夜明け 1
近頃のお嬢様は、少しずつ食べられるものが増えてきた。
まだ量は少ない。
それでも以前のように粥だけではなく、野菜にも箸を伸ばすようになった。
笑うことは、まだない。
けれど、以前より口数は増えたように思う。
それだけで、私は嬉しかった。
そんなお嬢様が、長淵様から頂いた茶を口にしている。
しばらくして、お嬢様が私を呼んだ。
「小雪」
「どうされました?」
「このお茶、美味しいわ」
そう言うと、お嬢様は私の前に茶を注いだ。
「お嬢様、私はこれを頂けません。お嬢様がお飲みください」
「小雪」
お嬢様は、少しだけ困ったように私を見た。
「私はもう、ただの瑶月よ」
「……」
「あなたと一緒なの。ほら、飲んでごらん」
そう言って、私に茶を差し出した。
私は茶碗を見つめた。
昔から、お嬢様は私に優しかった。
皆の前では、お嬢様と下女。
それは仕方のないことだった。
けれど、人目のないところでは違った。
私の部屋にこっそり茶や菓子を置いてくださったこともあった。
私が困らないようにと、幼い頃から読み書きまで教えてくださった。
貴族の子女が、使用人に読み書きを教えることなど、決して多くはない。
けれど、お嬢様にとっては当たり前だったのだろう。
お嬢様は、私を一度たりとも「下女」として扱わなかった。
ずっと――
一人の小雪として接してくださった。
「……では、お言葉に甘えて」
私は茶碗を受け取った。
一口、口に含む。
「……美味しいです」
「でしょう?」
お嬢様が、ほんの少しだけ目を細めた。
それは笑顔と呼ぶには、あまりにも小さな変化だった。
けれど私は、それを見逃さなかった。
――お嬢様。
少しずつでいい。
どうか、もう一度笑ってください。
今度は、誰かのためではなく。
お嬢様自身のために。
「少しいいか?」
そんな声とともに、長淵様が天幕へ入ってきた。
お嬢様は手にしていた茶碗をゆっくりと置き、長淵様へ顔を向ける。
「どうされましたか?」
「実は……」
長淵様が言葉を濁した。
いつも穏やかな方なのに、今日はどこか様子がおかしい。
そして、少しの沈黙の後――
「東州を襲った不明軍の目星がついた」
その一言で、天幕の空気が変わった。
私は思わずお嬢様を見る。
心配だった。
ようやく少しずつ眠れるようになり、食事も取れるようになったお嬢様。
今、その傷口をまた開くような話を聞かされようとしている。
けれど、お嬢様の声は驚くほど冷静だった。
「……どこですか?」
「景国の黒曜軍だ」
「黒曜軍……?」
お嬢様はその名を繰り返した。
少し考えるように目を伏せる。
「以前、父上たちと共に作戦をしていた……あの黒曜軍ですか?」
「あぁ」
「……裏切った、ということですか?」
最後の言葉だけ、わずかに震えていた。
「あぁ」
長淵様は短く答えた。
その視線がお嬢様と重なる。
けれど、長淵様は耐えきれないように目を逸らした。
「そして……」
長淵様が続ける。
「黒曜軍を率いていた将軍は、あの左利きの矛使いだ」
一呼吸。
天幕の中が、異様なほど静かになった。
「……劉晟だ」
その名が落ちた瞬間――
お嬢様の指が、膝の上でわずかに震えた。
「劉晟……」
瑶月は、今にも消えてしまいそうな声で、その名を呟いた。
「……劉晟……」
その名を口にするたび、記憶の底に沈めていたあの日の光景が、鮮明になっていく。
左利き。
仮面。
父の右腕を斬り落とした男。
そして――
沈家へ入り込んだ、あの軍を率いていた男。
すべてが、一つに繋がった。
瑶月の瞳から、少しずつ温度が消えていく。
――あの男だ。
あの男が。
東州を壊した。
父上を。
母上を。
兄様たちを。
家族を、すべて奪った。
憎い。
許せない。
許せるはずがない。
これまで、何度も思った。
自分はこのまま死んでもいい。
家族のもとへ行けるなら、それでいい。
そう思っていた。
けれど――
今は違う。
瑶月はゆっくりと顔を上げた。
そして、小さな声で、しかしはっきりと言った。
「……劉晟」
一呼吸。
「――あの男だけは許せない。」




