将軍府の日々 2
「滄燼さま!!」
勢いよく扉が開き、青龍が入ってきた。
青龍も白虎も、劉晟とは十年近い付き合いになる。
その青龍の腕には――
「……」
一羽の鶏が抱えられていた。
しかも、その身体には無数の鍼が刺さっている。
劉晟は、人生で初めて見る光景を前に、しばし言葉を失った。
「瑶月様が、鶏に鍼灸を行うんです!」
「……」
「やめてほしければ、朔国へ帰せと……」
青龍が困り果てた顔で訴える。
――なんと言う女だ。
そう思った、その時だった。
「滄燼さまぁああああ!」
今度は白虎が喚きながら部屋へ飛び込んできた。
「……?」
劉晟が白虎を見る。
「瑶月さまが、菓子の中に唐辛子を入れるんです!」
「……」
「やめてほしければ――」
「朔国に帰せと?」
「そうなんですうううう!」
白虎は泣きそうな顔で自分の唇を指差した。
「見てくださいよ! 僕の唇、腫れてるでしょ!?」
確かに、少し腫れている。
鶏を抱えた青龍。
腫れた唇を訴える白虎。
長年、静かだった屋敷が、急に騒がしくなっていた。
劉晟は二人を見つめ、静かに息を吐いた。
――なんと言う女だ…
敵将に連れ去られたというのに。
鶏に鍼を刺し、菓子に唐辛子を仕込み。
それをやめてほしければ、朔国へ帰せと言う。
これで、本当に返してもらえると思っているのか。
その時。
扉の外から、下女が入ってきた。
「将軍」
「何だ」
「瑶月さまから、言伝を預かっております」
劉晟が顔を上げる。
「……何と?」
下女は一礼して告げた。
「『言いたいことがあるなら、部屋に来て』と」
「……」
劉晟は、しばらく黙っていた。
青龍を見る。
鍼だらけの鶏。
白虎を見る。
腫れた唇。
そして、先ほどの伝言。
すべてが一本につながった。
――これが狙いなんだな。
瑶月は最初から、こうして自分を部屋へ呼び出すつもりだったのだ。
劉晟の口元が、ほんの僅かに動いた。
「入るぞ」
劉晟は一言だけ告げると、ゆっくりと瑶月の部屋の扉を開いた。
その瞬間だった。
瑶月は手にしていた白い粉を、劉晟の顔へ向かって投げつけた。
「――っ」
咄嗟のことだった。
劉晟は反射的に目を閉じ、同時に息を止める。
その一瞬の隙を、瑶月は逃さなかった。
手にしていた茶器の破片を握りしめ、劉晟の背後へ回り込む。
そして、その刃先を首筋へ押し当てた。
「動いたら、殺す」
瑶月の声は低かった。
震えてはいない。
劉晟は動かなかった。
――なかなか、いい動きをする。
そう思いながら、瑶月の言うままに静止する。
やがて騒ぎを聞きつけた使用人たちが駆けつけた。
青龍と白虎も続いている。
なぜか青龍は、まだ鍼だらけの鶏を抱えていた。
「滄燼さま!」
「将軍!」
その頃、小雪は他の者が近づかないよう、箒を構えて牽制している。
「近づかないでください!」
瑶月はさらに声を張り上げた。
「劉晟を殺されたくなければ、馬車を用意して! それから、道を開けて!」
――なるほど。
劉晟は静かに考える。
俺を盾にして、ここから逃げるつもりか。
なかなか大胆なことを考える。
青龍と白虎は、目の前の光景をまるで芝居でも見ているかのように眺めていた。
瑶月は劉晟の首元へ刃を当てたまま、少しずつ後退していく。
その時。
「瑶月」
劉晟が呼んだ。
「なによ」
「馬車で、どこまで逃げる気だ」
「朔国の軍営よ」
「そうか」
劉晟は淡々と尋ねる。
「俺を引き渡すのか」
「そうよ」
瑶月は即答した。
「それで私の潔白が証明されるわ」
劉晟は何も言わなかった。
二人は言葉を交わしながら、少しずつ後ろへ下がっていく。
瑶月は必死だった。
劉晟を逃がさないように。
周囲を警戒しながら。
少しずつ。
少しずつ。
後ろへ。
――その背後に、池があることにも気づかずに。
その瞬間は、突然訪れた。
後退りしていた瑶月の右踵が、何かに沈み込んだ。
「……え?」
足元を見る暇もなかった。
身体が大きく傾く。
劉晟の首へ当てていたはずの茶器の破片が、いつの間にか青空へ向かって掲げられていた。
その瞬間。
破片を握っていた瑶月の右手を、劉晟の左手が掴んだ。
「――!」
次の瞬間には、瑶月の身体が強く引き寄せられていきそのまま、劉晟の懐へ収められる。
側から見れば――
瑶月が劉晟に抱き留められているようにしか見えない。
周囲の使用人たちは、さっと目を伏せた。
青龍と白虎は顔を見合わせる。
「……」
「……」
二人とも、何とも言えない顔で肩をすくめた。
――やれやれ。
一方、一部の下女たちはというと。
俯きながらも、口元にはほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
けれど。
「お嬢様!」
小雪だけは違った。
誰よりも早く二人の間へ駆け込み、瑶月を劉晟から引き離す。
「離れてください!」
小雪が瑶月を背後へ庇う。
「大丈夫ですか、お嬢様!?」
「……」
瑶月は答えられなかった。
何が起きたのか。
自分でも理解できていない。
ただ、先ほどまで首元にあったはずの破片は、劉晟の手に握られている。
そして自分は――
敵将の腕の中にいた。
瑶月は呆然としたまま、劉晟を見上げていた。
「……すまない」
劉晟は、淡々とそう言った。
その一言で、瑶月の感情は頂点に達した。
「なんなの!!!」
瑶月は叫ぶと、小雪の腕を引いた。
「行くわよ!」
「はい、お嬢様!」
二人はそのまま自分の部屋へ戻っていった。
扉は開け放たれたまま。
床には、先ほど劉晟へ投げつけた白い粉が散らばっている。
茶器の破片も落ちていた。
――計画は失敗した。
瑶月は椅子に座り、悶々としていた。
どうしても理解できない。
――なぜ、あの男は私を庇ったの?
あの時。
池へ落ちそうになった自分を、劉晟は迷うことなく抱き留めた。
なぜ。
どうして。
瑶月には、それが分からない。
あの日。
劉晟は――
父上を。
母上を。
兄上たちを。
殺した。
あの惨劇の中で、沈家を滅ぼした男。
自分にとって、劉晟はそれだけの存在だった。
ならば。
私は、ただの――
あの時の殺し損ないなのではないのか。
瑶月は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
それなのに。
なぜ、あの男は私を助ける?
なぜ、私を生かしている?
なぜ――
あんなふうに、私を庇ったのだろう。
「……分からない」
瑶月の胸に、答えの出ない疑問だけが残った。
ごちゃごちゃと絡み合った感情、理解できない現実そして、積み重なる疑問。
瑶月は頭を抱えていた。
考えても、考えても答えが出ない。
けれど――
「……そうだ」
ふと、何かを思いついたように顔を上げた。
そして次の瞬間には、部屋を飛び出していた。
足早に廊下を進み、向かった先は劉晟の私室。
扉の前で立ち止まる。
「入るわよ!」
返事を待つことなく、扉を開けた。
部屋の奥では、劉晟が椅子に腰掛けていた。
手元には一冊の書物。
瑶月が入ってきても、劉晟は驚く様子もない。
ただ、静かに視線を向けた。
瑶月はそれを一瞥し、すぐに口を開いた。
「東州の方は、まだ戦争が続いているはずでしょう」
「あぁ」
「あなた、将軍として東州へ戻らなくてもいいの?」
劉晟は黙っている。
「だって、まだ戦中でしょう?」
瑶月はさらに続けた。
「私は軍医だから、役に立つはずよ」
そして、真っ直ぐに劉晟を見る。
「私も連れていって」
劉晟は、目の前の少女をじっと見つめた。
――平陽から自力で逃げ出せない。
だから、理由をつけて自分と共に東州へ戻ろうとしているのか。
目の前の瑶月は、まだ諦めていない。
劉晟は手元の書物を閉じた。
「俺の読みだと――」
一拍。
「あと三日だ」
「……?」
瑶月が首を傾げる。
「三日後に、朔国から停戦要請が来る」
「……」
瑶月は何も言えなかった。
劉晟も、それ以上は語らない。
二人の間に、静かな沈黙が戻った。
三日後。
「三日後に、朔国から停戦要請がくる」
瑶月は、先日の劉晟の言葉をそっくりそのまま真似していた。
「なによ、格好つけて」
頬を膨らませる。
「未来でも見えるのかしらね!」
「ね!小雪!」
「はい、お嬢様」
瑶月の横で掃除をしていた小雪が、困ったように振り返った。
「お嬢様、落ち着いてください」
「だって……!」
小雪はそんな瑶月を、少し不思議そうに見つめていた。
ここ数年。
瑶月は、ほとんど感情を表に出さなくなっていた。
家族を失ってから。
泣くことも。
怒ることも。
以前ほどなくなった。
それなのに――
劉晟のことになると、妙に感情を揺らしている。
小雪はそれ以上何も言わず、静かに掃除を続けた。
その時だった。
下女が一人、部屋へ入ってきた。
「瑶月様、将軍がお呼びです」
「……また?」
瑶月は眉を寄せる。
「分かったわ」
そして劉晟の書斎へ向かった。
扉を開ける。
「お呼びでしょうか、劉晟さま」
少しだけ嫌味を含ませた声。
けれど劉晟は、そんな瑶月を気にする様子もなかった。
机の上に置かれていた一通の書簡を手に取る。
そして、それを瑶月へ差し出した。
「これを」
「……?」
瑶月は受け取った。
封を開き、書かれている内容へ目を通す。
そこには――
朔国より景国への停戦要請。
瑶月の目が、ゆっくりと見開かれた。
「……」
三日前の言葉が、頭の中に蘇る。
――三日後に、朔国から停戦要請がくる。
まさか。
本当に。
瑶月は書簡から顔を上げ、目の前の劉晟を見つめた。
劉晟は何も言わない。
静かに茶を嗜んでいた。




