平陽の日々 2
瑶月は、これまで薄い布一枚を隔てた城下しか知らなかった。
帷帽から垂れる薄布。
それ越しに見る街は、いつもどこか遠かった。
城下の賑わいも。
行き交う人々の笑顔も。
店先に並ぶ色とりどりの商品も。
薄い布一枚を隔てるだけで、そのすべてが色褪せてるように感じた。
何より――
その薄布は、瑶月自身を人々から隔てているようだった。
けれど。
今日、瑶月は初めて、自分自身の目で街を見ている。
遮るものは何もない。
人々の笑い声が、すぐ近くに聞こえる。
商人たちの威勢のいい声。
子供たちの笑い声。
店先に並ぶ鮮やかな衣。
西方から運ばれてきた珍しい品々。
道を行き交う人々の表情には、活気があった。
穏やかだった。
幸せそうだった。
「……」
瑶月は、ただ呆然と街を見つめた。
想像していたよりも――
ずっと素晴らしい。
こんなにも、人々は笑っている。
こんなにも、街は生きている。
その光景に目を奪われているうちに、瑶月の足が自然と前へ出た。
一歩。
そして、もう一歩。
「……すごい」
小さく呟いた次の瞬間。
瑶月は、子供のように街へ駆け出した。
「お嬢様!」
小雪の声が背後から響く。
けれど、瑶月は振り返らない。
店から漂う甘い香り。
道端で売られている珍しい菓子。
楽しそうに笑う人々。
見たことのない西方の品。
その一つ一つに心を奪われ、瑶月は次々と店先を覗き込んでいく。
この時だけは――
横にいる男のことすら忘れていた。
親の仇。
自分が憎み続けてきた男。
劉晟がすぐ後ろにいることさえ。
瑶月は忘れていた。
ただ初めて。
自分の目で、この街を見ていた。
そんな瑶月を、劉晟は少し離れたところから眺めていた。
店先から店先へと駆けていく少女。
珍しい品を見つけるたびに足を止め、目を輝かせている。
つい先ほどまで、自分を親の仇だと睨みつけていた少女とは思えない。
劉晟は何も言わなかった。
ただ、そんな瑶月の姿を静かに眺めている。
そして――
その口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
瑶月は、露店に並べられた品々を眺めながら歩いていた。
チリン…
軒先から、涼やかな音が聞こえてきた。
風に揺れる風鈴。
透き通るような瑠璃の細工が陽の光を受け、きらきらと輝いている。
「……綺麗」
瑶月は思わず足を止めた。
そして、横にいるはずの小雪へ手を伸ばす。
「小雪、見て! 綺麗な瑠璃細工ね」
そう言って掴んだのは――
小雪の腕ではなかった。
「……?」
瑶月の指先に触れているのは、硬く逞しい腕。
ゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは――
劉晟だった。
「……!」
瑶月は慌てて手を引っ込めた。
「……失礼したわ」
小さな声でそう呟く。
劉晟は何も言わなかった。
ただ瑶月が見つめていた風鈴へ視線を移す。
そして店主へ声をかけた。
「これはいくらだ?」
店主が値段を告げる。
劉晟は迷うことなく代金を支払った。
「え?」
瑶月が目を瞬かせる。
劉晟は買った風鈴を手にすると、そのまま瑶月へ差し出した。
「……」
瑶月は風鈴と劉晟を交互に見る。
「これ……?」
「持っていろ」
「……」
何を考えているのか分からない。
けれど、瑶月は戸惑いながらも風鈴を受け取った。
「ちょっと……」
何か言おうとした時には、劉晟はすでに先へ歩き始めていた。
数歩進んだところで、ふと振り返る。
「帰るぞ」
「……」
瑶月は風鈴を握りしめたまま、その背中を見つめる。
やがて小雪とともに、その後を追った。
風に揺れる瑠璃の風鈴が――
歩くたび、涼やかな音を響かせていた。




