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憎きあの人

ここ数日、瑶月は平陽の城下へ顔を出していた。


 劉晟は、瑶月が城下へ出ることを許している。


 ただし――青龍と白虎の監視付きだった。


 逃げ出せないようにするための監視であることは明白だったが、それでも屋敷の中にいるよりはましだった。


 外の空気を吸い、人の声を聞き、自分の目で街を見る。


 それだけで、張り詰めていた心がほんの少しだけ緩んだ。


 そして、城下を歩くうちに、瑶月はあることに気づき始めていた。


 帷帽の薄布を通しても

 平陽の街は、賑わっているのがわかる。


 子供たちは通りを走り、店先では商人たちが声を張り上げている。


 景国は西方との交易も盛んなため、露店には異国の香辛料や色鮮やかな布、見たことのない形をした装飾品まで並んでいた。


 民が貧困に喘いでいるようにも見えない。


 むしろ、皆それなりに暮らしに余裕があるようだった。


 治安を維持しているのは、主に将軍直轄の部隊らしい。


 兵士たちは民に乱暴に接することもなく、揉め事が起きれば淡々と仲裁している。


 もちろん、民同士の小さな争いなどはある。


 けれど、それ以上の大きな騒ぎはない。


 一言で言えば――


 穏やかな街だった。


 とても。


 屠城を行った冷酷な男が治めているとは思えないほどに。


 瑶月は何度も、自分に言い聞かせた。


 街が穏やかだからといって、劉晟の罪が消えるわけではない。


 民が彼を慕っているからといって、東州で起きたことが嘘になるわけでもない。


 これはただ、景国の民があの惨劇を知らないだけだ。


 あるいは、知っていても口にできないだけ。


 そう考えれば、何もおかしくはなかった。


 それでも、胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。


 そんな瑶月が、最近お気に入りにしている場所がある。


 春雨楼。


 三階建ての食事処で、一階には大きな舞台が設けられている。


 二階、三階の客席からも舞台を見下ろせる造りになっており、踊り子や役者、噺家などが日替わりで芸を披露していた。


 今日も瑶月は食事をしながら、舞台を眺めていた。


 青龍と白虎は少し離れた席にいる。


 監視されていることに変わりはないが、春雨楼にいる間だけは、瑶月も彼らの存在を気にしないようにしていた。


「さてさて、本日の話は――」


 噺家が声を張り上げる。


 景国の歴史物語。


 昔の英雄の小話。


 客席から時折、笑い声が上がる。


 瑶月も黙って料理を口に運びながら聞いていた。


 こうして他人の話を聞いていると、ほんの一時だけ、自分が戦争の中にいることを忘れられる。


 けれど。


「続いては――」


 噺家が声を変えた。


「景国一の冷血王子、劉滄燼!」


 瑶月の手が止まった。


 箸の先から、料理がぽたりと落ちる。


「彼はかの朔国東州を屠城し、その後、東州を制圧した――!」


 聞きたくない。


 そう思った。


 けれど、耳に入ってくる。


「あの日の東州は血に塗れ、まさに地上の地獄!」


 瑶月の指先が震えた。


 胸の奥が締めつけられる。


 燃え上がる街。


 逃げ惑う人々。


 血に濡れた地面。


 父の声。


 母の姿。


 兄たちの背中。


 そして、すべてを奪っていった男の姿。


「かつて東州を守護していた沈家は没落し――」


 瑶月の顔が険しくなる。


「さらには、かつての戦友にまで刃を向けたという劉滄燼! なんという男――」


「違う!」


 突然、客席から声が飛んだ。


 噺家が言葉を止める。


 店内がざわめいた。


 一人の男が立ち上がっていた。


 周囲の客たちが、何事かと男へ視線を向ける。


 男は舞台へ向かって歩き出した。


「劉滄燼は、そんなことをやっていない!」


 瑶月は、男から目を離せなかった。


 劉晟を庇う者がいる。


 その事実だけで、胸の奥に不快なざわめきが生まれた。


「おい、何を言って――」


 噺家が戸惑う。


 だが男は止まらない。


「俺は知っている!」


 舞台のすぐ前まで歩み寄る。


「劉滄燼は――」


 男の声が、店内に響き渡った。


「あの日、平陽にいたんだ!」


「……!」


 瑶月の胸が、大きく鳴った。


 息が止まる。


 ――平陽にいた?


 あの日。


 東州が屠城された日。


 劉晟は、平陽にいた。


 ならば。


 東州を屠ったのは、誰なのか。


 いや――


 瑶月はすぐにその考えを打ち消した。


 劉晟が直接そこにいなかったとしても、命令を下すことはできる。


 将軍ならば、遠くから軍を動かすこともできる。


 そうでなければならない。


 そうでなければ、これまで信じてきたものが崩れてしまう。


 けれど、瑶月にはもう一つ、決して揺るがない記憶があった。


 あの日。


 自分は確かに見た。


 東州を襲った男。


 左手に剣を握っていた。


 その腕で――


 父上の腕を斬り落とした。


 間違えるはずがない。


 あの姿を。


 あの左腕を。


 瑶月は、この目で見た。


「私は……」


 気づいた時には、席から立ち上がっていた。


 椅子が大きな音を立てる。


「お嬢様?」


 小雪の声が聞こえた。


 けれど、瑶月は答えなかった。


 三階。


 手すりへ駆け寄る。


 そして、下で騒ぎを起こしている男へ向かって声を放った。


「あの日……!」


 自分でも分かるほど、声が震えていた。


 店内の視線が一斉に瑶月へ集まる。


 瑶月は手すりに手を添え、身を乗り出した。


「……あの日、劉晟は東州にいました」


 男が振り返る。


 瑶月は震える声を、それでも止めなかった。


「私は――」


 一度、息を呑む。


「私はこの目で見ました」


 胸の奥が激しく脈打つ。


「あの日、東州にいる彼を」


 春雨楼が、静まり返った。


 瑶月自身の記憶と、目の前の男の証言。


 どちらも、自分が見たものだけは否定していなかった。


 だからこそ。


 初めて、瑶月は思った。


 ――私は、何を見たの?


 あの日、東州で起きたことは。


 本当に、自分が知っている通りのことだったのだろうか。



「そんなわけないだろ!」


 一階から、男の大声が響いた。


 瑶月は目を見開いた。


 ――そんなわけない?


 なぜ。


 なぜ、この男はそんなにも明確に否定できるのだろう。


 私は、この目で見た。


 確かに見たのに。


 あの日。


 左手に剣を握った男を。


 その腕で、父上の腕を斬り落とした男を。


 間違えるはずがない。


 それなのに――


 目の前の男は、まるで何も疑う余地などないと言わんばかりに否定した。


「……違う」


 瑶月の唇から、かすかな声が漏れる。


 胸の奥が激しくざわめいていた。


 自分でも理解できないほど、動揺している。


 これまで疑ったことすらなかった。


 あの日、自分が見たもの。


 それだけが、瑶月にとって唯一の真実だった。


「私は……」


 瑶月は手すりを強く握った。


「私は、この目で――」


 言葉を続けようと、さらに身を乗り出す。


 その瞬間だった。


 ――ミシッ。


「……え?」


 手すりから、不吉な音がした。


 長い年月に晒され、老朽していた木材が、瑶月の体重を支えきれなかった。


 ――バキッ!


 手すりが、一気に崩れ落ちた。


「きゃっ――!」


 瑶月の身体が前へ投げ出される。


 視界が反転した。


 足が宙に浮く。


 落ちる。


 三階から一階へ。


 誰もが、そう思った。


「危ない!」


「人が落ちるぞ!」


「――きゃあああ!」


 春雨楼に悲鳴が響き渡る。


 瑶月の身体が、宙へ投げ出される。


 その瞬間――


 首元の衣が、ぐいっと引かれた。


「……っ!」


 身体が止まる。


 瑶月は目を見開いた。


 自分の身体は、宙に浮いたまま。


 けれど――


 落ちていない。


 首元を掴まれている。


 誰かの手に。


 その手を辿るように視線を動かす。


「……!」


 そこにいたのは――


 劉晟だった。


 いつの間に現れたのか。


 劉晟は片手で瑶月の衣を掴み、その身体を支えていた。


 表情は、いつもと変わらない。


 ただ静かに、落ちかけた瑶月を見ている。


 瑶月は何が起きたのか理解できず、呆然としていた。


 そして。


 頭から外れた帷帽だけが――


 ひらり。


 ひらりと宙を舞い。


 三階から一階へ、静かに落ちていった。


 劉晟は、そのまま瑶月の身体を引き上げそして、何事もなかったかのように、自分の横へ下ろした。


 瑶月の足が、ようやく床につく。


 まだ、何が起きたのか整理できていない。


 そんな瑶月を見下ろし、劉晟は小さく息を吐いた。


「帰りが遅いと思って来てみたら……なんだ、この様は」


 呆れたような声だった。


 瑶月は答えなかった。


 ただ、目の前にいる男を見つめる。


 あの日、家族を奪った男。


 そして――


 また、自分を助けた男。


 瑶月の瞳が鋭くなる。


 キッと劉晟を睨みつけた。


 けれど、何も言えなかった。


 そのまま、背を向ける。


 胸の奥が、ひどく苦しかった。


 なぜ。


 どうして。


 私は、何度この男に助けられるのだろう。


 親を殺した男。


 兄たちを奪った男。


 自分が憎み続けてきた仇。


 その男に――


 命を助けられている。


 何度も。


 何度も。


 瑶月は自分の手を強く握り締めた。


 情けない。


 自分が、ひどく情けなかった。


 仇を討つどころか。


 自分の命さえ、この男に救われている。


 そんな自分を、瑶月はどうしても許せなかった。




春雨楼に、一瞬の静寂が訪れた。


 おそらく、その場にいた客も店員も――


 皆、同じ方向を見ていた。


 先ほどまで帷帽に隠されていた顔。


 そこから現れたのは、平陽でも滅多に見ることのない、美しい令嬢だった。


 そして、その隣に佇む男。


 景国の若き将軍――劉滄燼。


 二人が並んで立つ姿に、誰も言葉を発しなかった。


 そんな周囲の視線など、劉晟は気にしていない。


 彼の視線は、瑶月の衣の裾へ向けられていた。


 先ほどの騒ぎで、裾が大きく破れている。


 劉晟はそれを確認すると、瑶月へ目を向けた。


 瑶月はまだ、彼に背を向けていた。


 けれど劉晟は気にする様子もなく、後ろから瑶月の腕を掴んだ。


「……!」


 瑶月が振り返る。


 劉晟は何も言わず、そのまま歩き出した。


「帰るぞ」


 短い一言。


 瑶月は反論しようとした。


 けれど、春雨楼中の視線が自分たちへ集まっていることに気づき、言葉を飲み込む。


 そのまま劉晟に腕を引かれ、春雨楼を後にした。


 二人の姿が店の外へ消えても――


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて。


「……見たか?」


 誰かが、小さな声で呟いた。


「ああ……」


「劉将軍が、女を連れていたぞ」


「しかも、あの顔……」


「帷帽を取ったところを見ただろう?」


「まるで仙女みたいだった」


 その夜。


 春雨楼で起きた出来事は、瞬く間に平陽の街へ広がっていった。


 そして――


 翌朝には、すでに別の話へと変わっていた。


「聞いたか?」


「ああ、例の話だろ?」


「劉将軍の屋敷に、絶世の美女がいるらしいぞ」


「本当か?」


「昨日、春雨楼で一緒にいるところを見た奴がいるんだ」


「劉将軍が女を?」


 人々は口々に噂した。


 あの冷血将軍。


 長年、戦と軍務にしか興味を示さず、周囲に女性の影など一つもなかった男。


 そんな劉滄燼が――


「屋敷に美女を囲っているらしい」


「しかも、ただの美女じゃない。絶世の美女だそうだ」


「将軍があんなふうに女の腕を掴んで連れて帰るなんてな」


「もしかして、将軍のお気に入りなのか?」


「まさか……あの劉将軍が?」


 噂は人から人へ渡るたびに、少しずつ形を変えていく。


 やがて、


 ――劉将軍が絶世の美女を屋敷に囲っている。


 そんな話が、平陽中に知れ渡ることとなった。


 さらに尾ひれはついていく。


「近いうちに正室として迎えるんじゃないか?」


「いや、あれほどの美女だ。もう寵愛されているに違いない」


「劉将軍も、ついに女に目覚めたか」


 誰も知らない。


 その「絶世の美女」が――


 劉晟を親の仇として憎み、隙あらば逃げ出そうとしていることなど。


 そして当の瑶月本人が――


 そんな噂になっていることすら、まだ知らない。



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