烽火の日々
先輩軍医たちと共に、次々と天幕へ運び込まれてくる負傷兵の手当てをする。
「小雪、包帯」
「はい!」
小雪から包帯を受け取り、瑶月は傷口へ手を伸ばした。
いつからだろう。
自分の手が、これほど血にまみれていたことにも気づかなかった。
この一年間、懸命に医術を学んできた。
できる限りの準備をした。
戦場へ出る覚悟も、とうに決めていた。
けれど――
戦というものは、瑶月の想像を軽々と超えてきた。
前線が苛烈であればあるほど、後方もまた悲惨になる。
次々と運び込まれてくる負傷兵。
薬が足りない。
人手が足りない。
時間が足りない。
そして何より――
救える命よりも、救えない命の方が多い。
目の前の傷。
止まらない血。
兵士たちの苦痛に満ちた声。
それらを聞くたび、瑶月の中で別の光景が重なった。
血に染まった沈家。
倒れた母。
切り落とされた父の右腕。
兄たちの姿。
あの日の匂いまで、鼻の奥に蘇ってくる。
目の前にいるのは、あの日の家族ではない。
ここは沈家ではない。
この兵士は、父上ではない。
分かっている。
分かっているのに、傷口へ触れる指先が一瞬だけ強張った。
「……違う」
瑶月は小さく呟いた。
「今は、あの日ではない」
目の前の兵士が苦しそうに呻く。
その声に引き戻され、瑶月は再び傷口へ視線を落とした。
「大丈夫……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「大丈夫よ。私はまだ救える」
そう言い聞かせながら、次の負傷兵へ手を伸ばす。
けれど、手が動かなかった。
ほんの一瞬。
次に何をすべきか、分からなくなった。
止血を先にするのか。
薬を使うのか。
隣の兵を診るべきなのか。
考えればすぐに分かるはずのことが、ひどく遠く感じられた。
「……瑶月」
背後から、先輩軍医の声がした。
「休んできなさい」
「いえ、まだ――」
反射的に答えた。
まだ救える。
まだ手を動かせる。
まだ、ここにいなければならない。
そう思った。
けれど、先輩軍医は瑶月の顔をじっと見つめていた。
「判断が遅れている軍医は、今は必要ない」
責める声ではなかった。
だからこそ、瑶月にはその言葉が痛かった。
自分でも分かっていた。
手が止まった。
判断が遅れた。
目の前の負傷兵を見ながら、別の誰かを見ていた。
父を。
母を。
兄たちを。
救えなかった家族の姿を、目の前の兵士に重ねていた。
このまま続ければ、また誰かを救えない。
それどころか、自分の迷いで救える命まで失うかもしれない。
その事実を認めることが、何より苦しかった。
「……申し訳ありません」
瑶月は静かに頭を下げた。
血に濡れた手を見つめる。
その手は、まだ動かせる。
まだ救える命もある。
けれど今の自分は、ここに立ち続けてはいけない。
瑶月はゆっくりと手を止めた。
天幕を出る直前、振り返る。
そこには、苦しみながらも生きようとしている兵士たちがいた。
置いていくことが、ひどく恐ろしかった。
それでも瑶月は、天幕を後にした。
天幕を出た瑶月は、その横に腰を下ろした。
しばらくして、小雪が持たせてくれた粗末な饅頭を取り出す。
食欲はなかった。
けれど、何か口に入れなければならない。
一口。
味のしない饅頭を、ゆっくりと噛んだ。
その時だった。
「なぁ」
不意に声をかけられた。
「……?」
顔を上げる。
そこには、一人の兵士が立っていた。
年の頃は、父とそう変わらない。
日に焼けた顔。
幾つもの傷跡。
けれど、その目には妙な明るさがあった。
「あんたさんが、沈瑶月さんか?」
「……はい」
瑶月は淡々と答えた。
「そうか」
男はそれだけ言うと、瑶月の隣にどかりと腰を下ろした。
瑶月は気にすることなく、再び饅頭を口へ運ぶ。
すると男は、瑶月の手元を覗き込んだ。
「知らんと思うがな」
「……?」
「饅頭には、漬物を乗せるとうまいんだぜ」
そう言って、男は自分の持っていた漬物を一切れ取り出した。
そして何の遠慮もなく、瑶月の饅頭の上に乗せる。
「ほら」
食ってみろ。
そう言わんばかりに、顎を軽く上げた。
瑶月は漬物を見つめた。
そして、言われるまま口へ運ぶ。
「……!」
思わず目を見開いた。
塩気が、疲れ切った身体に染みていく。
ただの饅頭だったはずなのに。
少しの漬物が加わっただけで、驚くほど美味しく感じた。
瑶月は思わず、隣の男を見る。
男は笑っていた。
「だろ?」
瑶月は小さく頷いた。
男は満足そうに笑う。
「よろしくな、瑶月」
一呼吸置いて。
「俺は唐懐だ」
軍医として従軍して、一年余り。
業務上、言葉を交わす兵士はいる。
薬を届けてくれる者。
負傷兵を運んでくる者。
処置について尋ねてくる者。
けれど――
このように、何の用もなく話しかけてくる者は初めてだった。
なにせ、瑶月は元貴族であり、罪人でもある。
そして何より――
「毒を使った軍医」
そう陰で呼ばれていることを、瑶月自身も知っていた。
そんな自分に、わざわざ近づきたいと思う者などいない。
だからこそ、どう接すればいいのか分からなかった。
瑶月は戸惑いながら、男へ向き直る。
「……瑶月です。よろしくお願いします」
声が、ほんの少し震えた。
すると唐懐は、あっけらかんと笑った。
「はは。知ってるよ」
「……え?」
「ここじゃ、あんたさんのことを知らん奴の方が少ないだろ」
そう言って、唐懐は肩をすくめる。
「そんな畏まらんでいい」
あまりにも自然な言葉だった。
まるで――
瑶月が元貴族だろうと。
罪人だろうと。
毒を使った軍医だろうと。
そんなことは、どうでもいいと言わんばかりに。
戦は、変わらず続いていた。
すでに数ヶ月にも及ぶ長い戦いになっている。
軍医としての仕事にも、ようやく慣れてきた。
戦場の血にも。
兵士たちの呻き声にも。
目の前で消えていく命にも。
以前ほど、動揺することはなくなっていた。
それでも、戦場に慣れることと、命に慣れることは違う。
瑶月は今日も、目の前の命を救うために手を動かしていた。
夕食の時間。
最近は、唐懐と小雪と三人で食事をすることが多くなっていた。
唐懐は今日も、何やら楽しそうに話している。
「それでな――」
瑶月は饅頭を口に運びながら、半分ほど聞き流していた。
その時だった。
少し離れたところにいた兵士たちの会話が耳に入った。
「城門、落とせねぇな」
「ああ。あまりにも硬すぎる」
「聞いた話じゃ、劉滄燼が作った陣形らしいぞ」
「なるほどな。道理で崩せねえわけだ」
瑶月の手が止まった。
城門を落とす。
簡単なことではない。
敵軍が城を守る以上、当然のことだ。
ましてや、あの劉晟が守っているのであれば、なおさらだろう。
そう思った。
――けれど。
胸の奥に、何かが引っかかった。
瑶月は、ゆっくりと顔を上げる。
城門。
その言葉を、頭の中で何度も繰り返す。
そして――
あの日の光景が、蘇った。
永平十六年。
東州。
沈家。
あの日。
城門は――
どうだった?
山賊が城内へ入り込んでいた。
父たちは戦っていた。
城下には敵が溢れていた。
けれど。
そもそも――
どうやって、あれほどの数の敵が城内へ入ったのだろう。
瑶月の瞳が揺れた。
あの日の自分は、ただ生き残ることに必死だった。
何が起きているのか理解する暇もなかった。
だから、考えもしなかった。
山賊が突然、城内に現れた。
そう思っていた。
けれど――
城門を突破することさえ容易ではないのなら。
なぜ、あの日は、あれほどの敵が、あれほど突然、城内にいたのだろう。
瑶月の胸が、ざわつき始めた。
もしかすると、何か見落としているのかもしれない。
けれど、だからといって、劉晟への疑いが生まれたわけではなかった。
東州を襲ったのは、劉晟率いる景国軍だ。
その事実を、瑶月は疑っていない。
ただ、敵がどのように城内へ侵入したのか。
なぜ沈軍がそれを防げなかったのか。
その部分だけが、どうしても腑に落ちなかった。
「……おかしい」
小さな声が漏れる。
「お嬢様?」
小雪が不思議そうに顔を覗き込む。
瑶月はすぐには答えなかった。
ただ、遠くに見える城壁を見つめていた。
「いえ……」
やがて、瑶月は小さく首を振る。
「まだ、何も分からないわ」
なぜ東州が襲われたのか。
なぜ沈家が滅びなければならなかったのか。
その答えは、今も分からない。
けれど、あの日の出来事には、自分の知らない何かがあったのかもしれない。
そう思っただけだった。
瑶月は再び饅頭へ視線を落とす。
胸の奥に残った違和感は、消えなかった。
違和感の正体を探るため、瑶月は目の前の唐懐に尋ねた。
「唐懐さん」
「ん?」
「城門を通らずに、城内へ入る方法ってあるの?」
「……は?」
唐懐は、ぽかんと瑶月を見た。
「そんなの、普通はねえよ」
「では、他には?」
「そうだな……隠密行動とかなら、あり得なくもないけどな」
「隠密行動?」
「ああ」
唐懐は少し考えてから、説明する。
「夜のうちに少人数で城壁まで近づいて、足掛かりをつけて登るんだ」
「少人数……」
「人数が多けりゃすぐに気づかれる。だから軍じゃ、まず使わないな」
瑶月は黙り込んだ。
――違う。
あの日の東州にいた敵は、少人数ではなかった。
城下を埋め尽くすほどの数だった。
そんな大勢が夜のうちに城壁を越えたのなら、気づかないはずがない。
瑶月が考え込んでいると、唐懐が何気なく笑った。
「まあ、城門を開けて通してくれれば、一番楽なんだけどな。ははは」
「…………」
瑶月の手が止まった。
城門を――
開けて。
通す。
つまり。
「……裏切り?」
小さく呟く。
もし、あの日の城門が誰かによって意図的に開けられていたのなら。
山賊は、城壁を越える必要などなかった。
ただ、門を通ればよかった。
けれど――
瑶月は、ふと顔を上げた。
「……いや」
何かがおかしい。
東州の城門から、十里ほど離れた場所には――
父の率いる沈軍の軍営があったはずだ。
あれほどの数の山賊が城門へ向かっていたのなら。
その大軍が、沈軍の目をかいくぐって城内へ入り込むなど、本当に可能だったのだろうか。
ましてや。
父は東州を守る将軍だった。
軍営には多くの兵がいた。
警戒もしていたはずだ。
「……おかしい」
また、同じ言葉が口から漏れた。
城門を開けた者がいたのかもしれない。
けれど、それだけでは説明がつかない。
では、どうやって。
なぜ。
そして――
誰が。
瑶月は考え続けた。
いくら考えても、答えは出ない。
ただ。
これまで自分が信じていた「あの日の出来事」とは別の可能性が、確かに見え始めていた。
それはまだ、細く、頼りない糸だった。
けれど瑶月は、その糸を手放さなかった。
胸に生まれた違和感を、瑶月はひとまず胸の奥へ押し込んだ。
今はまだ、何の証拠もない。
ただの推測だ。
それでも――一度生まれた疑問は、簡単には消えてくれなかった。
瑶月は何事もなかったかのように、再び軍医としての日々を送った。
ここ数日は、戦況も落ち着いている。
おそらく、両軍ともに疲弊しているのだろう。
何ヶ月にも及ぶ戦いだ。
兵士たちの顔にも、以前ほどの余裕はない。
それでも、戦は終わらなかった。
そして――
東州も、いまだ景国の手にあった。
瑶月はふと、東州の方角へ目を向けた。
かつての東州を知っている。
人で溢れた城下。
活気のある市場。
家族と歩いた道。
笑い声の絶えなかった街。
けれど今、その街に残っているものは少ない。
人も。
家も。
かつての賑わいも。
それでも劉晟は、東州を手放さない。
「……なぜ?」
瑶月は小さく呟いた。
景国にとって、東州はそこまで重要な土地なのだろうか。
確かに、東州を足掛かりに朔国へ攻め込むことはできる。
けれど、東州は三方から攻撃を受けやすい。
長く守るには不利な土地だ。
もし本当に朔国へ攻め込むつもりなら――
東州を囮にして、その間に別の州へ兵を進める。
その方が、よほど合理的ではないか。
なのに。
劉晟は東州に留まり続けている。
ここまでして。
なぜ――
「東州に……何があるの?」
その疑問が頭から離れない。
屠城。
沈家の滅亡。
東州の占領。
そして、長く続く戦。
すべてが偶然とは思えなかった。
まるで――
誰かが、最初から何かを目的に動いていたような。
「…………」
瑶月は考え込んだ。
けれど、答えは出ない。
その時だった。
「瑶月さん!」
天幕の入口が勢いよく開いた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、長淵の側近だった。
いつも冷静な男の顔が、今は青ざめている。
「どうしたのですか?」
「……長淵様が」
側近は言葉を詰まらせた。
そして、瑶月をまっすぐ見つめる。
「長淵様を、お助けください」
その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
瑶月は椅子から立ち上がった。
「何があったの?」
「詳しいことは後で。すぐに来てください」
ただ事ではない。
そう判断するのに、一瞬もかからなかった。
「分かった」
瑶月は医療箱を手に取ろうとした。
だが、その前に小雪が抱え上げる。
「こちらを」
「ありがとう」
二人は側近の後を追い、天幕を飛び出した。
東州への疑問は、まだ瑶月の胸の中に残っている。
けれど今は――
目の前の命を救うことだけを考えればいい。
そう自分に言い聞かせながら、瑶月は長淵のもとへ急いだ。
側近に案内され、瑶月たちは長淵の天幕へ入った。
中にいたのは、ごく少数の人間だけだった。
軍医の責任者。
王族お抱えの医官。
いずれも、この国で最高位に近い医術を持つ者たちだ。
しかし、その二人でさえ、今は険しい顔を突き合わせていた。
「心の臓に近すぎる。抜いた瞬間、殿下が命を落とすやもしれん」
「だが、このままにしておくわけにもいかんだろう」
「抜けば死ぬ可能性がある」
「抜かずとも、傷口から血が流れ続ける」
「ならば、どうするというのだ」
張り詰めた声が、天幕の中に落ちる。
瑶月はその会話を聞きながら、奥へ視線を向けた。
そこに、長淵がいた。
座敷に座ったまま、身動き一つせずにいる。
けれど、その左胸には――
心の臓に近い場所に、一本の矢が深々と突き刺さっていた。
矢羽が、呼吸に合わせてかすかに揺れている。
瑶月の表情が強張った。
軍医が瑶月に気づき、縋るように声をかける。
「其方は、西洋の医術にも精通しているのだろう」
「はい」
「ならば、其方はどう見る?」
瑶月はすぐには答えなかった。
長淵のもとへ歩み寄り、まずその顔を見つめる。
「長淵様」
「ああ」
「意識はありますか?」
「ある」
「痛みは?」
長淵はわずかに目を伏せた。
「……もう、あまり感じない」
その答えに、瑶月の眉が寄る。
痛みがない。
それは、傷が浅いという意味ではない。
むしろ、危険な兆候である可能性もあった。
瑶月は矢に触れず、周囲から慎重に観察した。
矢羽の形。
柄の長さ。
刺さっている角度。
胸部へ入り込んでいる深さ。
どれも、目測だけでは判断できない。
瑶月は軍医へ向き直った。
「敵軍が使用している矢の見本はありますか?」
「矢の見本を?」
「はい。殿下に刺さっているものと、同じ型のものが必要です」
側近がすぐに天幕を出ていく。
その間にも、長淵の胸で矢羽が揺れていた。
誰も口を開かない。
やがて側近が、一束の矢を抱えて戻ってきた。
瑶月はその中から一本を取り出した。
重さを確かめる。
矢柄を指でなぞる。
自分の指を使い、長さを測る。
それから、手にした矢と長淵の胸に刺さった矢を、何度も見比べた。
刺さった角度を頭の中で組み立てる。
胸骨の位置。
肋骨の間隔。
心の臓までの距離。
もし、この矢が同じ長さなら。
もし、想定した角度で入り込んでいるなら。
瑶月は、ようやく口を開いた。
「……この矢は」
天幕にいる全員の視線が集まる。
「長淵様の心の臓付近まで、届いていない可能性があります」
軍医と医官の表情が、わずかに緩んだ。
だが、瑶月は続けた。
「ただし、抜く際に周囲の血管を傷つける可能性があります」
緩みかけた空気が、再び凍りついた。
「…………」
誰も口を開かない。
瑶月には、その沈黙の理由が分かっていた。
ここにいる者たちは、長淵を救いたくないわけではない。
怖いのだ。
もし矢を抜いた瞬間、長淵の命が失われたら。
その責任を負うのは、処置をした者になる。
待っているのは、王太子殺しという罪。
自分だけではない。
家族までも巻き込まれ、斬首に処される可能性がある。
だから、誰も手を出せない。
誰も、最初の一歩を踏み出せない。
かつて貴族として生きていた瑶月には、その恐ろしさが誰よりも分かっていた。
瑶月は長淵を見た。
長淵もまた、黙って瑶月を見つめている。
その瞳には、恐怖も、命令もなかった。
ただ、静かな問いだけが浮かんでいた。
――其方は、どうする。
瑶月は一歩、長淵へ近づいた。
そして、他の誰にも聞こえないよう、身を屈める。
「……私の命は、殿下と共にあります」
長淵の瞳が、大きく開いた。
瑶月はゆっくりと身体を起こす。
胸の奥で、恐怖が膨れ上がっていた。
それでも、もう迷わなかった。
瑶月は軍医たちへ向き直る。
「この矢――」
一呼吸置く。
「私が抜きましょう」




