命の縁
その日の夕餉は、いつもより静かだった。
向かいにいるのは小雪だけ。
唐懐がいない食事なんて、いつぶりだろう。
「今日は唐懐さん、いないのですね」
「そうね」
瑶月は箸を動かしながら、何気なく答えた。
いつもなら――
「今日の漬物はな、昨日のよりうまいぞ」
だとか。
「聞いたか? 今日、あの兵士が――」
だとか。
軍営で起きた他愛のない話を、楽しそうに聞かせてくれる。
そんな唐懐がいないだけで、食事は驚くほど静かだった。
その時。
「なあ、聞いたか?」
横から、兵士たちの話し声が聞こえてきた。
「なんだ?」
「今日の作戦で、第六隊が壊滅状態らしいぞ」
「……第六隊?」
瑶月の箸が止まった。
第六隊。
そこは――
「唐懐さんが所属している隊……」
小雪が呟く。
次の瞬間。
ガタンッ。
瑶月は勢いよく立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れる。
「第六隊の負傷兵は、どこへ運ばれましたか?」
兵士たちのもとへ駆け寄る。
その声は、普段の瑶月からは想像できないほど切迫していた。
「え、あ……西の天幕だ」
「ありがとうございます!」
最後まで聞き終えるより早く、瑶月は走り出していた。
「お嬢様!」
小雪も慌てて後を追う。
走る。
ただひたすらに。
足がもつれそうになっても、止まらない。
視界が滲んだ。
涙が頬を伝う。
それを拭う余裕すらなかった。
唐懐の笑顔が、何度も頭の中に浮かんでくる。
豪快な笑い声。
いつもの饅頭。
その上に乗せられる、たっぷりの漬物。
――唐懐も、死んでしまうの?
胸が締めつけられる。
――もう、あの漬物は食べられないの?
考えがまとまらない。
怖い。
嫌だ。
また誰かを失うのは。
もう――
失いたくない。
西の天幕が見えた。
瑶月は勢いよく幕を開けた。
「……っ」
中には、何人もの軍医がいた。
負傷兵が次々と運び込まれている。
床には血が流れ、薬品の匂いと血の匂いが混ざっている。
あまりにも多い。
負傷兵の数が。
瑶月は息を整える間もなく、辺りを見回した。
「唐懐……」
いた。
天幕の隅。
右腕の付け根から胴体にかけて、深い傷を負っている。
「唐さん!」
瑶月は駆け寄った。
「意識はある?」
返事がない。
「唐懐さん、聞こえる?」
瑶月が肩に手を置く。
その瞬間。
「……よう、げつ……」
かすかな声。
「聞こえてる……」
瑶月の目から、また涙が落ちた。
けれど――
次の瞬間には、その目から感情が消えた。
軍医の目だった。
「小雪、止血帯」
「はい!」
「そこを押さえて。出血量が多い」
「はい!」
瑶月の手が動く。
傷を確認する。
出血の状態を見る。
必要な薬を指示する。
迷いはなかった。
さっきまで涙を流していた少女と、同じ人物とは思えないほどに。
瑶月は唐懐の傷に手を当てた。
「唐さん」
「……ん?」
「絶対に寝ないで」
声だけは、僅かに震えていた。
「私が助けるから」
その言葉を聞いた唐懐は、苦しそうに笑った。
「……はは」
「何がおかしいの」
「いや……」
唐懐は息を整えながら、瑶月を見る。
「やっと……軍医らしい顔になったな、ってよ」
「……喋らないで」
「へいへい」
瑶月は唇を噛んだ。
そして、再び傷へ向き直る。
「なあ……瑶月」
今にも消えてしまいそうな声だった。
「喋らないで」
瑶月は手を止めない。
傷口を確認し、出血の状態を見ながら処置を続ける。
「ふふ……」
唐懐が小さく笑った。
「俺、実は妹がいるんだ」
「喋らないでって言ってるでしょう!」
思わず強い声が出た。
今は傷を処置することだけに集中したかった。
話をしている場合ではない。
けれど。
唐懐は、まるで瑶月の言葉が聞こえていないかのように続けた。
「妹は……東州に住んでいたんだ」
瑶月の手が止まった。
「……」
呼吸が浅くなる。
東州。
その言葉だけで、胸の奥に封じ込めていた記憶が蘇る。
炎。
血。
悲鳴。
倒れていく人々。
そして――
自分の手で救った、あの人々。
唐懐が静かに続ける。
「あの日……俺の妹も、そこにいた」
瑶月は何も言えなかった。
手にしていた医療器具が、僅かに震える。
「……」
唐懐は苦しそうに息を吐いた。
「俺は、妹が生きてるのかも分からなかった」
瑶月は顔を上げられない。
「でもな……」
唐懐の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「生きてたんだ」
その言葉に。
瑶月の胸が大きく揺れた。
「東州から逃げてきた民の中にいた」
「……」
「二百人ほどが……助けられたって聞いた」
瑶月の目が、ゆっくりと見開かれる。
「その中の一人だった」
唐懐は、瑶月を見つめた。
「お前が助けたんだろ?」
瑶月は答えられなかった。
ただ、震える手で唐懐の傷を押さえ続けた。
唐懐は小さく笑った。
「だからな……」
「……もう喋らないで」
今度は、弱々しい声だった。
「……死なないでよ」
瑶月の目から、一滴の涙が落ちた。
唐懐は目を細めた。
そして――
「……ああ」
小さく頷いた。
「そうだな」
長年、軍営で暮らしてきた俺は、東州にいる妹と手紙のやり取りをしていた。
妹は東州の男に嫁いでいた。
遠く離れた場所で暮らす俺にとって、それだけが心配だった。
けれど、手紙が届くたびに、
――元気に暮らしている。
――旦那様も優しい人だ。
そんな言葉が綴られていた。
短い手紙だった。
けれど、その一言が届くたび、俺は胸の内から喜びを感じていた。
妹は生きている。
幸せに暮らしている。
その事実を確かめられるだけで、俺は安心して軍に身を置いていられた。
次の手紙も、きっと届く。
そう思っていた。
あの日は雨が降っていた。
土砂降りだった。
軍営の中を、一人の兵卒が血相を変えて走っている。
「東州――!」
何かを叫んでいる。
けれど、雨音があまりにも激しく、声が掻き消されて聞き取れない。
「東州、山賊に――」
足が止まった。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「……何だ?」
聞き返した声は、自分でも驚くほど低かった。
兵卒が息を切らしながら、もう一度叫ぶ。
「東州、山賊に屠城されし!」
意味が分からなかった。
いや。
分かりたくなかった。
雨の音だけが、やけに大きく聞こえる。
周囲の兵士たちの声も、馬の嘶きも、すべて遠ざかっていく。
それでも兵卒は、さらに声を張り上げた。
「東州が――山賊に屠城されました!」
気づいた時には、俺は兵卒の胸ぐらを掴んでいた。
「……もう一度言ってみろ」
「ひっ……」
「もう一度だ!」
自分でも分かっていた。
声が震えている。
指先に力が入り、掴んだ布が軋む。
兵卒は怯えながら、それでも口にした。
「東州は……屠城されました」
その言葉が、雨音よりもはっきりと耳に残った。
妹は東州にいる。
唐美は、あの街にいる。
俺の手紙を待っているかもしれない。
次の手紙を書いている途中かもしれない。
そんな考えが、次々と浮かんでは消えた。
いや。
考えるな。
まだ何も分かっていない。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥では別の声が叫び続けていた。
――妹は無事なのか。
その後の数日間、軍営に入ってくる情報は混乱していた。
東州は山賊に襲われた。
いや、軍が攻め込んだらしい。
景国軍だった。
いや、正体不明の軍だった。
情報が届くたび、俺は人の輪へ駆け寄った。
妹の名を聞けるかもしれない。
生存者の中に、東州から逃げてきた者がいるかもしれない。
けれど、耳に入るのは曖昧な噂ばかりだった。
そして――
沈家の令嬢が毒を使い、敵を殺した。
そんな話まで流れてきた。
けれど、俺にとっては、そんな情報などどうでもよかった。
東州が誰に襲われたのか。
沈家の令嬢が何をしたのか。
そんなことは、今の俺には関係なかった。
妹。
ただ一人の家族。
唐美が生きているのか。
それだけが知りたかった。
他のことなど、どうでもいい。
頼む。
どうか生きていてくれ。
どこかで震えていてもいい。
傷を負っていてもいい。
誰かに支えられていてもいい。
ただ、生きていてくれ。
それだけを、何度も心の中で祈った。
けれど、祈りに答える者はいなかった。
手紙は届かない。
生存者の名簿にも、妹の名はない。
日が過ぎるほど、希望は薄れていった。
それでも俺は、妹が死んだとは思えなかった。
思いたくなかった。
そう思ってしまえば、本当に妹を失う気がした。
そして――
あの令嬢が都へ送られた日。
俺は遠くから、その姿を見ていた。
罪人の檻。
そこに入れられた、まだ十三歳の少女。
あまりにも幼かった。
こんな少女が、罪人として晒されている。
その周囲には、大勢の東州の民が集まっていた。
「どうか生きてください!」
「ありがとうございました!」
「お嬢さん……!」
罪人として連れて行かれる少女へ、民が感謝を口にしている。
俺には、それがひどく異様な光景に見えた。
――何をしている。
沈家はお前たちを守れなかったんだぞ。
家族を失った俺には、そんな怒りすら湧いた。
妹が生きているかも分からない。
それなのに、なぜこの少女に感謝する。
なぜ、罪人として連れて行かれる少女を惜しむ。
俺は檻の中の少女を睨んだ。
その時だった。
檻の近くにいた一人の女性に、目が留まった。
「……?」
見覚えがある。
まさか。
そんなはずはない。
似ているだけだ。
そう思った。
そう思わなければ、期待してしまう。
期待して、また失望するのが怖かった。
けれど、目が離せなかった。
俺は人混みを掻き分けた。
足が勝手に動いていた。
「……唐美?」
声を上げた。
女性が振り返る。
その顔を見た瞬間、息が止まった。
「……兄さん?」
聞き慣れた声だった。
何度も手紙を読み返した。
何度も思い出した。
間違えるはずがない。
「唐美……!」
生きていた。
妹が、生きていた。
その事実を理解した途端、全身から力が抜けた。
膝が崩れそうになる。
雨の日からずっと張り詰めていたものが、一気に切れた。
生きている。
唐美は、生きている。
それだけでよかった。
それだけで、胸がいっぱいになった。
俺は妹の肩を掴み、何度もその姿を確かめた。
傷はないか。
どこか痛むところはないか。
本当に唐美なのか。
触れなければ、目の前の光景が夢ではないと信じられなかった。
そして、ふと檻の中へ目を向けた。
沈家の生き残り。
十三歳の幼い令嬢。
罪人として運ばれていく少女。
けれど――
その少女は、毒を使っていた。
自分の手を汚して。
自分が罪人になると知りながら。
東州の民を守った。
俺の妹も、その中の一人だった。
あの日。
俺が雨の中で、ただ妹の生死だけを願っていた時。
あの少女は、妹を民を生かすために戦っていた。
自分の命を削りながら。
誰にも感謝されることを望まず。
ただ、目の前の人間を救うために。
俺は檻の中の少女を見つめた。
さっきまで抱いていた怒りが、跡形もなく消えていく。
代わりに、胸の奥から込み上げてきたものがあった。
安堵。
そして、言葉では言い尽くせないほどの感謝。
俺の妹は、生きている。
それは、檻の中にいる少女が守ってくれた命だった。
だから俺は。
あの日からずっと。
あの少女に、感謝している。
長い夢を見ていたような気がした。
唐懐は、ゆっくりと目を開けた。
「……」
ぼんやりと天幕の天井を見つめる。
身体が重い。
右肩から胸にかけて、鈍い痛みが残っている。
それでも――
「……生きてるのか」
そう呟いた。
視線を横へ向ける。
そこには、椅子に座ったまま、うたた寝をしている瑶月がいた。
長い髪が頬にかかっている。
その寝顔は、まだ十五歳の少女そのものだった。
「結構、深手だったと思ったんだけどな……」
唐懐は、どこか呑気にそう考えた。
すると、すぐそばにいた小雪が気づいた。
「お目覚めになりましたか?」
「ああ……」
小雪は水を差し出した。
唐懐はそれを受け取り、ゆっくりと口に含む。
喉を潤したところで、小雪が声を落とした。
「……命拾いしましたね」
そう言って、小さく微笑む。
「いやあ……ありがたいな!」
唐懐は、いつものように豪快に笑おうとした。
「ははは――」
「……っ!」
しかし。
傷が引きつった瞬間、激痛が走った。
「……」
笑い声が途中で消える。
小雪が思わず苦笑した。
「無理はなさらないでください」
「……そうだな」
唐懐は苦笑いを浮かべた。
その声で、瑶月が目を覚ました。
「……ん」
ゆっくりと顔を上げる。
そして唐懐を見る。
「起きたの?」
「ああ」
「そう……」
瑶月は、ほっとしたように息を吐いた。
ほんの少しだけ。
口元が緩む。
そして唐懐を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……漬物、待ってるよ」
唐懐は一瞬、目を丸くした。
それから――
「もちろんだ」
痛みに顔をしかめながらも、笑った。
「任せてくれ」
数ヶ月後。
軍営の出入り口に、瑶月と小雪の姿があった。
二人の前には、旅支度を整えた唐懐が立っている。
唐懐の傷は、もうかなり癒えていた。
けれど――
右腕は、以前のようには動かない。
剣を握ることも、思うように振るうこともできなくなっていた。
兵士にとって、剣を振れないということは大きい。
だから唐懐は、軍を離れることになった。
「元気でね」
瑶月が言った。
「ああ。瑶月もな」
唐懐はいつものように、豪快に笑う。
小雪が一歩前へ出た。
「唐さん。これ、道中で食べてください」
そう言って、食料の入った包みを差し出す。
「おお!」
唐懐は嬉しそうに受け取った。
「ありがとな。こりゃ助かる」
包みを軽く持ち上げる。
そして、ふと瑶月を見る。
「……」
瑶月は何かを言おうとして、少しだけ迷った。
そして。
「唐懐さん」
「ん?」
瑶月は一歩前へ出た。
ほんの少しだけ目を伏せる。
「……ありがとうございました」
深く頭を下げた。
唐懐は一瞬、目を丸くした。
それから――
「ははは!」
いつもの豪快な笑い声を上げる。
傷の痛みなど忘れたように笑って。
「俺こそだよ!」
唐懐は笑顔のまま続けた。
「ありがとうな、瑶月」
そして、少しだけ声を落とす。
「頑張れよ」
瑶月は顔を上げた。
唐懐はそれ以上何も言わなかった。
ただ、いつものように手を上げる。
「じゃあな」
「……うん」
唐懐は振り返り、軍営を出ていった。
その背中が少しずつ遠ざかっていく。
瑶月は、見えなくなるまでその姿を見つめていた。
やがて小雪が、そっと隣に並ぶ。
「……行ってしまいましたね」
「うん」
瑶月は小さく頷いた。
胸の奥に、寂しさがあった。
けれど、不思議と悲しくはなかった。
唐懐は生きている。
家族の待つ場所へ帰っていく。
それだけで――
十分だった。
唐懐を送り出した瑶月は十六歳になろうとしていた。




