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夜明け 2

 あの「劉晟」という名を聞いてから、数ヶ月が経った。


 あの日を境に、お嬢様は変わった。


 以前は、ほとんど食事を召し上がらなかった。


 お粥を数口。


 それだけで一日の食事を終えてしまうこともあった。


 けれど今では、出された食事をきちんと召し上がるようになった。


 最近では、間食までされる。


 「小雪、これ美味しいわ」


 そう言って菓子を頬張るお嬢様を見ると、私はつい嬉しくなってしまう。


 夜はいまだに眠れない日もある。


 それでも、以前ほど安神湯に頼ることはなくなった。


 そして何より――


 お嬢様は、再び医術書を開くようになった。


 以前よりも熱心に。


 暇さえあれば書を読み、何度も何度も傷の縫い方を練習されている。


 縫合の腕も、日に日に上達している。


 医術のことなど何も知らない私にさえ、それがわかるほどだった。


 最近では、時折訪れる長淵様との会話も増えた。


 以前は必要最低限の言葉しか交わさなかったお二人だが、今では長淵様から戦術を教わることもある。


 お嬢様は真剣な顔でそれを聞き、時には自分から質問までされる。


 私はそんな姿を少し離れたところから見ている。


 数ヶ月のお嬢様は、ただ生きていた。


 けれど今のお嬢様は違う。


 食べる。


 学ぶ。


 眠る。


 そして、戦うための術を身につけている。


 きっと、お嬢様はもう一度、生きることを選んだのだ。




 今宵も、長淵様とお嬢様は戦術について話している。


 私には難しい話ばかりなので、私はその横で、お嬢様の衣を繕っていた。


 麻布で仕立てられたお嬢様の衣は、もう何度も補修している。


 袖も、裾も、何度縫い直したことだろう。


 新しい衣をお嬢様に着ていただきたい。


 そんなことを考えていた時だった。


「なあ、瑶月」


 長淵様がお嬢様に声をかけた。


「今度、共に城下へ出かけないか?」


「……城下ですか?」


「あぁ。ここに来てから、一度も軍営の外へ出ていないだろう」


 そう言ってから、長淵様は私へ一瞥を向けた。


「小雪も、城下へ行ってみたいだろう?」


 なるほど。


 私はすぐに意味を理解した。


「お嬢様! 行ってみましょう。私も都の城下を見てみたいです!」


 お嬢様は少し考えるように黙った。


 やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「……それでしたら、長淵様。お願いできますか?」


「任せてくれ」


 短い返事だった。


 けれど――


 その声を聞いた私は、思わず長淵様の顔を見た。


 いつもの王太子様の顔ではない。


 どこか嬉しそうで、少しだけ浮き足立っている。


 その姿はまるで――


 その先は考えないようにした。




 城下へ出かける前日。


 天幕の幕が勢いよく開いた。


「お嬢様!」


 小雪が、淡い色の衣を二着抱えて駆け込んできた。


「明日、長淵様が城下へ出かけるための衣を用意してくださいました!」


 小雪の腕の中には、商家の娘が身につけるような衣が二着。


 どちらも淡い色合いで、派手ではない。


 それに合わせるように、少しばかり飾りのついた紙紐と、粗末ではあるが新しい帷帽もあった。


 瑶月はそっと、その衣に触れた。


「……綺麗ね」


 久しぶりに見る鮮やかな色だった。


 ほんの少しだけ。


 本当に、ほんの少しだけ胸が浮き立つのを感じた。


「お嬢様、絶対にお似合いですよ!」


 小雪が嬉しそうに目を輝かせる。


 そんな小雪を見て、瑶月もわずかに口元を緩めた。


「小雪」


「はい?」


「小雪の好きな方を選びなさい」


「え?」


「空色と桃色。どちらがいい?」


「んー……」


 小雪は二着を見比べる。


「空色のものも桃色のものも、どちらもお嬢様にお似合いだと思い――」


「やれやれ」


 瑶月が小さく息を吐いた。


「小雪」


「はい?」


「小雪は、どちらを着たいの?」


「……?」


 小雪は不思議そうに首を傾げる。


 瑶月は二着の衣を交互に指差した。


「これも、これも。小雪も身につけていくのよ」


「……え?」


 小雪の目が大きく開いた。


「私も……ですか?」


「当たり前でしょう?」


 瑶月は、まるで不思議なことを言っていると言わんばかりに答えた。


「明日は二人で城下へ行くのでしょう?」


 その言葉に、小雪はしばらく何も言えなかった。


 やがて――


「……はい!」


 嬉しそうに笑った。


 翌朝。


 瑶月は空色の衣を、小雪は桃色の衣を身につけていた。


 天幕の中で、小雪は瑶月の髪を整えている。


 新しい髪紐を器用に使い、長い髪を丁寧に編み込んでいく。


「できました」


 小雪がそう言うと、瑶月は立ち上がった。


「次は小雪ね」


「え?」


 今度は小雪を座らせ、瑶月がその髪に手を伸ばした。


 慣れた手つきで髪をすくい、編み込んでいく。


 小雪は少し緊張したように座っていたが、やがて鏡に映る自分の姿を見て、嬉しそうに微笑んだ。


 淡い空色と桃色の衣。


 二人の髪に結ばれた同じ髪紐。


 遠目から見れば、仲の良い姉妹にしか見えない。


 やがて支度を終え、二人は軍営の出入り口へ向かった。


 そこには、すでに長淵が立っていた。


「お待たせしました」


 瑶月の声に、長淵が振り返る。


 そして――


 一瞬、言葉を失った。


 いつもの麻布の衣ではない。


 淡い空色の衣を身にまとい、髪を綺麗に編み上げた瑶月。


 長淵はわずかに視線を逸らした。


「……似合っている」


「ありがとうございます」


 瑶月はいつものように、淡々と礼を述べた。


 長淵はそれ以上何も言わず、用意していた馬車へと二人を案内した。


 三人が乗り込む。


 やがて馬車がゆっくりと動き出した。


 瑶月にとって、久しぶりの――


 城下だった。



 馬車が都の城下に入り、ゆっくりと止まった。


 小雪が馬車内で瑶月へ帷帽をかぶせる。


「もう、私はただの瑶月なんだから。被らなくてもいいと思うけど」


「いいえ、必要です。今日は日差しが強いですもの」


 そう言いながら、小雪は帷帽の角度を丁寧に直していく。


「これで大丈夫です」


 その様子を見ていた長淵は先に馬車を降り、続いて降りようとする瑶月へ手を差し出した。


「転ばないように」


 ただ、それだけ。


 瑶月は少しだけその手を見つめ、それからそっと長淵の腕に手を添えた。


 馬車を降りる。


 目の前に広がった都の城下は、かつての東州の城下よりも遥かに賑やかだった。


 様々な露店が所狭しと並び、あちらこちらから人々の声が聞こえてくる。


 焼き菓子の甘い匂い。


 香辛料の香り。


 色鮮やかな布。


 見たことのない異国の品。


 三人は露店を一つ、また一つと覗いていった。


 その時だった。


 瑶月が、ある露店の前で足を止めた。


 そこに並んでいたのは――簪だった。


 小雪は思わず息を呑んだ。


 あの日。


 滄海様が最後に言っていた。


 ――また簪作ってやるから、泣くな。


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 けれど瑶月は何も言わない。


 一つの簪を手に取った。


 そこには、小さな桜の飾りがついていた。


「小雪」


「はい?」


「これ、小雪に似合うと思うわ」


「え……?」


 瑶月はそう言って、簪を小雪の髪に挿した。


 少し角度を直し、満足そうに頷く。


「うん。とっても似合ってる」


 その口元が――


 ほんのわずかに緩んだ。


 小さな、小さな笑み。


 けれど確かに、瑶月は笑っていた。


 小雪は胸がいっぱいになり、何も言えなくなった。


 その横で、長淵が瑶月を見る。


「瑶月は選ばなくていいのか?」


「私は必要ないです」


 そう答えて、瑶月は小雪の髪に挿した簪をもう一度眺めた。


 それで十分だと言うように。


 その日、瑶月が初めて自分の給金を使って買ったものは――


 自分のためのものではなかった。



一行は休憩を取るため、都でも名の知れた茶楼へ入った。


 さすがに一国の王太子である長淵を連れ、庶民が利用する茶楼へ入るわけにはいかない。


 人目の少ない奥の席へ案内され、三人はそれぞれ腰を下ろした。


 瑶月は久しぶりの外出を楽しむように、上品に茶を口にし、菓子を少しずつ嗜んでいる。


 長淵はそんな瑶月を、時折そっと眺めていた。


 その様子をさらに見守る小雪と長淵の側近。


 二人は顔を見合わせる。


 ――これ、もしかして。


 お互い、同じことを思った。


 けれど、口には出さなかった。


「兄様!!!」


 その穏やかな時間は、突然の大声によって終わりを告げた。


 瑶月が顔を上げる。


 そこには、長淵へ向かって駆け寄ってくる一人の少女がいた。


「明珠……!」


 長淵の声が明らかに動揺する。


 明珠。


 以前、話に聞いた明珠姫のことだ。


 そう気づいた瑶月は、すぐに立ち上がった。


 目上の者を前にして帷帽を被ったままでは失礼にあたる。


 帷帽へ手を伸ばした――その時だった。


 明珠が先に手を伸ばした。


 ぱしっ、と帷帽が払われる。


 ふわりと舞い上がった帷帽が、店内の高いところまで飛んでいく。


 その下から、瑶月の顔が露わになった。


 明珠は、その顔を見た瞬間――ほんの少し目を見開いた。


「明珠!!」


 長淵の声が響く。


 怒りを含んだ声だった。


 けれど瑶月は、そんな長淵を気にすることなく、明珠へ向かって頭を下げた。


「初めてお見かけします。瑶月と申します」


 そして、落ち着いた声で続ける。


「先ほどは明珠姫だと存じ上げず、失礼いたしました」


 瑶月はすぐに帷帽を拾い上げ、手に持つ。


 明珠はそんな瑶月をじっと見つめる。


 やがて――


「兄様。なぜ、この庶民と一緒にいるの?」


 少し苛立った声だった。


「ねぇ、あなた」


 明珠は瑶月を見る。


「兄様に付き纏っているの?」


 あまりにも容赦のない言葉に、小雪は思わず眉を顰めた。


 その瞬間。


 長淵が二人の間へ割って入った。


「今日は俺が誘ったんだ」


 普段の穏やかな声とは違った。


「彼女は関係ない」


 明珠が少し目を丸くする。


 兄が自分に対して、これほど強い口調を使うのは珍しかった。


「ふーん。あっ、そう」


 明珠は面白くなさそうに瑶月を一瞥した。


「しらけたわ」


 そう言うと、連れていた者たちへ振り返る。


「もう帰りましょう」


 明珠はそのまま茶楼を出ていった。


 残された席には、妙な静けさだけが残った。


 瑶月は何事もなかったかのように、冷めかけた茶へ手を伸ばした。



 茶を楽しむ時間もひと段落した頃だった。


 茶楼の入口から、一人の兵士が駆け足で入ってきた。


「王太子様!」


 息を切らしながら、長淵の前で跪く。


「取り急ぎ、ご報告したいことがございます」


「何だ?」


 兵士は周囲を一瞥してから、長淵へ耳を寄せた。


 何事かを小声で告げる。


 その瞬間――


「……なんだと?」


 長淵の表情が変わった。


 そして、思わず声を荒らげる。


「東州が……劉晟に鎮定された?」


 その名が、瑶月の耳に届いた。


 ――劉晟。


 次の瞬間。


 手にしていた茶器が、指から滑り落ちた。


 ガシャン――


 乾いた音が、茶楼の中に響き渡る。


 瑶月は、何も言わなかった。


 ただ、落ちた茶器を見つめていた。


 小雪が慌てて瑶月を見る。


「お嬢様……?」


 返事はない。


 瑶月の指先が、かすかに震えていた。





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