白玉の簪
長淵の傷が、ようやく日常生活に支障がないほどまで回復した頃。
瑶月は、十五歳になろうとしていた。
本来なら――
家族に囲まれ、祝福されながら笄礼の儀を迎えるはずだった。
成人の証として髪を結い上げ、家族から簪を贈られる。
父も。
三人の兄も。
きっと、瑶月のために何かを用意してくれていただろう。
けれど。
今の瑶月には、それを祝ってくれる家族はもういない。
今日も彼女は、軍営の天幕の横で唐懐と並んで座っていた。
手には、いつもの粗末な饅頭。
「なあ、瑶月」
唐懐が隣から声をかける。
「成人の祝いに、なんかやろうか?」
「いらないわよ、そんなの」
瑶月は即答した。
そして、ふと唐懐の手元を見る。
「……今日は漬物、ないの?」
ほんの少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「ははは!」
唐懐が豪快に笑う。
「なんだ、欲しいのか」
「別に。あったら食べてもいいけど」
「素直じゃねえなあ」
そう言いながら、唐懐は懐から包みを取り出した。
「今日は祝いだ。多めにやる」
「え、本当に?」
「ああ」
唐懐は誇らしげに漬物を取り出すと、瑶月の饅頭の上へたっぷりと乗せた。
「ほら」
「……多すぎない?」
「祝いなんだからいいだろ」
「ふふ」
瑶月は小さく笑った。
その様子を――
少し離れた場所から、長淵が見ていた。
瑶月が十五歳になる。
そのことを、長淵は以前から知っていた。
だから。
ずっと前から、一つの簪を用意していた。
上質な玉を使い、派手すぎず、品のあるもの。
軍営で過ごす瑶月が身につけても邪魔にならないよう、装飾は極力抑えた。
それでも、少女が成人を迎える日に贈るものとして恥ずかしくないように。
何度も選び直した。
何度も作り直させた。
けれど――
まだ、長淵の手元にある。
渡せずにいる。
今の瑶月に、自分から簪を贈ってもいいのだろうか。
王太子と、罪により貴族から庶民へ落とされた少女。
かつて妃候補だったとはいえ、今の二人の間には明確な身分の差がある。
それに。
何より――
その先を考えるのをやめた。
唐懐と笑う瑶月を見つめながら、長淵は手の中の包みへ視線を落とす。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……贈っても、いいのだろうか」
返事はなかった。
長淵は、簪を握ったまま立ち尽くしていた。
夜。
瑶月は一日の仕事を終え、自分の天幕へ戻ってきた。
いつものように、寝床へ向かおうとして――
ふと、足を止めた。
「……?」
寝床の上に、見慣れないものが置かれている。
上質な箱だった。
小さな箱。
まるで、簪を一本だけ収めるために作られたような大きさだった。
瑶月はそっと手を伸ばす。
蓋を開ける。
「……」
中に入っていたのは――
一本の簪。
白く滑らかな玉で作られた、美しい簪だった。
派手な装飾はない。
けれど、玉そのものが持つ光沢と、繊細な細工。
軍営で身につけても邪魔にならないよう、飾りは控えめに作られている。
瑶月は、しばらくそれを見つめていた。
誰から贈られたものなのか。
考える必要もなかった。
この軍営で、これほど上等な品を用意できる人物など――
一人しかいない。
「……長淵様」
小さく名前を呟く。
瑶月は簪を手に取った。
白玉が、蝋燭の明かりを受けて淡く輝く。
十五歳。
本来なら、家族に祝われるはずだった日。
父から。
兄たちから。
母から。
祝福されるはずだった。
けれど、その代わりに今、自分の手の中には王太子から贈られた簪がある。
瑶月はしばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます」
誰もいない天幕の中で、そう呟いた。
瑶月は簪を髪に挿した。
白玉の簪が、月明かりを受けて静かに光る。
鏡に映った自分を見つめる。
ほんの少しだけ。
昔の自分に戻ったような気がした。
十五歳になった瑶月の日々は、変わらなかった。
戦の頻度こそ減ったものの、朔国軍はいまだ東州を取り戻せずにいた。
長く続く戦。
疲弊していく兵。
そして、少しずつ失われていく命。
そんな中、瑶月が戦の後に向かう場所が増えていた。
戦場だった。
戦が終わったばかりの荒れ果てた大地。
血に染まった土。
折れた武器。
そして、無数の死体。
その中から、まだ息のある兵士を探す。
「こちらにまだ呼吸があります!」
「担架を!」
ほんの僅かな呼吸を見つければ、すぐに駆け寄り処置をする。
一人でも多く。
一人でも生きて帰すために。
自軍の消耗を少しでも減らすためだった。
けれど、戦が終わった後の戦場は決して安全ではない。
伏兵が潜んでいることもある。
崩れた地面に足を取られることもある。
死んだと思っていた敵兵が、突然襲いかかってくることだってある。
そのため、長淵は何度も瑶月を止めた。
「危険すぎる」
「承知しております」
「なら、なぜ行く」
「まだ生きている兵がいるからです」
そう言われてしまえば、長淵には止めることができなかった。
結局、長淵は折れた。
その代わり――
「小雪に武器を持たせる」
「え?」
「お前の護衛をさせる」
それが、長淵が出した条件だった。
小雪はそれまで護身程度の暗器しか扱えなかったが、これを機に正式に武器を携帯することを許された。
瑶月と長淵の距離は、相変わらず変わらない。
瑶月は王太子である長淵に一定の礼を払い、長淵もまた、それ以上踏み込むことはなかった。
ただ――
瑶月の髪には、白玉の簪が挿されている。
長淵が贈ったものだ。
時折、長淵がその簪へ視線を向け
そして、誰にも気づかれないほど僅かに口元を緩める。
そのことを、小雪は知っていた。
そしてもう一つ。
瑶月以外の者たちも、薄々気づいている。
長淵が、何かと瑶月の近くにいる理由を。
――ただ、少しでも長く瑶月と一緒にいたいのだろう。
今日も二人は、軍の鍛錬所へ来ていた。
「鍛錬中に怪我をする兵士がいるかもしれないからな」
長淵はそう言った。
瑶月は疑うことなく頷いた。
だが、小雪も。
長淵の側近も。
皆、分かっている。
別に瑶月がいなくても、軍医を呼べば済む話なのだ。
けれど、長淵は瑶月を連れてきた。
ただ、それだけだった。
瑶月は少し離れた場所から、鍛錬する兵士たちを眺めていた。
剣を構える。
踏み込む。
身体を捻る。
相手との距離を詰める。
その動きを、ぼんやりと目で追っていた。
――その時だった。
「……」
瑶月の脳内に、古い記憶が蘇った。
あの日。
沈家を襲った山賊たち。
血。
怒号。
逃げ惑う人々。
そして――
剣を握っていた、あの男たち。
瑶月は、目の前の兵士たちを見つめた。
「……似てる」
無意識に呟いた。
「お嬢様?」
小雪が振り向く。
「……ううん」
瑶月は首を横に振った。
けれど、視線は鍛錬する兵士たちから離れない。
あの日の山賊たちも。
今、目の前で鍛錬している兵士たちも。
身体の使い方が、どこか似ている。
一定の型。
足の運び。
剣を振るう時の身体の捻り。
山賊ならば、もっと我流の動きになるものではないのだろうか。
では――
山賊たちも、軍人と同じような鍛錬をしていたのだろうか。
そんな疑問が、瑶月の胸に引っかかった。
考えてみれば。
あの日、東州を襲った者たちは、あまりにも統率されていた。
ただの山賊にしては。
あまりにも――
手際が良すぎた。
瑶月は黙って兵士たちを見つめる。
まだ、答えは出ない。
けれど。
あの日からずっと胸の奥に沈んでいた違和感が、また一つ。
形を持ち始めていた。




