま馬上へ引き上げられていた。


「小雪!」


 瑶月の声が響く。


 だが、馬はすでに走り出していた。


 青龍が劉晟を見る前には既に彼は馬に乗って門を飛び出していた。


「人を離せ!!」


 劉晟の低い声が、夜の平陽に響いた。


 黒衣の男は何も答えない。


 夜に紛れるような黒衣を翻し、ただ馬を走らせていく。


 劉晟はすぐさま背後を振り返った。


「青龍、白虎!」


「はい!」


「信号弾を出せ。城門を閉めさせろ」


「承知しました!」


 青龍が懐から信号弾を取り出す。


 次の瞬間――


 夜空へ、一筋の光が上がった。


 三日月のすぐ横を、城門閉鎖を知らせる光が駆け上がっていく。


 それを見た黒衣の男は、さらに馬を加速させた。


 このままでは逃げ切れない。


 そう判断したのだろう。


 馬は夜道を疾走する。


「きゃっ……!」


 瑶月の身体が大きく揺さぶられる。


 男に無理やり乗せられているため、手綱を握ることもできない。


 ――降りなければ。


 このまま連れて行かれるわけにはいかない。


 瑶月は必死に考える。


 その時、袖の中に入れていたものに指先が触れた。


 いつも持ち歩いている、医療用の鍼。


 瑶月はそれを握りしめた。


 馬を傷つけることになる。


 分かっている。


 それでも――


「ごめんね」


 小さく呟いた。


 次の瞬間。


 瑶月は鍼を馬へ突き立てた。


「ヒヒィィン!」


 驚いた馬が大きく嘶き、前脚を高く上げる。


「なっ――!」


 黒衣の男が体勢を崩した。


 瑶月の身体も大きく投げ出される。


 二人はそのまま馬から落ちた。


 だが――


 地面へ叩きつけられる寸前、劉晟が駆け込んできた。


 劉晟の腕が瑶月の身体を抱き上げる。


「……っ」


 瑶月は驚いて劉晟を見上げた。


 けれど、劉晟は瑶月を見ていなかった。


 視線は、少し離れた場所に倒れている黒衣の男へ向けられている。


 右手には剣。


 その切っ先が、黒衣の男へ向けられた。


「誰だ」


 低い声だった。


 瑶月は息を呑んだ。


 今まで聞いたことのない声だった。


 冷たい。


 そして――


 殺気があった。


 黒衣の男は答えない。


 ただ、懐へ手を入れた。


「……!」


 劉晟の目が鋭くなる。


 だが、間に合わなかった。


 黒衣の男は懐から短剣を取り出すと、自らの喉元へ突き立てた。


 その身体が、力なく地面へ崩れ落ちる。


 夜が、再び静かになった。


 劉晟は剣を下ろした。


 そして腕の中にいる瑶月へ視線を落とす。


 その顔には、今まで見たことのない感情が浮かんでいた。


「馬から落ちたら死ぬんだぞ!」


 低い声が、夜の静寂を震わせる。


「分かってやっているのか」


 怒っている。


 それだけではない。


 焦り。


 そして――


 瑶月を案じる感情。


 それが、声の端々から滲んでいた。


「だって……」


 瑶月は言い訳をしようと口を開く。


 けれど。


 ふと、劉晟の目を見る。


 言葉が止まった。


 こんな顔をする劉晟を、瑶月は知らなかった。


 いつも何を考えているのか分からない男。


 何が起きても表情を変えない男。


 その男が今、自分を見つめている。


 瑶月は、何も言えなくなった。


 そして――


「……ごめんなさい」


 小さな声で、それだけを口にした。


 劉晟はしばらく瑶月を見つめていた。


 やがて何も言わず、瑶月を抱えたまま馬へ向かう。


 瑶月を先に馬へ乗せ、その後ろへ自ら跨った。


 そして、瑶月の身体を支えるように腕を回す。


 馬がゆっくりと歩き始めた。


 誰も何も言わなかった。


 三日月だけが、二人を静かに照らしている。


 その夜。


 瑶月は初めて――


 自分が劉晟に心配されているのだと、ほんの少しだけ感じていた。



その夜。


 劉晟の私室には、青龍と白虎が控えていた。


 先ほどまでの騒ぎが嘘のように、部屋は静まり返っている。


 劉晟は窓の外へ目を向けたまま、低く口を開いた。


「さっきの男が誰か調べろ」


「……はっ」


 青龍と白虎が揃って頭を下げる。


 劉晟はしばらく黙っていた。


 ――瑶月を攫う理由が分からない。


 あの男は、明らかに瑶月を狙っていた。


 偶然、屋敷の前を通りかかったわけではない。


 あの時間。


 あの場所。


 瑶月が屋敷へ戻ってくる瞬間を狙っていた。


「……朔国か?」


 劉晟は小さく呟く。


 だが、すぐに否定する。


 つい先日、朔国から停戦を求めてきたばかりだ。


 そんな状況で、わざわざ景国の将軍の屋敷から人を攫うような真似をするとは考えにくい。


 ましてや――


 瑶月は、今の朔国にとって重要な存在でもない。


「……なら、誰だ」


 劉晟の眉がわずかに寄る。


 景国か。


 朔国か。


 それとも――


 どちらの国にも属さない、別の何者か。


 考えても、答えは出ない。


 劉晟はゆっくりと目を伏せた。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 あの男は――


 瑶月を狙っていた。


「……一体、何者だ」


 静かな私室に、劉晟の低い声だけが落ちた。


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