将軍府の日々 1
屋敷の使用人に案内され、瑶月は一室に通された。
扉が開いた瞬間。
瑶月は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
部屋は、思っていたよりもずっと上品だった。
落ち着いた色合いの調度品。
控えめながらも品のある装飾。
派手さはない。
けれど、どこか見覚えのある雰囲気があった。
――沈家の屋敷。
かつて自分が暮らしていた家を、瑶月は思い出した。
「……」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
すぐに視線を逸らした。
こんな場所で、昔のことを思い出したくなどなかった。
いつも傍にいる小雪は、別の部屋へ案内されてしまった。
一人。
それだけで、心細さが増していく。
ここへ来るまで、何度も逃げ出そうと思った。
けれど――
さすがは劉晟の屋敷だった。
廊下には一定の間隔で兵が立ち、屋敷の外にも警備の姿が見える。
逃げ出せそうな場所など、どこにもない。
瑶月は諦めるように、小さく息を吐いた。
大人しく部屋へ入る。
すると、待っていたかのように下女たちが次々と入ってきた。
新しい衣。
靴。
簪。
身の回りに必要なものが、次々と用意されていく。
そして最後には――
沐浴用の桶まで。
「……」
瑶月は桶を見つめた。
下女たちも、何も言わずにこちらを見ている。
どうぞ沐浴を。
そう言われているようだった。
――敵陣で沐浴などできるものか。
瑶月は内心で憤慨した。
いくら疲れていても。
いくら身体が汚れていても。
ここは敵将の屋敷だ。
何をされるか分からない場所で、無防備になれるはずがない。
「……結構です」
そう言おうとしたが、声には出さなかった。
代わりに瑶月は、部屋の奥へ向かう。
そして、用意されていた椅子へゆっくりと腰を下ろした。
それが、今の瑶月にできる唯一の反抗だった。
下女たちは困ったように顔を見合わせる。
瑶月は何も言わない。
ただ、腕を組み。
不機嫌そうに椅子へ座り続けた。
どれくらい、時間が経ったのだろうか。
瑶月には、もう分からなかった。
部屋の隅に用意された沐浴用の桶。
湯は冷めるたびに下女が入れ替え、また冷めれば新しい湯が足されていく。
一度。
二度。
それが何度繰り返されたのかも分からない。
それでも――
瑶月は、椅子から動かなかった。
敵陣で無防備になるなど、絶対に嫌だった。
しばらくして、下女の一人が静かに部屋を出ていった。
そして、少し経った頃。
扉が開く。
現れたのは、劉晟だった。
劉晟は部屋の中を一瞥する。
冷めかけた湯。
手をつけられていない衣。
そして、頑なに椅子へ座り続けている瑶月。
数秒の沈黙。
やがて劉晟は、たった一言だけ告げた。
「入れ」
瑶月は顔を上げた。
けれど、椅子から動く気はない。
「お断りします」
即答だった。
「……」
沈黙。
劉晟は瑶月を見つめる。
瑶月も負けじと睨み返す。
しばらくして。
劉晟が、ほんの小さく息を吐いた。
「……そうか」
そう呟くと、瑶月の前まで歩いてくる。
「……?」
瑶月が眉を寄せた、その瞬間。
「え?」
身体が浮いた。
気づけば、劉晟の肩に担がれている。
「ちょ、何――」
そのまま。
どぼんっ。
「――っ!?」
瑶月は服を着たまま、桶の中へ入れられた。
「な、何するの!!」
あまりにも突然のことで、瑶月は完全に混乱していた。
髪も衣も、すべて湯に浸かっている。
劉晟はそんな瑶月を振り返ることもなく、淡々と告げた。
「これで入るしかないだろ」
「…………!」
あまりにも横暴な言い分に、瑶月は言葉を失った。
劉晟はそのまま下女たちへ視線を向ける。
「後は頼んだ」
「はい」
それだけ言い残すと、劉晟はすぐさま部屋を出ていった。
「……」
残された瑶月は、湯の中で呆然と座り込んでいる。
濡れた髪から、ぽたり、と雫が落ちた。
「……なんなの、あの人……」
怒りに震えながら、瑶月は去っていった劉晟の背中を睨みつけた。
翌朝。
劉晟が用意した衣に身を包んだ瑶月は、劉晟と向かい合っていた。
「小雪をどこにやったの!」
「……」
「小雪を傷つけたら、絶対に許さないから!」
劉晟は何も答えない。
ただ、瑶月を静かに見ている。
その態度が、瑶月の苛立ちをさらに煽った。
「聞いているの!?」
すると劉晟は、ようやく口を開いた。
「連れてこい」
それだけだった。
劉晟の側に控えていた男が、軽く手を上げる。
「はいよ〜」
白虎だった。
白虎は瑶月の横を通り過ぎようとする。
その瞬間。
瑶月が、ぎろりと白虎を睨みつけた。
「……っ」
白虎の身体が、わずかに震える。
――怖ぇ。
声には出さず、心の中で呟いた。
やがて。
「お嬢様!」
聞き慣れた声がした。
瑶月が振り向く。
そこには、白虎に連れられてきた小雪が立っていた。
「小雪!」
瑶月はすぐに駆け寄った。
清潔な衣。
整えられた髪。
艶のある肌。
昨日まで戦場にいたとは思えないほど、身綺麗にされている。
どうやら小雪も、自分と同じような扱いを受けたらしい。
「怪我は?」
「ありません、お嬢様」
「本当に?」
「はい」
瑶月は小雪の腕や肩を確認する。
傷はない。
それを確かめて、ようやく少しだけ息を吐いた。
そして瑶月は小雪を自分の背後へ隠すように立つ。
まるで、劉晟から小雪を守るように。
「……」
その様子を、劉晟は黙って見ていた。
瑶月は劉晟を睨みつける。
「私をここに連れてきたの、どういうつもり?」
劉晟は答えない。
しばしの沈黙。
やがて、ほんの一呼吸置いて。
「……とくに」
「…………は?」
瑶月の眉が跳ね上がった。
「とくにって……何?」
劉晟はそれ以上、何も言わなかった。
その時だった。
扉の外から、兵士が小走りで入ってきた。
「将軍」
兵士は劉晟のもとへ駆け寄ると、身を屈めて耳打ちをする。
「……」
劉晟は黙って聞いていた。
手の中の茶杯へ視線を落としたまま、表情ひとつ変えない。
瑶月は何も尋ねなかった。
ただ、じっと劉晟を見つめている。
何を聞かされたのか。
何が起きたのか。
それを探るように、その横顔を静かに見つめていた。
やがて兵士が一礼し、部屋を出ていく。
劉晟はしばらく茶杯を見つめたままだった。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
視線が瑶月と重なった。
「平陽にいた朔国軍は、撤退した」
「……」
瑶月の瞳がわずかに揺れる。
平陽に残っていた朔国軍。
それが撤退したということは――
自分たちは、完全に敵地へ取り残されたということだ。
劉晟は茶杯を卓上へ置いた。
「助けは来ない、瑶月」
静かな声だった。
けれど、その一言は重く瑶月の胸へ落ちた。
瑶月は何も答えなかった。
ただ、目の前にいる敵将を静かに見つめていた。
劉晟と向かい合っていても、埒が明かない。
そう判断した瑶月は、小雪を連れて部屋を出た。
その後ろには、数人の下女たちが付き従っている。
屋敷の中を歩いていると、ふと庭先に目が留まった。
そこには、十人ほどの幼い子供たちが庭に敷かれた敷物の上に座り、書を読んでいる。
「……」
瑶月は足を止めた。
――劉晟の子供?
そんな考えが頭をよぎる。
これほど大きな屋敷だ。
子供が十人いても不思議ではない。
それにしても――
屠城を行うほど冷酷な男でありながら、好色まで兼ね備えているなんて。
さすがは劉晟。
瑶月は心の中で、皮肉めいた笑みを浮かべた。
その時だった。
後ろを歩いていた下女たちの声が、微かに聞こえてきた。
「平陽の戦で、また孤児が増えましたね」
「ええ……」
「今度は何人くらいになるのでしょう」
「……」
瑶月の足が止まった。
孤児。
その言葉が、頭の中に引っかかる。
先ほどの子供たちへ、もう一度目を向けた。
書を読む子。
隣の子に教えている子。
まだ幼いながらも、皆静かに机へ向かっている。
瑶月は振り返った。
「……あの子供たちは、劉晟の子供ではないの?」
下女が驚いたように目を瞬かせる。
「いいえ」
「では、誰なの?」
「戦争孤児です」
「……孤児?」
「はい」
下女は庭の子供たちを見つめながら続けた。
「戦で親を亡くした子供たちを、こちらで預かっているのです」
「……」
「読み書きや算術を教えたり、手仕事を覚えさせたりして、将来、自分たちの力で生きていけるようにしております」
「そう……」
瑶月は再び庭へ目を向けた。
子供たちは何も知らず、穏やかに書を学んでいる。
その光景を、瑶月は黙って見つめた。
胸の奥が、ざわついていた。
――あの男が?
屠城を行った、冷酷非道な敵将。
自分の家族を奪った男。
その男が。
戦争で親を失った子供たちを、自分の屋敷で匿っている。
にわかには、信じられなかった。




