月、攫われる
「劉滄燼!」
長淵の側近の一人が、声を上げた。
その名を聞いた瞬間。
瑶月の頭の中が、真っ白になった。
――劉滄燼。
知らないはずがない。
東州を奪い、沈家を滅ぼしたとされる男。
自分がずっと憎み続けてきた、あの男。
目の前にいる黒衣の男が――
劉晟だった。
「沈瑶月!」
別の側近が怒鳴る。
「お前は裏切ったのか!」
「この裏切り者め!」
次々と浴びせられる言葉。
「……違う」
瑶月の唇が震えた。
何が起きているのか、理解できない。
自分はただ、この男に助けてもらった。
怪我をしていたから、手当てをした。
それだけだった。
なのに。
その男が――
自分が何年も憎み続けてきた敵将だった。
瑶月は、ゆっくりと劉晟を見上げる。
先ほどまで、自分を野犬から守っていた男。
そして今。
目の前にいるのは、家族を奪った男。
「……この男が……」
瑶月の声が、かすかに震えた。
その時だった。
「この裏切り者が!」
一人の側近が怒りに任せ、瑶月へ斬りかかった。
「――!」
瑶月が身を竦める。
――カンッ!
甲高い金属音が響いた。
振り下ろされた刀が、弾き飛ばされる。
劉晟の矛が、その刃を受け止めていた。
「貴様……!」
側近たちの怒りが、さらに膨れ上がる。
敵軍の将軍が。
劉滄燼が。
沈瑶月を庇った。
それだけで十分だった。
「殺せ!」
「逃がすな!」
次々と武器が抜かれる。
その瞬間、劉晟が瑶月の身体を抱え上げた。
「え……?」
状況を理解する間もない。
劉晟はそのまま馬へ乗った。
「お嬢様!」
小雪の声が響く。
振り返ると、小雪もまた別の男に抱え上げられ、もう一頭の馬へ乗せられていた。
「待って!」
瑶月が叫ぶ。
だが、馬はすでに駆け出していた。
土煙が舞う。
遠ざかっていく景色。
その瞬間――
髪に飾っていたものが、ふっと外れた。
カラン。
白玉の簪が地面へ落ちる。
馬蹄に踏まれ、白玉が砕けた。
「……!」
長淵の目に、それが映った。
瑶月へ贈った簪。
彼女が、ずっと髪に挿していた簪だった。
長淵が馬を進めようとする。
「追うぞ!」
しかし、側近がすぐに手綱を掴んだ。
「殿下!」
「離せ!」
「なりません!」
側近の声が響く。
「あなたは王太子です!」
その言葉に、長淵の動きが止まった。
遠ざかっていく二頭の馬。
その先にいるのは、敵国の将軍。
そして――
瑶月。
長淵はただ、その姿を見つめることしかできなかった。
地面には、砕けた白玉の簪だけが残されている。
十七歳の誕生日を迎える、わずか一日前の出来事だった。




